佐野信吉と佐野城~佐野城の立派な大堀切と訪問記


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佐野城(さのじょう)は、標高56m、比高20mの平山城で、春日岡城・春日城・姥城(うばがじょう)とも呼ばれます。

佐野城は、徳川家康関ヶ原の戦いで勝利したあとの1602年から佐野信吉(さの-のぶよし)が築城開始した近世城郭です。

佐野信吉は、1566年に富田一白(富田長家)の5男として生まれましたが、北条滅亡後に唐沢城主・佐野房綱(さの-ふさつな)の養女(佐野宗綱の娘)と結婚して佐野家の養子となり、1592年9月22日に家督を継ぎました。
「吉」の字は豊臣秀吉の偏諱で、豊臣姓も下賜されていますので、それなりに優秀な武将であったことが伺えます。

1600年の関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方したので、所領を安堵されました。

そもそも、佐野氏は唐沢山城と言う立派な山城が本拠地でした。
しかし、徳川幕府の命にて唐沢山城を廃城にすることになり、佐野城を築城したのです。

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佐野城を築く春日山には惣宗寺がある丘でしたが、築城するにあたり、寺を移転させています。
その惣宗寺は現在でも多くの信仰を集めている「佐野厄除け大師」と呼んだ方が分かりやすいでしょうか?

まだ築城途中の1607年に佐野信吉は佐野城に入りましたが1614年に、佐野信吉は改易(所領没収)されています。

唐沢山城から江戸の街で火災が発生しているのが見えたとき、佐野信吉が早馬を飛ばして江戸に駆け参じたので、江戸城を見下ろせる所に城を構えているとは何たることだと言う話になり、唐沢山城を廃城にするよう命が出たとする「江戸大火展望説」がありますが、これはどうも、1614年3月の江戸の火災があった時の話のようです。
すなわち、江戸で変事があった時に、すぐに駆けつけられると言う状況が危惧されたようで、伊予・宇和島城主の兄・富田信高が改易された時に連座する形で、1614年7月に改易されました。

佐野信吉は、嫡男・佐野久綱とともに信濃・松本藩に預けられましたが、1622年に赦免されています。
しかし、江戸に移るも1622年2月19日に亡くなりました。

上記は佐野城の二の丸です。

子の佐野久綱は1638年に幕府に召し出されて、子孫は3500石の旗本寄合となっています。

下記は佐野城の大堀切です。

他にも曲輪跡や堀切・水掘・土塁などが残されています。

ちなみに、佐野厄除け大師の山門は、佐野城の城門を移築したものとされているそうです。

佐野城の見学所要時間は30分前後です。

無料駐車場は2箇所ありますが、佐野駅まで徒歩1分であることから、夜間は閉鎖されます。
下記の地図ポイントが無料駐車場の場所ですが、その脇にある登り道の上にも数台止められる駐車場があります。

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