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仙石秀久(せんごく-ひでひさ)は、斎藤道三に仕えている美濃の土豪・仙石久盛(仙石治兵衛久盛)の4男として、1552年1月26日に加茂郡黒岩(加茂郡坂祝町)にて生まれた。
母は不詳。

仙石秀久は4男であったため、他家に養子に出される事となり、叔母の夫で越前に住む萩原国満の養子となった。
しかし、兄が相次いで亡くなったため、仙石家に戻されると家督を継いで、斎藤龍興に仕えた。

美濃に織田信長が侵攻して来ると1564年頃に仙石秀久は織田家に寝返ったが、織田信長はまだ若い14歳の仙石秀久をたいそう気に入り、木下藤吉郎の寄騎を命じた。

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この頃の木下藤吉郎の配下の者は、蜂須賀小六(蜂須賀正勝)といった野武士や半農兵がほとんどであったため、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)にとっては大変貴重な由緒ある武士を始めて家臣に迎えたことになる。
そのため、仙石秀久は豊臣秀吉の最古参の家臣とされ、羽柴秀吉の出世と共に、仙石秀久も出世して行く事になるが、最も、仙石秀久が身分卑しい木下藤吉郎のもとで働き始めた事を考えると、仙石秀久の人柄がわかるような気がする。

1570年の姉川の戦いにも参加しているが、竹中半兵衛が羽柴秀吉の家臣に加わるまで、仙石秀久が秀吉隊の参謀・軍師的な役割も担っていたと考えられる。
姉川の戦いでは、自ら槍を持って戦い浅井長政の家臣・山崎新平を討ち取るなどの活躍をし、羽柴秀吉が長浜城主になると1574年には近江野洲郡に1000石を与えられた。

正室は羽柴家の家臣で美濃出身・黄母衣衆でもある野々村幸成の娘・本陽院(野々村正成の姪で再婚)。
側室には甲斐から来た浪人・竹村新兵衛の娘・慶宗院を迎え、合計で10男6女を儲けている。

羽柴秀吉の中国攻めにも参陣し戦功を挙げ、1578年には4000石が加増された。

この1578年、荒木村重を説得する為に有岡城へと出向いた黒田官兵衛が音信不通となり、小寺政職と同調して離反したと判断された黒田官兵衛の残党を、仙石秀久が引き受けて面倒を見ている。
播州平定戦では父である後藤基国が別所長治に付いた事から、居場所を失った後藤又兵衛(後藤基次)もこの時、仙石秀久が引き受けている。

1579年には神戸の茶臼山城主(上津城主)となり、同時に有馬温泉を統括する湯山奉行となった。

1581年には黒田官兵衛(黒田孝高)らの助けも借りて、淡路島に渡ると岩屋城・由良城を陥落させ、淡路島の国権を委ねられた。

1582年6月、明智光秀の謀反により織田信長が本能寺の変で死去すると、仙石秀久は淡路島にて決起した菅達長ら豪族を討伐し、淡路平定に貢献した。

清洲会議を経て、柴田勝家と賤ヶ岳の戦いとなると、仙石秀久も羽柴秀勝と共に12番隊の将として参戦する予定であったが、柴田勝家に内応した長宗我部勢の抑えの為に急遽、土地勘がある淡路島へと出兵し、長宗我部元親と対峙した。

洲本城に入った仙石秀久は小豆島を占拠し、旧三好一族の十河存保が救援を求めた四国本島へ後詰めに入った(第二次十河城の戦い)。

仙石秀久は高松頼邑が守備する喜岡城を攻めたが落とせず、四国から撤退し、讃岐・引田から上陸して引田城まで退却した。

1583年4月21日、引田城に長宗我部勢の香川信景らが来襲した為、仙石秀久は伏兵で迎え撃ったが、兵力に勝る香川信景らに攻め込まれ、更に駆けつけた長宗我部勢の援軍により、4月22日に引田城から仙石秀久は敗走し淡路島に撤退した(引田城の戦い)。
この敗戦に孤立した十河存保は十河城や虎丸城を奪われて大阪へと逃れている。

四国勢と睨み合う間に、賤ヶ岳の戦いにて柴田勝家に勝利した羽柴秀吉は、淡路平定の功績を認めて、仙石秀久を洲本城主とし淡路5万石を与えた。

淡路受領後は淡路水軍、小西行長、石井与次兵衛、梶原弥助らの水軍をまとめ、紀州征伐では根来寺を焼き、中村一氏、小西行長らと共に太田城を攻め、逃げる湯河直春、湯河教春らの討伐でも軍功を挙げた。

羽柴秀吉の四国攻めの際には総大将は羽柴秀長が担当し、副将・羽柴秀次、先鋒大将・黒田官兵衛(黒田孝高)となったが、仙石秀久は宇喜多秀家、蜂須賀正勝と共に黒田官兵衛の先鋒隊に加わって喜岡城を攻略して高松頼邑を討ち取り、木津城攻めでにて城の要を抑えて水源を絶つなど活躍した。

1585年、四国攻めの功績により、讃岐国13万石(ただし2万石は十河家領)を与えられ、聖通寺城(聖通寺山城、宇多津城)そして高松城に入城した。
なお、長宗我部元親には土佐、阿波は蜂須賀小六(蜂須賀正勝)の予定であったが、嫡子・蜂須賀家正が封じられ、山田2群は十河存保、伊予は小早川隆景、淡路島は脇坂安治が津名郡3万石、加藤嘉明が津名郡と三原郡の15000石となっている。

