六角義治と弟・六角義定 (六角次郎)の解説

六角義治(六角四朗)は1545年、観音寺城主・六角義賢の嫡男として生まれた。母は能登の戦国大名畠山義総の娘(名前不明)。
六角義定(六角次郎、佐々木次郎)は、六角義賢の次男として1547年に誕生した。
ただし、父の六角義賢は、最初の正室であった畠山義総の娘が早世した為、継室に、再度、畠山義総の娘(最初の正室の妹)を迎えており、そのその妹が生母にあたるが、その生母も1547年に早世した。

この頃の六角家は、第13代将軍・足利義輝細川晴元を援助して、三好長慶との戦が絶えなかったが、敗戦が続いた為、1558年に将軍・足利義輝と三好長慶の和睦を仲介した。


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その後、北近江の浅井久政の攻撃を受けて、父・六角義賢は撃退して浅井久政を降伏させると従属させた。

1559年、父・六角義賢が隠居して為、嫡男・六角義治(六角次郎)が家督継いだ。
しかし、実権は父が握っていたようで、1561年に河内の畠山高政と共闘して三好氏を攻めた際は、父に従い、弟・六角義定と共に京へ出兵している。

1563年、六角家の家臣の中でも特に人望のあった重臣・後藤賢豊と子の後藤壱岐守を、観音寺城内で兄・六角義治が誅殺(観音寺騒動)。

その為、六角家は動揺して、敵対している浅井長政に願える家臣も出る有り様で、兄・六角義治は一時、父・六角義賢と共に考えを同じくした家臣らに観音寺城を追われたが、その後、重臣・蒲生定秀・蒲生賢秀 親子らの尽力によって、復帰している。
その間、弟の六角義定が、六角家の当主になったと考えられている。
しかし、この一連の騒動により、六角家は衰退していく。

1565年、京で三好三人衆と松永久秀が将軍・足利義輝を殺害(永禄の変)。
父・六角義輝の弟・一乗院覚慶(のちの足利義昭)が六角氏を頼ると匿った保護したが、三好三人衆が管領職などを条件にして六角義治を調略した為、六角義治は覚慶(足利義昭)を追放した。

1567年4月28日、六角家の家臣らの主導により、主君の権限を抑える分国法である「六角氏式目」に六角義治が署名することを余儀なくされ、家督も強制的に弟の六角義定に譲らされたとされる。ただし、異説もある。

1568年、織田信長が侵攻して来ると、仇敵であった三好氏の協力を得て共闘。
三好三人衆の岩成友通らの援軍もあり、一度は織田勢の上洛を阻止させたが、織田信長は翌年、六角勢の抗戦体制が緩んだのを機に再侵攻した。
箕作城に父・六角義賢、兄・六角義治、弟・六角義定 (六角次郎)らは籠城したが陥落し、要害・観音寺城も落城。
六角家の者は、甲賀の山中に逃亡し、甲賀郡の石部城(鯰江城)に拠点を移し、残党を集めたが、やがて佐久間信盛に包囲されて落城。
しかし、死亡した記録はなく、うまく生き延びたようだが、詳しい動向はわかっていない。

父・六角義賢は、豊臣秀吉が天下を掌握すると御伽衆に加わり、豊臣秀吉が死去した1598年に死去している。享年78。

兄・六角義治(六角四朗)は、関白になった豊臣秀次が主催した犬追物に、弓馬指南役として出席しているのが確認できている。
豊臣秀吉の御伽衆として足利義昭・斯波義銀らと仕えたと考えられ、豊臣秀吉の死後は、豊臣秀頼の弓矢師範を務めた。
出家していたようで、1612年10月22日に死去。享年68。


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弟・六角義定 (六角次郎、佐々木次郎)は、六角家の書状を甲斐・武田氏の一族・穴山信君に送る使者としての活躍もあった事からか? 武田勝頼を頼っていたようで、織田信忠の1582年、甲斐甲州征伐の際、甲斐国内にその名が見受けられる。
これは、織田信長に敗れた勢力の当主で、武田勝頼を頼っていた武将の中に、若狭武田五郎(武田信景か?母は六角家の出)、犬山の織田信清、美濃の土岐頼芸(妻は六角義賢の妹)らの名と共に、佐々木次郎の名が確認できる。
この佐々木次郎は、弟・六角義定だと推定され、武田滅亡の際に六角義定が逃げ込んだ名刹・恵林寺が引き渡しを拒否した為「佐々木次郎を匿った罪」として、織田信忠が派遣した津田元嘉・長谷川与次・関成重・赤座永兼らによって、国師・快川紹喜ら僧侶を山門に閉じ込めて焼き討ちした。

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しかし、この時も逃れる事ができたようで、数年後に豊臣秀頼に面会した記録が残り、六角家を再興していた一族の六角義郷と面会した記録があり、1620年に死亡したとされる。

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