簗田晴助とは~関宿城主~上杉家と北条家と言う勢力への対抗


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 関宿城(せきやどじょう)は、1457年に古河公方の筆頭家老・簗田満助または簗田成助が築城した城。
 場所は、利根川と江戸川が合分流する地点であり、古くから水上交通の要所で「舟役」と呼ばれる通行税収入も得られた。
 

 小田原城主・北条氏康は、関東平定において「関宿を抑えるという事は、一国を獲得する事と同じである」とまで評したほど、関東の中心における最重要拠点であった。

 1558年、北条家に屈していた足利義氏が関宿城に入ると、簗田晴助は関宿城を明け渡して古河城主となった。
 1560年に上杉謙信上杉憲政を復帰させる名目で関東に出陣し、1561年に小田原城を包囲した際には、古河城の簗田晴助も上杉家に従ったため、関宿城の足利義氏は千葉胤富を頼って下総小金城、上総佐貫城に逃亡。。
 1562年、北条氏康が関宿城を奪還すると、簗田晴助を関宿城に戻したが、完全に簗田晴助を屈服させるには至っていなかった。

 北条氏康は太田氏資の内応で岩槻城を手に入れると、簗田晴助への圧力を強めて、1565年、太田氏資とともに関宿城を攻めた(第一次関宿合戦)。
 北条氏康は自らから指揮して、城下・内宿に放火するなどし肉薄したが、簗田晴助は伏兵により撃退するなどし、関宿城の陥落には至る前に上杉謙信が関東に再び出陣。

 1566年からは和睦交渉が始まり、簗田晴助は相馬治胤の守谷城と交換ならと交渉は進んだ。
 しかし、1568年に滝山城主・北条氏照が野田氏の栗橋城を摂取すると、再び関宿城で戦となった(第ニ次関宿合戦)。
 北条氏照は関宿城の北1kmに山王山砦、他にも不動山砦を築き、関宿城は陥落まであと少しと迫ったが、武田信玄が駿河侵攻したことで甲相駿三国同盟が破棄され、北条家は外交政策を方針転換し、上杉謙信と和睦したため、上杉の息が掛かる関宿城攻撃は中止された。
 そして、孤立した簗田晴助は武田信玄に接近したが、北条氏康が亡くなると北条氏政は武田信玄とも同盟したため簗田晴助は完全に孤立した。

 1573年、北条氏照が関宿城を夜襲するが失敗。
 1574年、北条氏照が再び関宿城に押し寄せたため、簗田晴助は上杉謙信に救援を依頼。(第三次関宿合戦)
 上杉謙信は武蔵羽生まで出陣したが、利根川の増水などで渡河できず撤退。そんな中、関宿城では横田孫七郎ら内通者を成敗するまで混迷を極めていた。
 北条氏政は北条氏邦北条氏規ら16000を率いて関宿城攻略を本格的に開始すると、江戸城主・遠山直次、臼井城主・原胤成、小金城主・高城氏、結城城主・結城晴朝、守谷城主・相馬治胤などが続々と加わり30000の大軍になったと言う。
 上杉謙信は再び関東に出陣すると、忍城騎西城菖蒲城などの城下を焼き討ちして下野藤岡の沼尻まで接近したところで、協力していた佐竹義重がまた北条家と和睦するのではと警戒して退陣。北条家は相馬治胤を逆井城付近に展開させるなどし、上杉勢を防いで関宿城を総攻撃した。

 先陣は北条氏照、第二陣は松田左馬介、搦手は結城衆・千葉衆が担当。
 関宿城内には佐竹家より加勢した根本太郎忠治、木造清左衛門、木造伝吉、近見新六郎などが奮戦したが、北条氏照の家臣・津野戸半左衛門と清水藤五郎が城の塀をよじ登って「我等が一番乗りぞ」とわめいた。
 北条氏照は「津野戸を討たすな、続けよ者共」と采配したが、関宿城内から矢玉が多数飛び、寄せ手は被害甚大となり、日没したこともあって一旦兵を退いた。
 搦手では、結城家の簗田民部少輔、羽石右京亮、槇島主水佐らが奮戦。遠山左衛門佐、同丹波守、河村兵部少輔、千葉次郎胤宗らは塀下まで舟で漕ぎ寄せて攻めた。
 千葉次郎胤宗は一番乗りをして塀を越えようとしたところ、関宿城内より鉄砲に撃たれ塀から落ちて菊間図書助に首級を取られたと言う。

 しかし、関宿城では兵糧・弾薬も乏しくなり、簗田晴助と簗田持助は佐竹氏を頼って、関宿城から退去して水海城に移った。
 これにより、関宿城は北条家の関東における重要拠点となり、関東諸侯の信頼を失った上杉謙信は、以後関東に出てくる事はなかった。

 その後の関宿城は、先に北条家に臣従していた簗田助縄が城主となる。

 1590年、豊臣秀吉小田原攻めで、北条家は滅亡。
 この時、忍城、岩槻城などには豊臣勢の大軍が押し寄せたが、関宿城は無血開城したものと考えられる。
 関宿城主・簗田助縄と、水海城の簗田晴助も、領地を没収されている。

 徳川家康が江戸城に入っても、関宿城の重要性は変わらず、異父弟・松平康元を関宿に入れるなど、江戸時代には老中クラスの大名が城主を歴任し「出世城」と呼ばれ、幕末には老中・久世広周などの名が見られる。
 しかし、利根川と江戸川の分岐点と言う事もあり、洪水対策も必要な土地柄であり、現在は利根川のスーパー堤防により、昔の城域の多くは失われ、現在は下記の本丸があった場所がかろうじて残されているだけとなっている。

 近くに千葉県立関宿城博物館があり、その建物は模擬天守となっているが、これは1671年に関宿城の天守代用として建造された「御三階櫓」と呼ばれる、江戸城の富士見櫓を模して再建された櫓を模したものだが、実際にあった関宿城の場所とは違ったところに建っている。

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