曽我兄弟の仇討ちの解説【分かりやすい経緯と写真も】工藤祐経と伊東祐親の遺恨

曽我兄弟の仇討ち(そがきょうだいのあだうち)は、鎌倉時代に発生した、日本三大仇討ちのひとつです。

曽我兄弟の仇討ち

なんで、仇討するような事態に発展したのか?、その経緯がとてもわかりにくいです。
簡単に申し上げると、一族での権力争いが、尾を引いて、世代を超えて、仇討ちに至ったと言う事なのですが、どうして、仇討することになったのか?、詳しくも、少しでもわかりやすく、解説してみたいと存じます。

曽我兄弟の仇討ち

発端は、平安時代末期、伊豆半島の最大勢力であった工藤氏の権力争いからであった。
曽我兄弟の仇討ちで殺害されることになる工藤祐経(くどう-すけつね)は、伊豆の伊東荘の領主・工藤祐継(工藤滝口祐継)の嫡男として生まれた。
要するに工藤氏を継ぐ立場であったと考えられるが、父が幼い頃に亡くなったため、その後見人として叔父・伊東祐親(いとう-すけちか)(河津祐親)が面倒を見た。
しかし、そもそも伊東祐親の祖父・工藤祐隆は、後妻(大見城主である大見家政の娘・大見玉江)の連れ子の娘に産ませた工藤祐継に本領の伊東庄を継がせ、嫡流筋である伊東祐親には河津庄が与えられていたことから、不満を持っていた。

そのため、工藤祐経が元服して平重盛に仕えて上洛している間に、伊東祐親は行動を起こして伊東荘を占拠した。
この時、工藤祐経の妻・万劫御前(伊東祐親の娘)をも、早川荘(小田原)の土肥遠平に嫁がせて排除している。


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京にて押領に気が付いた工藤祐経は、訴訟を起こして平家に訴えるも、平清盛からの信頼も厚かった伊藤祐親の根回しにより、うまく行かなかった。
理由としては、伊東祐親は、伊東庄を祐親は平重盛に寄進しており、その管理を代行すると言う形で収入を得て、実質的な所有権を確保していた。
そのため、裁判による判決は伊東庄の2分割と言う事になり、京の工藤祐経には大きく不満が残る結果となる。

伊東祐親を恨んだ工藤祐経は、1176年10月、源頼朝も参加した、伊豆・奥野の狩り場から戻る途中、郎党の大見小藤太(大見成家)と八幡三郎(八幡行氏)によって、伊藤祐親の嫡男・河津祐泰を弓にて射殺させた。(享年31)

場所は、伊豆高原で、弓の名手である大見成家(大見小藤太成家)と八幡行氏(八幡三郎行氏)の兄弟2人は、帰り道に待ち伏せしていた。

先に馬に乗って現れたのが河津三郎で、八幡三郎(はつまさぶろう)が放った矢が、河津三郎の腰を貫いたと言う。
河津三郎は、応戦しようとしたが、力尽きて落馬した。
あとから遅れてやってきた伊東祐親を狙ったのは、大見小藤太(おうみことうた)であったが、矢はわずかにそれて失敗した。
伊豆・赤沢に河津三郎の血塚がある。

曾我物語では、伊東氏は反撃に出ており「伊東祐清の手勢が、激闘の末に八幡三郎を討ち取ったが、心卑しい 大見小藤太は逃げ出し、狩野境にて捕縛して首を刎ねた」とある。

河津祐泰の遺児となった5歳の一萬丸(十郎)と3歳の箱王(五郎)の兄弟は、母の横山時重の娘(満江御前?)に連れられて、再嫁先の相模我荘の領主・曾我祐信曽我氏館にて養育された。

曾我氏館

この兄弟が、のちに「曾我兄弟」と知られる、曾我祐成と曾我時致である。

曽我兄弟

下記は、曽我兄弟の仇討ちに関する家系図。
※各写真類は押すと拡大する。

工藤祐経の家系図

時が流れ1160年に源頼朝(14歳)が伊豆・韮山の蛭ヶ小島に流されると、北条時政と共に監視役を命じられる。
そんな中、伊東祐親が大番役で京の治安に当たっているとき、3女・八重姫(やえひめ)が源頼朝と通じ、やがて千鶴丸(千鶴御前)と言う男の子を産む。

千鶴丸(千鶴御前)が3歳になった時に、伊豆戻ってこれを知った伊東祐親は激怒し、1175年9月、平家に露見することを恐れて、千鶴丸を松川の稚児ヶ淵に沈めて殺害した。
さらに源頼朝の暗殺も図ったが、源頼朝の乳母・比企尼の3娘を妻とし源頼朝とも親交があった、次男・伊東祐清は源頼朝に危険を知らせた。
そのため、源頼朝は闇夜に紛れて熱海の伊豆山神社へ逃げ込み、窮地を脱している。
その後、源頼朝は北条時政の館に匿われて無事に保護されたが、伊東祐親はこの前後に出家したと言う。


