白石城と白石城の戦い~片倉家の居城と復元三階櫓の雄姿


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白石城(しろいしじょう)は、宮城県白石市にある標高76m、比高20mの梯郭式平山城で、別名は益岡城

鎌倉時代から刈田氏が代々白石を知行しましたが、伊達輝宗の頃から伊達氏に仕え、白石宗実は伊達政宗の家臣として名が見受けられます。

1591年、会津若松城に入った蒲生氏郷の家臣・蒲生郷成が白石城に入ると本格的に改修しました。
その後、1598年には、上杉景勝の家臣・甘糟景継が白石城主となって修築しました。

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白石城の戦い

1600年7月、関ヶ原の戦いの前、徳川家康の会津征伐において侵攻を命じられた伊達政宗は、伏見城から帰国して北目城から出兵刈田郡に入り、白石城を攻撃します。

この時、白石城主・甘粕景継は、上杉景勝の命で会津若松城に詰めていたため、甥の登坂勝乃が城代として守備していました。
7月24日、伊達政宗は攻撃開始し、城下町や外曲輪、三の丸に火をかけ、白石城を炎上させます。

もともと、白石城は伊達家が支配していた時期もありましたので、城の縄張りにも詳しく、7月25日の午前中までには本丸を除いて占拠しました。

もはやこれまでと、登坂勝乃は伊達家に降伏しようと考えますが、かつて伊達政宗に滅ぼされた畠山家の旧臣・鹿子田右衛門は徹底抗戦を主張します。

そのため、登坂勝乃は鹿子田右衛門を殺害してまで、伊達政宗に降伏しました。

その後、叔父・石川昭光が白石城の守備をし、伊達政宗は北目城に引き揚げています。

直江兼続は白石城奪還のために軍勢を送りますが、刈田郡小浜村にて上杉勢に抵抗する百姓・野伏によるゲリラ戦で敗れました。

1602年、伊達家の重臣・片倉景綱(片倉小十郎)が13000石にて白石城主となりますが、伊達政宗はいわゆる「百万石のお墨付き」があったにも関わらず、加増されたのは刈田郡のみでした。

白石城

1615年に徳川家康は「一国一城令」を出しますが、片倉景綱(片倉小十郎)は伊達政宗の家臣でありながら、幕府に対して功績などが認められ、江戸城下にも屋敷を当えられていました。

そのため、大名に準じる扱いをされた片倉家の白石城は、例外として存続が公式に認められています。

ちなみに、仙台藩は家臣に直接土地を支給したので「要害」と称して、事実上の城を20箇所以上設けていました。
下記は白石城の石垣です。
各写真はクリックすると拡大致し、スライド表示も可能です。

なお、2代の片倉重長は、大坂夏の陣で真田信繁(真田幸村)と互角に戦い、後藤又兵衛(後藤基次)を討ち取るなど、伊達家の武名を守っています。

今回、白石城へは東側から登ってみました。

上記の案内図もご参考になさってください。

天守の代用となっていた三階櫓は、事実上の「天守」ですが、江戸幕府への配慮から「大櫓」と名づけられたとされています。

1868年、戊辰戦争の際には、東北諸藩の代表が白石城に集まり、白石列藩会議を開き、奥羽越列藩同盟の結成に繋がっています。

大櫓の下には、大きな井戸もありました。

さて、入場券を購入して、大手一御門から本丸へと進んできます。

白石城の大手の桝形は、なかなかユニークな形をしており、とても印象に残りますが、起伏を有効に活用したのだと思います。

大手門を抜けると本丸ですが「大櫓」へ行くのには、グルッと反対側へ180度、進路転換しなくてはならない設計になっています。

本丸は適度な広さで、土塁などに囲まれています。

片倉小十郎の石碑もありました。

上記は本丸御殿の想像図です。

50秒動画も撮影してみました。
より、白石城の本丸の雰囲気が分かりますので、よければご覧願います。

現在の三階櫓は、1997年に木造復元された建物です。

コンクリートなどの建物にて復興されている天守なども多い中、白石城は昔のまま、木造にて再現したのは、とても素晴らしいと言え、また、戦後に復元された木造天守としては日本最大級と言えます。

本丸や二の丸を中心に、幾重にも外郭を備えた堅城でした。
三階櫓の内部の写真や、白石城からの展望と、二の丸にある「神明社」、また「武家屋敷」などの様子は、別のページに残りの白石城の写真と共に設けてありますので、別途、ご覧願えますと幸いです。

白石城の内部と二の丸・神明社・武家屋敷などの観光情報

本丸にも井戸があって、完璧な備えです。

虎口のうち、大手門付近には幅が変化すると言う特徴があり、鍵の手に折れる通路など、工夫が見られます。

2011年3月の東日本大震災では白石城も漆喰の壁が崩壊するなどの甚大な被害となりましたが、2012年10月には復旧工事が完成しました。

毎年5月には、片倉鉄砲隊の火縄銃演舞などが行われると言いますので、機会があれば是非訪れてみたいところです。

下記は、白石城の厩口門跡となります。
ここにあった門は、白石市内の延命寺に山門として移築されており、撮影して参りましたので、このページの末尾にてご紹介させて頂きます。

