諏訪原城(諏訪之原城、牧野城)の歴史と諏訪原城の戦い~諏訪原城訪問記・写真集


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 諏訪原城は、牧之原台地の舌状台地の先端部にある城で、すぐ南を旧東海道が通っていた。

 1568年に駿河へ侵攻し、今川氏真を破った武田信玄が、金谷城の防御にと1569年11月7日に金谷台地に築かせた五砦の一つとされる。
 築城奉行は馬場信房(馬場信春)であり、最初の城主になったとされるが、金谷城に入ったとも考えられ、金谷城と諏訪原城が同一であるかどうかは不明だ。

 武田信玄亡きあと、武田勝頼は1573年秋に、武田信豊と馬場信房に命じて、諏訪原城を築城したと伝わり、これが本格的な諏訪原城築城だと推定できる。
 ※各写真はクリックする拡大します。

 

 遺構は本丸、二の丸、三の丸、大手郭、帯郭、西の丸、搦手、亀甲曲輪の8郭からの特徴ある縄張で「扇城」とも呼ばれた。
 自然堀と人工の大小堀が13本もあり、いずれも大変深く急斜面となっているが、石垣は用いられていない。
 武田家の守護神・諏訪明神を城内の一角に祭ったことから諏訪原城と呼ばれている。
 標高は219mで、金谷との比高は135m。

 

 武田家からの最初の城主としては今福友清(今福丹波守顕倍、今福浄閑斎)、又は子である今福虎孝(今福顕倍、今福丹波守虎孝)が久能城から移り、与力として諸賀昌清(諸賀下総守昌清)と小泉忠季(小泉隼人忠季)が従った。
 そして、武田勝頼は1574年6月に、高天神城を攻略し、諏訪原城と合わせて、対徳川の最前線となった。

 1576年5月、山県昌景、馬場信春、内藤昌豊、原昌胤、原盛胤、真田信綱真田昌輝土屋昌続、土屋直規、安中景繁、望月信永、米倉重継などを討ち取り、長篠の戦いで武田勝頼を破った徳川家康は、その勢いで6月に二俣城・光明城などを攻略。
 そして、高天神城を奪還する為、その一環で、7月には諏訪原城に迫った。

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諏訪原城の戦い

 徳川勢は松平忠正が諏訪原城の出丸・亀甲曲輪を攻めて落とした。
 徳川の陣には、今川氏真がいたことも知られる。
 そして松平真乗が菊川方面から猛攻を加えてたが、約2ヶ月、今福友清(今福浄閑斎)は室賀一葉軒などと共に、援軍も期待できない絶望の中、良く守り籠城して耐えた。

 武田勝頼は諏訪原城への援軍を出すため、陣触れを行ったが、長篠の戦いで大敗したあとであり、兵が集まらず8月末になっても甲府から出陣できずにいた。

 1576年8月23日、徳川家康は自らの本陣を日坂久延寺に移して総攻撃を開始。
 今福友清(今福浄閑斎)が討死すると、残りの城兵は夜半に紛れて依田信蕃田中城や大熊朝秀の小山城に逃亡し、諏訪原城は24日に落城した。
 ※討死したのは今福虎孝(今福顕倍、今福丹波守虎孝)の可能性もあります。

 

 安倍元真の進言を受けて、徳川家康は安倍郡梅ヶ島の金山鉱夫を呼び寄せ、城内へ通じる坑道を掘って攻め込んだ為、堅固な諏訪原城を落とせたとも言われている。

 その後は松平家忠、戸田康長、松平康親らが輪番制の城番となったが、名目上は今川氏真が1年間くらい城主であった。
 また、徳川家康は周の武王が殷(いん)の紂王(ちゅうおう)を破った牧野(ぼくや)の戦いの故事にちなみ、牧野原城(または牧野城)と城の名前も改めた。
 そして、武田勝頼の反撃に備えて、堀や馬出を増設するなど大規模な改修を開始し、大手曲輪も追加普請して東海道の道筋を抑えた。