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このように、北条時政の元で暮らすようになったため、今度は北条政子が源頼朝と恋仲になったものと推測できる。
そして、北条政子と源頼朝が結ばれたのを知った伊東八重(八重姫)は、入水して自らの命を絶ったと言われているが、千葉氏などへ嫁に行ったなど諸説ある。
なお、北条時政の本拠地である守山の麓には、八重姫を祀った真珠院がある。

真珠院

1180年8月、源頼朝が挙兵すると工藤祐経の弟・宇佐美祐茂(うさみ-すけしげ)、また、宇佐見正光(大見正光)、大見実政(大見平次実政)や大見家秀らは源頼朝に協力。
それに対して伊東祐親は、大庭景親らに味方しているので、伊豆での工藤一族は一枚岩でなかったことが伺える。
結果的に、石橋山の戦いでは源頼朝らを撃退したが、勢力を盛り返した源頼朝は、富士川の戦いにて伊東祐親を捕虜とした。
伊東祐親は、伊東祐親の娘が嫁いでいた三浦義澄に預けられている。

三浦義澄は、伊東祐親の助命嘆願を行い一命を許された。
しかし、伊東祐親は娘・八重姫が産んだ子を殺害した事として「以前の行いを恥じる」と言い、自害した。

この時、挙兵前に自分の命を救ってくれた、伊東祐親の跡取りである伊東祐清に、源頼朝は恩賞を取らせようとしたが、父が敵であった以上、恩賞は受け取れないと拒んだだけでなく、暇乞いを願い出て、以後、伊東祐清は平家に味方し、北陸道にて討死にしている。

<注釈> 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では善児が殺害したことになっている。

一方、工藤祐経は京から鎌倉へ赴いて源頼朝に臣従すると、伊東祐親に奪われていた伊東庄に復帰。
工藤祐経の子・伊東祐時は伊東氏を称して伊東家を継いだ。

そして、源義経らの活躍で平家を滅亡させた源頼朝が鎌倉幕府を開く。

亡き伊東祐親の孫である曾我兄弟は、厳しい生活を強いられるも相模・曽我城にて成長すると、兄の一萬丸は曽我家を継いで、曾我十郎祐成と称した。
弟の箱王丸は、父・河津祐泰の菩提を弔うため、箱根権現社にて修業を積んだ。

1187年、源頼朝が箱根権現を参拝した際に、箱王丸は随行していた工藤祐経を見つけ復讐しようした。

箱根復讐

しかし、逆に工藤祐経に諭されて「赤木柄の短刀」を与えられたと言う。
なお、出家を嫌った箱王丸は、縁者でもある北条時政を頼ると、烏帽子親になってもらい元服し、曾我五郎時致と名乗った。


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1193年3月、後白河法皇の喪が明けると、鎌倉幕府は下野国・那須野、信濃国・三原野、駿河国・富士野にて大規模な「巻狩り」を計画。
巻狩り(まきがり)は、シカやイノシシなどが生息する狩場(原野)を大勢の勢子せこや追出犬によって取り囲み、徐々に獲物を巻き込んで弓で射取る狩猟のこと。
馬上から騎射するため武士にとっては実戦に近く軍事訓練にもなった。
夜には必ず宴会なども行うため、武士らのいきぬきとも言える。
また、農作物を荒らす害獣を駆除すると言う側面もあり、農民にも喜ばれていたようだ。

そして1193年5月、源頼朝は、数多くの御家人を参加させ、富士の裾野にて盛大な巻狩りを開催。
富士野での巻狩りの準備をしたのは、駿河守護の北条時政。
父の仇討を忘れていなかった曾我兄弟は、箱根権現で祈願してから、富士山の麓を目指した。
1193年5月28日、曾我兄弟は、酔って遊女と寝ていた工藤祐経の寝所を襲撃し、ついに工藤祐経を討ち果たす。

下記は、殺害されたと言う場所にある、白糸の滝近くの工藤祐経の墓。

工藤祐経の墓

経緯を分かりやすく

今一度、曽我兄弟の仇討に至る経緯を、わかりやすく、まとめてました。

久須美荘 工藤祐隆(久須見入道寂心、伊東祐隆、狩野祐隆)
 
嫡男・伊東祐家 ・ 伊東荘を継ぐも若くして死去 (子は伊東祐親)
4男・工藤茂光 ・ 伊豆・狩野荘を与えられて「狩野茂光」となるも、のち石橋山の戦いで没
  工藤茂光の娘 ・ 田代為綱に嫁ぎ田代信綱を産む
 
