島原の乱と天草四郎~ポルトガルの支援を待った70日に及ぶ原城籠城戦


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原城(はらじょう、はるのじょう)は、長崎県南島原市の有明海に面した梯郭式平山城で、本丸の標高は31mです。
別名は、春城、志自岐原城、日暮城、有馬城とも呼ばれ、国の史跡に指定されています。

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最初の築城は、1496年、肥前の戦国大名・有馬貴純が、本拠地である日野江城の支城として「原城」を築いたようです。

1614年7月、日野江藩主・有馬直純が自らの志願で移封したあと天領でしたが、1616年に松倉重政が日野江城に入城します。
この時、松倉重政は島原城を築城開始したため、日野江城と共に原城も廃城となり、石垣や構築物は転用されたとされます。

しかし、1637年から1638年にかけて「島原の乱」となり、支城に過ぎなかった原城が再び注目を浴びる事となりました。
各写真はパソコンでクリックすると拡大致します。

松倉勝家の島原藩の領民と、唐津城主・寺沢堅高が飛び地として領た肥後・天草諸島の領民が日本の歴史上、最大規模の一揆「島原の乱」を起こします。

島原の乱

島原の乱(しまばらのらん)は、島原・天草の乱、島原・天草一揆とも呼ばれる日本最大の一揆です。

これは、小西行長佐々成政・加藤忠広の改易により大量に発生していた浪人や、旧有馬家の家臣らが帰農していたのですが、島原城の新築、江戸城改築の普請、また圧政や重税に苦しみ耐えかねて、領民(百姓)らと蜂起したものです。
天草はキリシタン大名・小西行長、島原は同じくキリシタン大名の有馬晴信の領地だったこともあり、弾圧を受けていたキリシタン(切支丹)も、この一揆計画に加わります。

注意したいのは、もともと農民の計画にキリシタンも加味したと言う事で、キリシタンが起こした一揆ではないと言う事です。
そして、最初から原城に籠った訳ではありません。

島原の乱の首謀者らは、湯島(談合島)にて密談をし、キリシタンの間で人気だった当時16歳の少年・天草四郎(本名:益田四郎時貞)を一揆の総大将とし、寛永14年(1637年)10月25日に蜂起しました。
有馬村のキリシタンを中心に、代官・林兵左衛門を殺害したのです。
天草四郎は小西行長の家臣の子孫とも言われています。

肥前島原藩の2代藩主・松倉勝家は直ちに討伐軍を出し、深江村で一揆勢と戦いますが、島原城へ戻ると籠城します。

一揆勢は、島原城下を焼き払い、天草でも天草四郎が蜂起して本渡城など攻撃しました。
また、唐津藩兵が篭った富岡城も、残すは本丸のみと言う所まで、陥落寸前となっています。

反乱を知った江戸幕府は、上使として御書院番頭・板倉重昌、副使・石谷貞清を派遣します。

これに対し、援軍の期待ができない一揆勢は、有明海を渡って島原半島の廃城・原城に集結し篭城しました。

正確な数は不明ですが、一般的には37000人とされています。
一揆勢は原城を修復し、藩の蔵から奪った武器弾薬、食料を運び込み、討伐の攻撃に備えたと言い、鉄砲は2千丁あったとされます。

なお、一揆勢は全国各地の使者を派遣しており、キリスト教に縁が深いポルトガルの援軍を期待していた伏しもあるようです。
そのため、海辺の原城にて籠城したとも考えられます。

下記が原城の縄張り図と言うよりは幕府軍の布陣図です。上が海側(東側)となります。

討伐軍としては九州の諸大名も動員されましたが、柳生宗矩が板倉重昌の派遣を反対したと言われているように、15000石の小藩である板倉重昌の命令に従う大名は少なく、原城を攻略は何度も失敗しました。
事態を重く見た徳川幕府では、討伐上使を老中・松平信綱、副将格を戸田氏鉄らに代えることを決定します。

焦った板倉重昌は松平信綱が到着する前に、原城の一揆勢を平定しようと、1638年1月1日の正月に再び総攻撃を行いました。
しかし、連携不足もあり約4000人ともいわれる死傷者を出し、総大将の板倉重昌も鉄砲を受けて討死してしまいます。

幕府は水野勝成と小笠原忠真にも出陣を命じ、松平信綱率いる諸藩としては、黒田忠之(家臣には黒田一成)、有馬豊氏、立花宗茂・立花忠茂、松倉勝家、寺沢堅高、鍋島勝茂、細川忠利、有馬直純、小笠原長次(家臣には宮本武蔵)、松平重直、山田有栄(島津家の家老)ら約12万5800が原城を包囲しました。

これに対する一揆勢は、総大将・天草四郎時貞を筆頭に、原城本丸は有馬氏旧臣の有家監物入道休意、評定衆としては小西氏旧臣・益田好次、有馬氏旧臣・蘆塚忠右衛門、天草の元庄屋・渡辺伝兵衛、> 加藤氏家臣の子・赤星内膳、惣奉行として小西氏旧臣・森宗意軒、原城本丸番頭には有馬氏旧臣・山田右衛門作、浮武者頭として小西氏旧臣・大矢野松右衛門という布陣だったと言いますが、その数37000です。

望月与右衛門ら甲賀忍者が、原城内に潜入して調査した結果、兵糧が残り少ないことから、老中・松平信綱は兵糧攻めを行います。

また、海からはポルトガル船2隻より、砲撃を行わせ、キリシタンが、僅かに期待していたポルトガルが、幕府側についたことをアピールし、一揆勢の士気を低下させました。
そして、降伏を何度も促しますが、天草四郎らはすべて拒否します。