白石駅からは白石城の登り口までは徒歩10分ですが、駅前でレンタサイクル(9時~17時)を貸りると、近くの寺院への散策もラクだと思います。

白石城専用の駐車場はありませんが、付近の駐車場を利用可能で、土日祝には白石市役所の駐車場も開放されます。
今回は、私が買い物がてら止めた駐車場は、下記のスーパーの駐車場です。
地図は縮尺を変えてご覧願います。

東北新幹線の白石蔵王駅からは、白石城までタクシーで約5分、運賃は800円程度です。
白石駅や白石蔵王駅の近くから、レンタサイクルも良いでしょう。
白石城と武家屋敷の両方で、見学所要時間は約60分でした。

延命寺にある厩口門

白石城から東の方にある「延命寺」には、白石城の厩口門が移築されていると言うので、合わせて撮影して参りました。

延命寺の駐車場は、下記の地図ポイント地点となりますので、念のため、記しておきます。

あと、当信寺の山門も、白石城の東口門が移築されたものとなっています。
この当信寺には、真田幸村(真田信繁)の娘などの墓もありますので、下記の別ページにてご紹介させて頂いております。

白石城の内部と二の丸・神明社・武家屋敷などの観光情報
片倉景綱と片倉重長~智勇と温情を兼ね備えた片倉小十郎
当信寺~阿梅の方の墓と真田大八の墓【白石市】
白石にある真田幸村の墓と阿菖蒲の墓【田村家墓所】
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コメント

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  • コメント (4)

    • 玉堂
    • 2016年 1月 13日

    「白石城の戦い」文中に「直江兼続は白石城奪還のために軍勢を送りますが、刈田郡小浜村にて上杉勢に抵抗する百姓・野伏によるゲリラ戦で敗れました。」とあるのはwikipedia等で一般的に知られている白石城の戦いの一節である。しかし刈田郡には小浜村という地名は無く、刈田郡小原村が正しい。
    「片倉代々記巻之六景綱譜」には、上杉勢と戦った刈田郡小原村の野伏として、斎藤喜右衛門、同弟斎藤吉左衛門、半澤弥兵衛、小室太郎右衛門、半澤雅楽助、小室彦七郎、髙橋孫右衛門、原田主計、一條源兵衛、髙橋正左衛門、髙橋助五郎、作間又三郎、斎藤平左衛門、其子斎藤善七、髙橋源兵衛、其弟山岸新右衛門、斎藤三右衛門、小室出雲、斎藤源右衛門、野伏頭小室惣次郎の計20名と同郡渡瀬村の野伏、小川三郎左衛門、古山新右衛門、斎藤文右衛門の3名が記されている。片倉代々記慶長5年7月24日、白石城攻撃開始日の記載を見ると陣についた伊達政宗公は山中より下りて来た小原・渡瀬両村の野伏に対して労を褒め、白石城攻めを見物するよう命じた記述がある。原文のまま書くと
    「奇特に罷出たりと褒美し給ひ、汝等今日は働に及さる間城攻を見物すへしと仰付らる」とある。
    伊達政宗が白石城攻撃開始日より前に、直江兼続が送った上杉勢は野伏等に阻止されていたということになる。片倉代々記に名を連ねた野伏の中には後に片倉家家臣となった家系があり、その系図は非常に興味深い。
    (参考文献「片倉代々記巻之六景綱」

    • 高田哲也
    • 2016年 1月 13日

    玉堂さま、いつもありがとうございます。(^-^)

    • 玉堂
    • 2016年 12月 18日

    先に投稿した慶長5年の白石城攻略戦で政宗公に加勢した刈田郡小原村の20名の野伏集団「小原二十騎」は片倉家文書等で小原十八騎または小原十九騎と記される程度で、消されたかのように子孫にもその功績は伝わっていない。しかし、関連する史料があった。伊達史料「天正日記十一」である。(東京大学史料編纂所所蔵史料目録データベースから閲覧可)その中の「御野臥日記」(野臥【のぶし】台帳)の筆頭は小原(宮城県白石市小原【おばら】地区)。小原二十騎構成員の名前も見受けられる。さらに「御大領」「名懸」という伊達家直属系の名称や「伊賀分」「伊賀近衆」といった謎の表記が多いことに気付く。また、野臥に「御」を付けている点も興味深い。最近、台帳を読み進んでいたところ「やづき」(宮城県刈田郡蔵王町矢附地区)に小原竹鶴丸という人物を見つけた。「やづき」は仙台真田家ゆかりの地。上記の小原地区「なべやり」(鍋割)には斎藤千代松丸の名がある。激動の戦国時代、伊達政宗公の綿密な戦略が天正日記には隠れているのかも知れない。

    • 玉堂
    • 2016年 12月 18日

    いつもお世話になっております。
    下からニ行目、時代が2度続くミス、削除願います。東京大学史料編纂所所蔵史料目録データベース
    http://wwwap.hi.u-Tokyo.ac.jp/ships/shipscontroller
    から天正日記で検索してイメージで内容が閲覧出来ます。「御野臥日記」も閲覧出来ます。しかし、小林清治校注『伊達史料集 下』人物往来社1967刊「伊達天正日記」pp.214-218の解題に天正日記十一と野臥日記も割愛されています。
    小原二十騎面々の系図をみるとセキチク旗印の斎藤氏、岸和田城ゆかりの高橋氏、信州小諸ゆかりの小室氏という記述が片倉家家臣の記録に残されています。様々な史料から推測すると御野臥という表記も頷けるかも知れません。天正日記は古文書ですがご確認いただければと思います。

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