養子・工藤祐継
  後妻・大見家政の娘(大見玉江、玉枝姫)の連れ子 (八田宗基の子)   
  ※大見玉江の娘(八田宗基の娘)が、工藤祐継を産んだとも 


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工藤祐隆は、嫡流筋が受け継ぐべきと言える「久須美荘」(伊東荘)を養子の工藤祐継に与え、そのうちの河津荘を伊東祐親に与えた
伊東祐親の母は不詳なため、庶子である可能性もある
伊東祐親(河津祐親)は、まだ幼い工藤祐継を後見 ・ 本来であれば宗家筋と考えた伊東祐親(河津祐親)は不満

■工藤祐隆の死後

伊東祐親が後見した工藤祐経は、元服すると、伊東祐親の娘・万劫御前を娶り、伊東祐親に伴われて上洛すると平重盛に仕え、京に滞在するようになった。
そして、伊豆に戻った伊東祐親は伊東荘を押領し、工藤祐経の妻・万劫御前も奪い、土肥遠平に嫁がせた。
工藤祐経は、伊豆に戻れず、京にて平家に裁判で訴えるも所領回復に至らず。
1176年、工藤祐経は、母の実家筋になる大見成家と、八幡行氏(八幡三郎行氏)に命じて、伊東祐親の暗殺を図る。
伊東祐親の暗殺には失敗するも、嫡男・河津祐泰を殺害成功。
※大見成家と八幡行氏は、伊東祐親の次男・伊東祐清の追っ手により討たれた。

下記は、河津祐泰が殺害された場所とされる。伊豆・赤沢の「血塚」。

血塚

若くして亡くなった河津祐泰の妻である横山時重の娘は、子を連れて、伊東祐家の娘の嫁ぎ先の子・曾我祐信に再嫁。
その子が、曽我兄弟(曾我祐成・曾我時致)。
河津祐泰の死後5日後に生まれた末子は、弟・伊東祐清の妻(比企尼の3女)に引き取られ、比企尼の3女が再婚した平賀義信の養子となる。

■伊東祐親の家族など

嫡男・河津祐泰 妻は横山時重の娘、工藤親光の娘がいる
次男・伊東祐清 妻は比企尼の3女
伊東祐親の娘 ・ 北条時政の前室
伊東祐親の娘 ・ 三浦義澄の正室
伊東祐親の娘・万劫御前 ・ 工藤祐経の前室、離縁後、土肥遠平の正室
伊東祐親の娘・八重姫 ・ 源頼朝との間に千鶴御前(千鶴丸)
1175年、伊東祐親は、源頼朝の殺害を図るも、次男・伊東祐清が伊豆山神社へ逃がす


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伊東祐親は、源頼朝の挙兵に味方せず、1180年、富士川の戦いのあと、捕縛されると自ら自刃し、次男・伊東祐清も誅殺され、伊東家は没落。

1193年に曾我兄弟の仇討ちで、工藤祐継が討ち取られる
河津祐泰の死後5日後に生まれていた末子は、曾我兄弟の仇討ちのあと連座
河津祐泰の子である原小次郎も別件で連座

富士巻狩りは「白糸の滝」近くで行われた。
下記は曽我兄弟が隠れていたとされる岩。

曽我兄弟の隠れ岩

改めて下記写真は、白糸の滝近くにある工藤祐経の墓。

工藤祐経

この騒ぎに集まった武士に、曾我兄弟を取り囲まれるも10人斬りの働きをしたが、兄・曽我祐成が仁田忠常に討たれた。
下記は、仁田忠常が討ったとされる場所にある、曾我兄弟の墓。

曾我兄弟の墓

弟・曽我時致は、源頼朝も暗殺しようと宿所に入ったところを、女装していた五所五郎丸(御所五郎丸)により捕縛された。
下記は源頼朝が宿舎にしていたと言う、井出館の様子。

井出館

翌5月29日、源頼朝の面前で仇討ちに至った経緯を述べた曽我時致に対して、源頼朝は助命しようとした。
しかし、工藤祐経の遺児・犬房丸(伊東祐時)が泣いて訴えた為、曽我時致の身柄は工藤祐経の一族に引き渡されて、結果的に斬首されている。
下記は、曽我時致の首を洗ったとされ、五郎の首洗い井戸(富士市)。

五郎の首洗い井戸

なお、曾我兄弟には、もうひとり弟がいた。
父・河津祐泰が弓で討たれた5日後に生まれた子で、源頼朝の暗殺計画を知らせて窮地を救った、伊東祐清の妻(比企尼の3女)が引き取っていた。
その後、夫・伊東祐清が北陸で討死したあと、妻だった比企尼の三女は平賀義信に再嫁し、この時、この遺児も伴っていた。

