龍造寺政家と龍造寺高房~鍋島化け猫騒動と佐賀城訪問記


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龍造寺政家は、1556年、肥前の戦国大名・龍造寺隆信(村中城主、佐賀城主)の嫡男として生まれた。

龍造寺家は1185年に龍造寺村の地頭職に任じられて、村中城(佐賀城)を築いたのが発祥と考えられている。(龍造寺村の起源は常陸・筑波山の龍造寺の寺僧が九州に移り住んだからとも?)

龍造寺政家の母は龍造寺一族である龍造寺家門の娘。母は最初、18代当主・龍造寺胤栄に嫁いだが、1545年に馬場頼周により母の父・龍造寺家門が暗殺され、18代当主・龍造寺胤栄も1548年に病死した為、馬場頼周を討って龍造寺家を再興した龍造寺隆信が本家の家督を継いだ際に再嫁していた。

しかし、父・龍造寺隆信の家督継承に不満を持つ家臣も少なくなく、龍造寺隆信は、当時西国随一の戦国大名であった大内義隆と手を結び、大内家の力を背景に家臣らを抑え込んだ。この時、偏諱を受けて隆信と改名した。

1559年、父・龍造寺隆信が、かつての主家である勢福寺城主・少弐冬尚を攻めて追放し、肥前国4郡を支配。1560年には千葉胤頼も攻め滅ぼしている。

このように勢力を伸ばした龍造寺家であったが、豊後のが対抗する為1569年に肥前に侵攻。しかし、毛利元就と同盟していた龍造寺家では、重臣の鍋島信生(鍋島直茂)が籠城を進言し、毛利元就に豊前侵攻を頼んだ為、大友宗麟の大軍は撤退した。

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1570年には、大友宗麟は大友親貞を総大将に60000の大軍で佐賀城を攻めてきたが、軍師・鍋島直茂が家中が籠城に傾く中、夜襲を進言して夜襲隊を指揮し、奇襲攻撃すると大友親貞を撃破(今山の戦い)。
この為、有利な条件で大友宗麟と和睦とはなったが、事実上、大友宗麟に従属する形となっている。

この頃(15歳)だと推測できるが、龍造寺政家は大友宗麟から偏諱を受けて龍造寺鎮賢(しげとも)と名乗り、のちに龍造寺久家ほ経て、龍造寺政家と改名した。

父・龍造寺隆信と龍造寺政家は、大友宗麟の傘下のもと、周辺豪族を滅ぼし領地を着実に拡大していき、1573年には西肥前を平定。
1575年には北肥前を平定し、1576年には南肥前へ侵攻。
1577年までに大村純忠を降伏させ、1578年には有馬晴信も攻めて肥前統一を果たした。

これを機に、龍造寺政家(25歳)は父・龍造寺隆信より家督を譲られた。
父・龍造寺隆信 自は須古城で隠居したが、龍造寺家での政治・軍事の実権は握り続けたようだ。

龍造寺政家の正室は、日野江城主・有馬義貞の娘。有馬家は龍造寺家に臣従していた。

1581年、敵対した筑後の柳川城主・蒲池鎮漣を佐賀城で饗応した帰路に殺害すると、柳川の戦いでは残党を皆殺しにし、龍造寺家は九州の北部5ヶ国(肥前国、肥後国、筑前国、筑後国、豊前国)を制覇した。

1584年、有馬晴信が龍造寺家から離反すると、父・龍造寺隆信は龍造寺政家に有馬家討伐を命じた。
しかし、龍造寺政家の正室は有馬晴信の姉?妹?であった為、有馬家との戦いには消極的であった。
その為、父・龍造寺隆信が自ら有馬討伐に向かったが、有馬晴信・島津家久の連合軍と沖田畷の戦いで総崩れとなり壊滅。
鍋島信生の実弟・龍造寺康房、小河信俊をはじめ、重臣の江里口信常、百武賢兼、円城寺信胤、木下昌直らが討死した。
父・龍造寺隆信は肥満体で馬に乗れず、輿で逃走を図ったが島津勢に捕捉され、父・龍造寺隆信も命を落とした。