そして、包囲が長引くと、幕府の威信にも関わることから、老中・松平信綱は総攻撃を行う事に決します。
鍋島勝茂の抜け駆けで、攻撃予定日の前日に攻撃が開始されると、諸大名も続々と攻撃開始しました。

この総攻撃で原城は落城し、天草四郎は討ち取られ、島原の乱は鎮圧されるに至ります。
反乱軍への処断は苛烈を極め、老若男女約37000人はすべて首を討たれたとされ、生き残ったのは内通者であった山田右衛門作(南蛮絵師)ただ一人だったと言われています。

天草四郎ら首謀者の首は、長崎・出島にあるポルトガル商館前に晒されました。
下記は原城の本丸にある天草四郎の供養碑です。

下記の写真は本丸にある左分利九之判官氶の碑です。

左分利九之判官氶は、佐分利九之丞成と言う武将で、幕府の要請を受けて鳥取藩88名を佐分利九之丞が率いて参陣していました。
勇猛果敢に戦ったそうですが、1638年2月27日に本丸付近にて討死したとあります。
この功績により子孫は1000石が加増されたそうです。

原城はかなり広大な城域を持つ城で、下記は本丸からだいぶ離れた三の丸の櫓の跡です。

1638年の正月に戦死した板倉内膳正重昌の古碑が建立されていました。

島原藩主の松倉勝家は、領民の生活が成り立たないほどの年貢を取り立てた罪と、一揆を招いた責任を問われて改易(所領没収)とにり、のち斬首となっています。
天草を領有していた寺沢堅高も責任を問われて、天草領地は没収されましたが、寺沢堅高は精神異常をきたして自害し寺沢家は断絶しました。
抜け駆けをした佐賀藩主・鍋島勝茂も、6ヶ月間の閉門処分となっています。

原城は幕府によって残存する石塁などの徹底的に破却され、一国一城令で廃城となっていた全国の城も、更に破却が進められたと言います。

島原の乱後、天草の再建には、山崎家治が4万石にて富岡城に入りましたが、住民のほとんどいなくなり、無人地帯と化した地域の復興は大変だったようです。
しかし、その功績が認められ、3年後、山崎家治は讃岐・丸亀藩5万3000石となり、讃岐・丸亀城へ移りました。

その後、天草は幕府直轄領(いわゆる天領)となり、代官として鈴木重成が赴任します。

唐津藩主の寺沢広高・寺沢堅高の2代にわたって疲弊を極め、荒廃していた天草を、鈴木重成は再検地を実行しました。
その結果、4万石とされていた石高を21000石に修正するよう、何度も幕府に願い出たと言います。
しかし、幕府は前例がないとして拒絶したため、鈴木重成は江戸自邸にて、石高半減の願書を残し1653年に切腹して果てたとされていすま。

この鈴木重成の行為は、やがて天草の領民に伝わり、皆号泣して感謝したと伝わり、鈴木重成を奉った鈴木神社などで天草の人々の信仰を集めました。
代わりに入った代官となる養子の鈴木重辰も、天草の現状を鑑み、石高半減を幕府に再三に訴えたため、1659年になって、ようやく幕府は認めたそうです。

下記のホネカミ地蔵は、江戸時代の1766年に、有馬村・願心寺の注誉住職が、原城一帯に散乱していた人骨を集めて供養したものです。

国指定史跡となっている原城跡からは、発掘調査で惨殺された一揆軍の大量の遺骨、鉛の弾丸、クルスの他、万人坑などが出土しています。

さて、原城への行き方・アクセスですが、雲仙普賢岳がある島原半島のだいぶ南側ですので、かなり遠いと言う印象です。
しかし、長崎空港からレンタカーですと、約90分で来れました。
また、島鉄バスの原城前バス停から徒歩15分ですが、当然、電車やバスは本数も少ないので、遠方からお越しの場合には、レンタカーなどが良い選択となるでしょう。

下記の地図ポイント地点が、原城の駐車スペースです。
道はちょっと狭いですが、本丸の近くまでクルマで入れますので、見学は便利です。

さて、原城の観光所要時間ですが、本丸付近だけでしたら30分ほどです。
しかし、二の丸・三の丸も散策すると、何時間も掛かりそうです。
三の丸方面と本丸は歩くと約900m、片道10分かかります。

首塚

雲仙市愛野町に首塚があります。
直径10メートル、高さ5メートルほどで、周りはジャガイモ畑になっています。

墳丘の下に置かれている小さな自然石には「首塚」と彫られています。

島原の乱にて原城で抵抗した信徒1万の首級をここ愛野首塚に埋めたという説があります。
しかし、原城からはかなり離れた地点ですので、その信憑性はなんとも言えません。
もっとも、キリシタンの1万の首を、3つに分けて、長崎の西坂、天草の富岡、そしてここ愛野町の愛津にと3ヶ所に分散して埋めたとも言われています。
別の説では、一揆軍と江戸幕府追討軍の双方の戦死者を葬ったとも言われています。
ただし、古墳時代後期6~7世紀の頃の、豪族の古墳ではないかという説もあり、確かに円墳のような気も致します。
発掘調査でもすれば、白黒ハッキリするとは思いますが、島原半島の切支丹と地元の方々は信じておられるようです。

愛野首塚がある場所ですが、Yahoo!地図を信じて訪問しましたら、墓地に入ってしまい、見事に迷いました。
正確には下記の地図ポイント地点となります。

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