その遺児は出家して「律師」と号していたが、曾我兄弟の仇討ちのあと、兄に連座して鎌倉へ呼び出されている。
そして、1193年7月2日に、甘縄で自害して果てた。
また、同じく河津祐泰の子である原小次郎も、源範頼の連座で8月20日に処刑されている。


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曾我兄弟の養父・曾我祐信も連座を恐れたが、兄弟に同意したり促した証拠はないとして、源頼朝より許された。
そればかりか、曾我兄弟の菩提を弔うよう命じられ、曾我荘の年貢が免除されている。
曾我祐信の墓は妻と曾我祐成・曾我時致と共に神奈川県小田原市の城前寺にある。

城前寺・曾我兄弟の墓

下記は、芦ノ湖湖畔の箱根神社境内にある曽我神社脇の供養碑。

曽我神社脇の供養碑

箱根神社に関してはこちら

曽我兄弟の供養碑

なお、この曽我兄弟の仇討で最も得をしたのは、伊東祐親や工藤祐経がいなくなったあと、伊豆にて勢力を拡大することが容易となった北条時政と言う事になる。

箱根・芦の湯から精進池へ抜ける、国道1号線沿いに、曽我兄弟と虎御前のものと伝わる、三基の供養塔もある。(国の重要文化財)

曽我兄弟と虎御前の五輪塔

虎御前は、曽我十郎と恋に落ちたと言う、大磯の遊女で、のち、曾我兄弟の菩提を弔った。

曽我兄弟の隠れ岩と工藤祐経の墓の場所

下記の地図ポイント地点は、白糸の滝の近くにある曽我兄弟の隠れ岩の場所。
その隠れ岩から東に100mほどのところに、工藤祐経の墓がある。

曾我兄弟の事件から約3ヶ月後、源範頼が修善寺に追放されているが、その4日後の1193年8月24日、大磯からも近い岡崎義実大庭景義は、2人一緒に出家した。
更に、大庭景義に至っては、鎌倉から追放となっているのも、気になる所である。

これら、曾我兄弟に関する史跡がある場所などは、当方のオリジナル関東地図にて、ポイントしております。
スマホで表示して、目的地としてタップし「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなります。
自動車用、歩行用でも、ナビとしてお使い頂けますので、よければ、お試し頂ければ幸いです。

各史跡に関しては「曽我兄弟【富士の巻狩り】10箇所の史跡解説と場所・駐車場などもご確認頂けます
でもご紹介している。


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鎌倉殿の13人での蘇我兄弟の仇討ち

2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にて脚本家・三谷幸喜さんの「曽我兄弟の仇討ち」に関する解釈(創造)は概ね下記の通りになります。

曽我兄弟出身の伊東家が滅んだのも源頼朝と対立したためであり、父・河津祐泰の恨みを果たすと言う目的にプラスして源頼朝の暗殺も図った。
事前に烏帽子親でもある北条時政に兵を貸してもらえるよう相談したが源頼朝暗殺計画までは隠していた。
<注釈> 北条時政の前妻は、河津祐泰の妹?とされる。
曾我兄弟は比企能員にも相談したがそこでは本当の計画を打ち明けた。
<注釈> 曽我兄弟の父から見て弟・伊東祐清の妻は、比企尼の3女であった。
巻狩りの宿所にて夜な夜な、源頼朝が比奈(比企朝宗の娘・姫の前)の所に行くため、寝所の布団には源頼朝の代わりに工藤祐経が寝ることになった。
善児を通じて事前に裏の計画を察知した梶原景時が北条時政に相談し、北条の兵に仁田忠常をつけて寝所を警備させたいたが・・。
雨が降り暗い中、曽我兄弟は源頼朝の寝床を遅い「源頼朝を討取った」と声を上げる。(工藤祐経が死亡)
その不確かな情報が第1報として鎌倉に届き、留守を守っていた源範頼が次期・鎌倉殿と目される。
この事件は「謀反」なので北条義時が、曽我兄弟の仇討ちと言う「美談」にし政権安定を図った。→ 美談の曽我物語に繋がる

三谷さんのとても素晴らしい想像力と解釈には感服するばかりです。

そして、のち源範頼の家来・当麻太郎が、鎌倉にて源頼朝の寝所に忍びこみ拘束され、源範頼は修禅寺に追放となるのであった。

また涙で訴えた、工藤祐経の子・犬房丸は元服すると伊東祐時と称して伊東氏を継承した。
子孫は日向国へ移り住むと戦国大名の日向・伊東氏と続き江戸時代には飫肥藩主になっている。

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