 1590年、豊臣秀吉小田原攻めの際、徳川家康が関東移封となると、牧野原城(諏訪原城)は廃城となっている。

 明治維新後、最後の将軍・徳川慶喜駿府城に配された際に、移住した旧幕臣が荒廃していた牧野城周辺を開墾して、一帯を茶畑とした。

諏訪原城の写真集

 ここからは諏訪原城の遺構を写真と共にご説明させて頂きます。

 

 旧東海道から二の曲輪大手の手前右側に通路がありました。

 

 上記は大手から東の南馬出・東馬出方面を撮影したものです。
 私が訪れた際には、発掘調査が行われていました。

 

 上記は二の曲輪大手の外側にある「三日月堀」です。

 

 上記写真は、武田家が城の名前にもした諏訪大明神の社です。
 二の曲輪大手にあります。

 

 上記の写真だとわかりにくいのですが、二の曲輪大手から、二の曲輪の間にある「外堀」と「外堀」の間を通る土橋です。

 

 この「空堀」ですが、こんなに巨大で深い堀は、あまり記憶にありません。
 写真だと迫力も半減してしまうのですが、深さは7m以上あるかと思います。
 堀の壁は土ですが、ほぼ直角でして、落ちたら這い上がるのは非常に困難だと思います。
 と言うより、降りるのにも飛んで降りるしかなく、鎧などを着ていては、足を骨折するのではと感じました。
 仮に無事に堀に降りたとしても、弓・鉄砲で狙われてそれまででしょう。
 私が足軽なら、絶対に降りたくないほどの巨大で深い堀です。
 このような大きな堀が「外堀」となっています。掘るの大変だったろうな?

 

 武家屋敷跡は、徳川が増築した大手曲輪です。
 諏訪原城は「順路」の表示があって、その通りに進むと、ぐるっと効率よく諏訪原城を周ってこれます。
 逆に言うと、それだけ「大きな城」と言う事です。

 

 上記は大手北外堀です。徳川家が築いたものだと思いますが、標準的な割の深さで、そんなに深い堀ではありません。
 しかし、防御面ではこれでも充分です。

 

 3号堀は二の曲輪中馬出の外側の三日月堀です。三日月堀は武田の特徴です。
 ここも、外側は、降りるのをためらうような、垂直に切り立った深い堀となっています。
 のち、大阪の陣で「真田丸」を築く真田幸村も、このような普請から学んだのでしょう。

 

 二の曲輪中馬出の土橋付近から撮影した2号堀です。北側に伸びる深い外堀ですね。

 

 これは、その深い外堀の逆方向である南側へカメラを向けて撮影したものです。
 写真ではほんと分かりにくいので、この深さを実感するには、諏訪原城にて実際に見るしかありません。

 

 上記は広い「二の曲輪」の中を撮影したものですが、広すぎて奥の方までは見えません。

 

 上記は二の曲輪と本丸(本曲輪)との間にある「内堀」です。この堀も垂直で深いです。
 写真だとほとんどわかりませんが、甲州流築城法の三段鍵堀ですね。

 

 本丸(本曲輪)から、二の曲輪に繋がる土橋です。内堀の部分ですね。

 

 本丸(本曲輪)です。

 

 天守があった訳ではなかったと思いますまで、天守台?と言う表現は不要かと思いますが、そのまま撮影。

 

 上記は、本丸(本曲輪)から金谷駅方面に下って行くことができる「搦手」となっています。

 

 本丸から金谷駅方面の展望です。大井川も見えますね。

 

 カンカン井戸は、本丸(本曲輪)脇にある内堀(空堀、6号堀)の底にあります。
 台地上ですから、井戸を掘る際にできる限り低い位置から掘ったのでしょう。
 現在の井戸は落ちると危険なので、だいぶ埋められています。

 

カンカン井戸の内堀を抜けると、再び二の曲輪の南東側に出ます。

 

 上記はその広い二の曲輪を北に向かって撮影したものです。
 本当に広いので、自宅に帰るまで山城だとは思っていませんでした。

 

 最後に上記は南馬出の方に向かっている大きな外堀です。

 以上、最後までご閲覧賜りましてありがとうございました。
 他の城の写真もありますので、是非、合わせてご覧頂けますと幸いです。

 →諏訪原城への行き方・駐車場情報・観光所要時間情報などはこちら

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