下曽根信照・下曽根信正・下曽根信由と下曽根氏の墓がある信照寺


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磯部・信照寺(しんしょうじ)は下曽根信正(下曽根三右衛門信正)が1599年に創建した真言宗豊山派の寺院で、ご本尊は阿弥陀如来です。

父・下曽根信照(下曽根中務大輔信照)の菩提を弔う為に建立し、下曽根家の菩提寺としたようです。

そもそも、この下曽根氏は、清和源氏・源義光を先祖に持つ名家・曽根氏であり、源頼朝に協力していました。

その後、室町時代に血脈が絶たれましたが、甲斐・武田家第14代当主である武田信重が、名門・曽根家の断絶を嘆いて、子の武田基経を八代郡曽根郷に入れて、曽根家(曾根氏)を再興させました。
この武田基経が曽根基経と称しています。
そして、武田基経(曽根基経)の弟・武田賢信(武田賢範)も、曽根氏を称したのですが、この曽根賢信(曽根賢範)は、兄の曽根家と区別する為「下曽根」(下曾根)と名乗ったとも言われています。

すなわち、曽根氏や下曽根氏は武田一門衆(親族衆)となります。

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武田家臣での有名な曽根氏としては、武田信虎武田信玄に仕えた曽根虎長がいます。
その子である曽根昌世は、1569年、三増峠の戦いにおいては、浅利信種勢の軍監を務め、浅利信種が討死すると軍勢の指揮を見事に引き継ぎ、武田勢の殿(しんがり)を果たしています。
また、真田昌幸の兄・真田昌輝と共に、武田信玄から「昌世と昌輝は我が両眼だ」と賞賛もされ、曽根昌世(曽根周防守)は、駿河・興国寺城主も務めました。

武田勝頼の時代になると、1575年の長篠の戦いにも参戦していますが、武田家滅亡後は徳川家康に臣従。
天正壬午の乱で活躍するも出奔して浪人し、のち蒲生氏郷に仕えて会津・若松城の縄張り(設計)を担当しています。

この武田二十四将のひとり曽根昌世についての詳細は下記をご参集願います。

曽根昌世~武勇も誇った優秀な武将も後世では評価されていない?

なお、曽根家は支流・分家がいくつも存在していると申しましょうか、非常に分家が多いです。
百足衆を務めた曽根与市之助、足軽大将としては上野・石倉城主の曽根七郎兵衛、曽根興左衛門などの名も見受けられます。
石倉城は厩橋城(前橋城)ができるまで前橋の拠点だった城です。

小諸城主としては下曾根浄喜がおり、1582年に織田信忠の軍勢が甲斐になだれ込んだ際に、武田勝頼の従弟で、武田信繁(武田典厩)の次男である武田信豊が、家臣20騎と共に小諸城へと逃れています。
この時、小諸城主だった下曾根浄喜は、小諸城にやってきた武田信豊を二の丸に入れましたが、武田勝頼の自刃を知ると火を掛けました。
進退窮まった武田信豊は嫡男・武田法輝(武田次郎)や母・養周院、そして家臣らと自刃したともされます。
武田信豊の首は、飯田城に入っていた織田信忠に届けられましたが、織田家は許さず下曾根浄喜を誅殺しました。

群馬安中市磯部で繋がる下曽根氏は、この下曽根氏の末柄と推定されます。

系列としては、下曾根(下曽根)氏ともされる曽根賢信(曽根賢範)の次男・下曽根信尾(安芸守)から続いているようです。
そして、下曽根信垣→下曽根信秀(下曽根源六郎信秀、下曽根中務大輔信秀)と続きます。

ちなみに、小諸城主・下曾根浄喜(下曾根出羽守)も「源六郎」と称してますので、下曽根信秀(下曽根源六郎信秀)と同一人物の可能性もあります。
また、小諸城主・下曾根浄喜が下曽根信垣と同一人物であり、その子が下曽根信秀(下曽根源六郎信秀)と言う可能性も高く、この武田滅亡時の部分では不明点が多いです。