この為、龍造寺政家は島津家に降伏。
龍造寺政家が名実ともに龍造寺家の当主となったが、器に乏しく病弱だった為、この窮地に家臣らは「御家裁判」すなわち領国の支配・経営は、重臣・鍋島信生(鍋島直茂)に委ねるしかないとして、龍造寺政家は鍋島直茂に家宰として国政を担当させた。

1586年、龍造寺政家の四男・長法師丸(龍造寺高房)が誕生。

鍋島直茂は豊臣秀吉に早くから誼を通じて、島津家に恭順しつつも裏では九州征伐を促した。
この一連の動きを豊臣秀吉は高く評価し、1587年に九州平定すると、龍造寺政家は肥前7郡32万石を安堵された。

しかし、九州平定後に肥後で一揆が起こり豊臣秀吉から鎮定を命じられた際、龍造寺政家は「祈祷師が出陣すると危ないと言った。神社の楠の大木が倒れた。」などと釈明をして拒否した為、さすがの豊臣秀吉も怒るより呆れ果てたと言う逸話もある。
このような状態だった為、豊臣秀吉は鍋島直茂に直接、父郡の半分と高木郡内の所領45000石を与え、龍造寺政家に代わって国政を担うよう命令。
そのため、龍造寺家の実権は鍋島直茂が掌握する事となった。

この頃、龍造寺政家の娘が、新しく60000石で小倉城主となった毛利勝永に嫁いでいる。

龍造寺政家はじめ龍造寺一門は、肥前の支配権を龍造寺家に戻すべく、龍造寺高房の成人後に、藩政を龍造寺家に戻す旨の請文を、鍋島直茂に書かせ、龍造寺高房を鍋島直茂の養子にするなどの手を打ったが、鍋島直茂の肥前支配はより強固になって行った。
1588年、豊臣秀吉は、龍造寺政家に対し豊臣姓が下賜すると、1589年には鍋島直茂と嫡子・鍋島勝茂にも豊臣姓が下賜されている。

そして、小田原攻めの最中である1590年3月、豊臣秀吉の命を受けて、龍造寺政家は子である5歳の長法師丸(龍造寺高房)に家督を譲って隠居。
5歳の子に政治は当然無理で、国政の実権は鍋島直茂に正式に移譲された。

朝鮮出兵の際には、鍋島直茂が12000を率いて従軍し、子の鍋島勝茂も出陣した一方、隠居の龍造寺政家と子の龍造寺高房は軍役を免除された。軍役がないと言う事は、すでに大名として認められていないと言う事である。

1600年、関ヶ原の戦いでは、鍋島勝茂が当初西軍に属して積極的に参戦したが、鍋島直茂は東軍勝利を予測し、尾張方面の穀物を買い占めて米の目録を徳川家康に献上。
関ヶ原での本戦前に、鍋島勝茂とその軍勢を戦線離脱させ、鍋島直茂は九州で西軍に味方した小早川秀包久留米城立花宗茂の柳川城を降伏開城させた為、肥前国佐嘉35万7000石は辛うじて安堵された。

隠居した龍造寺政家の子・龍造寺高房は一諸大夫(徳川家康の人質)として将軍・徳川秀忠に江戸屋敷で仕え、国許から8000石が送られてくる状態であったが、龍造寺高房は江戸幕府に対して佐賀藩における龍造寺家の実権回復を働きかけた。
しかし、失敗して失望のうち、1607年3月3日、鍋島直茂を恨んで正室(鍋島直茂の養女で鍋島茂里の長女)を江戸桜田屋敷にて殺害し、自らも自殺を図った。その場で一命を取り留めたが、腹部からの大量出血がもとで9月6日に死去。(故郷で再び自害したとも? 自暴自棄となり自殺同然な死であったとも?)
息子の死にショックを受けた父・龍造寺政家も、10月2日に後を追うように病死した。(52歳)