1586年、豊臣秀吉の九州攻めが始まると、十河存保や長宗我部元親・長宗我部信親ら四国勢の軍監として先陣した仙石秀久であったが、府内城に入った先陣の総勢は6000程度で、しかも織田信長の時代から互いに争ってきた仇敵同士であり結束も薄かった。
更に、豊臣勢で2万を有する大友義統も、有力家臣を失っていた事もあり、あっさり島津軍の猛攻に豊後を明け渡して撃退され、出迎えた大友勢も道案内役の戸次統常が率いるわずかな兵だけで、戦力としては期待できない状況にもなった。

豊臣秀吉も仙石秀久に対して、豊臣本隊が到着するまで待つようにと命を出したが、府内城が島津家久島津義弘に挟撃される恐れもあったことから、仙石秀久の独断で冬季の戸次川を渡り進軍を試みた。
1586年12月12日早朝、思うように川を渡れない中、島津家久率いる1万に遭遇してしまい、戸次川の戦いとなる。

島津勢は伏兵を用い敗れたふりをして後退すると言う得意の「釣り野伏せ」の戦術を駆使し、深追いした仙石秀久は壊滅的な打撃を受けて壊滅した。
第2陣の長宗我部信親と十河存保隊も総崩れとなり両名が討死。
第3陣の長宗我部元親は、戦いに参加することもできず伊予へ敗走し、万策尽きた大友義統も豊前に逃走した。

仙石秀久は、豊臣秀吉の命令に従わなかったこと、そして軍監として責務を果たさず小倉城へ撤退し、更に残存兵を置いて、家臣20名と讃岐に戻ったことも不名誉とされ「三国一の臆病者」と、讃岐国は召し上げ・高野山に蟄居と言う処分となった。

高野山にて謹慎していた仙石秀久であったが、1590年に豊臣秀吉の小田原攻めが始まると、3男・仙石忠政と共に美濃で旧臣ら20名を集め、浪人衆を率いて豊臣秀吉の元に参陣した。
この時、徳川家康が仲介をし、仙石秀久は徳川勢から陣借りしている。

仙石秀久は糟尾の兜と白練りに日の丸を付けた陣羽織を着込み、更に陣羽織にわざわざ「鈴」を付けて、敵に分かり易くしたと言う。
そのため「鈴鳴り武者」という異名を取っている。
紺地に「無」の字を白く出した馬印を眞先に押し立て、常に先鋒を務めると、自ら十文字槍を繰り山中城の戦いで活躍した。
小田原城早川口攻めでも、虎口の1つを占拠するという抜群の武功を挙げている。

その後、豊臣秀吉との謁見を許されると忠勇を賞されて、豊臣秀吉が使っていた金の団扇を手渡しで下賜されたと言う逸話があり、現在の上田市立博物館に金団扇が現存している。
ちなみに、仙石秀久の後任として九州征伐の軍監となった尾藤知宣は、やはり失態を犯して改易され、同様に小田原征伐にて復帰を嘆願したが、むしろ豊臣秀吉の怒りを買い斬殺されているのを考えると、徳川家康の取り成しが大きかった事が伺える。

豊臣秀吉に許された仙石秀久は、小諸城主として50000石となり大名に復帰。
なお、豊臣秀吉に忠義を示す為、ほとんど京に滞在していたとされている。

1592年の朝鮮攻めでは、名護屋城の築城で活躍したことが認められて、従五位下・越前守に叙任された。
1594年には、伏見城の築城にも関わり、7000石が加増されている。
この時、伏見城では大盗賊・石川五右衛門を捕縛したとの伝承があり、石川五右衛門が盗もうとしていた大名物「千鳥の香炉」を豊臣秀吉が褒美として与えたとされている。
明治維新にて、仙石家は新政府軍に協力したことで子爵を賜ったが、明治5年にこの香炉を明治天皇に献上した。

1598年8月、豊臣秀吉が亡くなったが、早くから仙石秀久は陣借りの大恩がある徳川家康に協力している。
1600年、関ヶ原の戦いでは、次男・仙石秀範が西軍の石田三成に与したため、戦後に廃嫡・追放しているが、仙石秀久は中山道を進む徳川秀忠を良く補佐した。
真田昌幸との第2次上田城の戦いでは、仙石秀久が自ら真田家の人質となるので、徳川秀忠には早く徳川家康と合流するよう勧めた。
また、遅参した徳川秀忠の弁明にも身を挺して奔走したことから、徳川秀忠が将軍になると重用されるようになっている。

小諸藩主となった仙石秀久は、小諸城を近代城郭へと改修し、街の整備も行うなど、外様ながら徳川幕府からの信頼も厚く、仙石秀久が江戸に参勤する際には、例外的に道中にて妻子同伴が許され、また、幕府の上使が板橋宿まで迎えに来ていたという。

1614年、江戸から小諸城へ戻る途中の鴻巣で病に倒れ、1614年5月6日に死去した。享年64。
小諸の西念寺で荼毘に付され芳泉寺に葬られたが、鴻巣・勝願寺にも分骨され、真田信之の正室・小松姫の墓と共に並んでいる。

なお、追放された3男・仙石秀範は、浪人したあと1614年の大阪の陣では豊臣勢に加担し30000石を豊臣秀頼から与えられた。
しかし、大阪夏の陣では真田幸村(真田信繁)らと一緒に戦うも丹波に逃亡したとも、敗れて討死したとも言われている。
なお、岳父である野々村幸成も大阪城にて豊臣家と運命を共にしている。
ちなみに、2代藩主となった3男・仙石忠政は、徳川勢として、大阪夏の陣の天王寺・岡山の戦いにて、真田信繁、毛利勝永らと交戦し、苦しみつつも11の首級を上げている。

仙石家はその後、小諸藩から上田藩、さらに但馬出石藩に移封されたが幕末まで続いた。

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