この下曽根信秀の2人の弟である下曽根源七と下曽根弥左衛門尉(下曾根政基)は、長篠の戦いで討死しました。
長篠実戦記では討死した武将に下曾根源六郎政利と言う名もあり、下曽根氏を調べるうえで「源六郎」の取り扱いに関しては、非常にややっこしいです。
下曾禰氏の屋敷跡に建てられた下曾禰氏の菩提寺・実際寺(甲府)には、この2人の位牌もあるそうです。

そして、下曽根信秀の子が下曽根信照と言う事になります。

下曽根信照は、武田滅亡後に徳川家の家臣となっており、1590年、小田原攻めでは、徳川勢として戦い、岩槻城の戦いにて討死しました。
岩槻城を攻めた豊臣勢としては、浅野長政本多忠勝らとなりますが、下曽根信照は平岩親吉の軍勢に加わっていたようです。

そして、下曽根信照(下曽根刑部大輔信照)の養子とされる下曽根信正が磯部に1000石となりました。
平岩親吉が厩橋城主として3万3000石となったのは、徳川家康江戸城に入ってからですので、恐らくはその時、磯部1000石を始めて知行したものと推測するのが妥当だと存じます。

いずれにせよ、この討死した下曽根信照の養子とされる下曽根信正(下曽根三右衛門)が、1599年に磯部・信照寺を建立しました。
この下曽根信正は、下曽根信照の弟だったようですが、兄の養子となる形で家督を継いだようです。

1000石で跡を継いだ下曽根信正の没年は、1608年3月3日(享年37)とあり、平岩親吉の領地替えには従っていませんので、徳川家の旗本だと推測できます。

下曽根氏累代の墓は、自然石になっており、列の右から下曽根信照、下曽根信由、下曽根信正、下曽根信定の墓となり、一番左は力及ばず不明です。
下曽根信由は下曽根信正の子となりますが、ちなみに、下曽根信具と言う武将は下曽根信由の孫となります。

下曽根信由の母は、上杉家から武田信玄の家臣になった、越後の名族・城景茂の娘で、すなわち、下曽根信正の正室が城景茂の娘であったと言う事になります。

下曽根信由が家督継いだのは1608年と言う事になりますが、まだ10歳頃だったようです。
しかし、徳川秀忠の御書院番に抜擢されました。
書院番(しょいんばん)と言うのは、徳川将軍を守る直属の親衛隊でして、大阪冬の陣と大阪夏の陣でも本陣にて守備する為に参じています。
この下曽根信由は、1633年には相模・大住郡(伊勢原市周辺)の内200石を加増されて合計1200石となっています。
また、1638年、島原天草の乱では目付として島原に赴きました。
1642年には御使番、翌年に播磨小野藩主・一柳直家(一柳美作守直家)が死去した際の領地没収では、播磨と伊予に出張。
他にも、越後・越前・出羽・肥後・讃岐・陸奥・上野・筑後など出向いては御目付を果たし、1668年には御先鉄砲頭となっています。

下曽根氏の墓は、本堂左手の奥に整地されています。
特に案内版などはありませんので、墓石となる自然石が目印です。
信照寺には他にも合計23代の下曽根氏の墓があるそうですが、よく分かりませんでした。

なお、信照寺が最初に創建された場所は、信越本線の線路の向こう側となる、現在の工場(信越)の敷地内にあったようです。

武田滅亡時の下曽根氏継承は、今一度、詳しく調べる必要性はありますが、なかなか「興味深い」磯部の信照寺と下曽根氏に関してでした。
なお、柳生聡氏と信照寺さんのご住職より、修正点など指摘を賜りました部分を記事内容に反映させております。
この場にて大変失礼ではございますが、深く御礼を申し上げる次第です。

小生の家も真言宗豊山派でして大変親しみを覚える、安中・信照寺への行き方ですが、下記の地図ポイント地点となります。
信越本線の磯部駅からも徒歩2~3分と至近です。
温泉記号発祥の地ともされる「磯部温泉」へもほど近いです。

近くには磯部城や菅沼城もありますので、セットでどうぞ。

曽根昌世~武勇も誇った優秀な武将も後世では評価されていない?
武田信豊とは~甲斐武田氏の武田副将
長篠の戦い(設楽原の戦い)考察と訪問記・戦跡・史跡・場所・写真・地図
平岩親吉~信頼に答え忠実に仕えた徳川家康の三河武士
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