子の為、江戸幕府は佐賀藩・龍造寺家の家督について、国元から龍造寺一族を呼んで質疑を行ったが、一門は鍋島勝茂こそ佐賀藩を継ぐに相応しいと答えた為、鍋島勝茂が龍造寺家の家督を引き継ぐ形で、佐賀藩35万7千石を手にすることとなった。

龍造寺家の実権を奪り権勢を誇った鍋島直茂は、1618年6月3日に81歳で亡くなったが、晩年は耳に腫瘍ができて激痛に苦しんだ上で悶死であった為、龍造寺高房の亡霊のしわざではないか?と格好の噂となり「鍋島化け猫騒動」などの話として伝えらる事となった。

佐賀城

佐賀城(さがじょう)は、別名を、村中城、佐嘉城、栄城、沈み城、亀甲城と言う輪郭梯郭複合式平城です。

いくつもの外堀が巡られており、敵が攻めてきた場合には、主要な部分以外は「水没」させることができる仕組みになっていた為「沈み城」とも呼ばれます。

もともとは、龍造寺家の本拠地で、1569年に大友宗麟が筑後・吉見岳城に本陣を置いて佐嘉へ攻め込んでいます。
この時は、村中城(佐賀城)が包囲されますがは和議となりました。

そして、再び、1570年に大友宗麟が大軍を派遣した際には、龍造寺隆信が村中城(佐賀城)に籠城しています。
この時、鍋島直茂が夜襲に撃って出て、今山の戦いとなり、総大将・大友親貞を討ち取りました。

その後、龍造寺家の実権を握った鍋島直茂が実質的な政務をすべて取り仕切り、1600年、関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方し、久留米城主・小早川秀包、柳川城主・立花宗茂を攻略するなどした功績により、所領が安堵されています。
鍋島直茂は1602年から村中城を拡張する形で大改修を開始し、鍋島勝茂の時代となる1611年に佐賀城が完成しました。

村中城の本丸があった場所は、佐賀西高校一帯と考えられています。
ここでお断りしておきますが、撮影した写真は大雨警報中で、大粒の雨が写真に入り込んでいます。ご了承願います。

天守台には4重5階の望楼型天守がありましたが。1726年(享保11年)に焼失したあと再建されることはありませんでした。
下記は佐賀城の天守台への入口で、実際に天守台まで登れます。

下記は佐賀城の鯱の門で国の重要文化財です。
鯱の門は、1836年に再建された現存遺構で、本丸の表門となります。

鯱ノ門の「鯱」(しゃち)は、瓦ではなく、細かくした銅版を貼り付けると言う加工が施されています。

テレビを見ていますと、たまにしゃちほこは天守だけにあると言う間違いにて説明されたりしますが、このように、寺院や一般家屋でも屋根に用いられる事があります。
銅板の代わりに金板を貼れば、金の鯱と言う事です。

門の扉には、明治7年(1874年)の江藤新八を中心にした「佐賀の乱」での銃弾跡が無数にあります。

南西隅櫓台は、六角形に整形した石を使う亀甲積(亀甲乱積)と言うもので大変珍しいです。

佐賀城本丸歴史館では本丸御殿が復元されいます。

建物の入り口前には、大砲の模型も置かれていました。

有料でもおかしくないのですが、建物内部は「無償」で公開させています。

ただし、藩主の居間「御座間」は残存建物です。
これは10代藩主・鍋島直正が再建したもので、藩主の居間として使われていました。
のち、大木公園に公民館として移築されていたものを、本丸御殿復元り際に再度移築したと言う事になっています。

本丸御殿の建物内部は、撮影が許可されている展示物で、撮影禁止の展示物がありますので、ご注意願います。

本丸御殿は入場料無料ですが、出口に「募金箱」が設置されており、満足度に応じた寸志制となっているのもなかかな良い趣向です。

佐賀城へのアクセス・行き方ですが、下記の地図ポイント地点が無料駐車場の入口となります。

下記は佐賀・高伝寺にある龍造寺政家の墓(龍造寺肥前守政家の墓)です。

下記は龍造寺高房の墓(龍造寺駿河守高房の墓)となります。

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