大久保忠隣の解説 晩年には不遇な扱いを受けるも最後まで忠義を貫いた猛将

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大久保忠隣とは

大久保忠隣(おおくぼただちか)は、松平家の重臣・大久保忠世の長男として三河・額田郡上和田(愛知県岡崎市)にて、1553年に生まれた。
母は近藤幸正の娘。

1560年、桶狭間の戦いにて今川義元織田信長に討たれると、松平元康は今川氏真と断交して清洲同盟を結び、父・大久保忠世らと諸城を攻略した。
そして、大久保忠隣も1563年から徳川家康の近習として仕えるようになり、1568年の遠江・堀川城攻めにて初陣を飾り、敵将の首をあげる武功を挙げている。

その後も、数々の戦に酒井忠次本多忠勝榊原康政井伊直政石川数正らと参戦し徳川家康を支え、父・大久保忠世と共に活躍した。


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1570年には、浅井長政との姉川の戦いでは援軍の朝倉景健を撃退するのに貢献。

1572年には、武田信玄との三方ヶ原の戦いの際には、武田信玄の罠にはまり、徳川勢が総崩れとなった中、徳川家康の傍を離れずに警護して浜松城まで退却することに成功したことから、忠節を称えられて奉行職に列している。

1580年、 正室は石川家成の娘とのあいだに嫡男・大久保忠常が誕生。

1582年、明智光秀本能寺の変の際には、徳川家康の伊賀越えに同行。
武田勝頼攻めのあと、武田家臣だった土屋長安(大蔵長安)が大久保忠隣の与力に加わり、大久保長安と改名している。


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1584年には豊臣秀吉との小牧・長久手の戦いでも勝利に貢献。
1585年、真田昌幸との第1次上田城の戦いにも、鳥居元忠平岩親吉、父・大久保忠世らと参戦したとも。
1586年、徳川家康と共に上洛すると従五位下治部少輔に叙任され、豊臣姓を下賜された。

1590年には北条氏直小田原攻めでは、山中城攻めなどに参陣したものと推測される。
徳川家康が関東に入ると、武蔵・羽生で20000石となり、父・大久保忠世は小田原城にて45000石となっている。

1593年には、徳川家康の三男・徳川秀忠付の家老に就任。
1594年、父・大久保忠世が死去すると、42歳で家督を継いで、羽生と合わせて小田原6万5000石となった。
この時、叔父・大久保忠教(大久保彦左衛門)に3000石を与えている。

1600年、石田三成関ヶ原の戦いでは、主力を率いた徳川秀忠に従って中山道を進んだが、途中の上田城・真田昌幸の籠城に対して、攻撃を主張し本多正信らと対立した。
関ヶ原の遅参した徳川秀忠の弁明を行っている。

1601年、上野・高崎藩13万石への加増を打診されたが固辞し、そのまま初代の小田原藩主となっている。


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1609年には、徳川家康の命で、次男・大久保忠総が石川家の家督を継いで、石川忠総と改名し、美濃・大垣藩50000石となっている。

1610年、徳川幕府の老中に就任すると、酒井忠世・土井利勝らと第2代将軍・徳川秀忠政権における武功派の代表格となり、大御所・徳川家康が駿府城にあると言う二元政治の中、徳川家康の後継者に結城秀康を推した官僚派である大老格の本多正信・本多正純の父子と対立した。
そんな不穏な空気の中、嫡男・大久保忠常(騎西城主)が死去。本多正信らによって暗殺されたとも言われる。

1612年、本多正純家臣の岡本大八事件が起こると対立は激化し、1614年には大久保長安の死後に大久保長安事件となり連座。
更に大久保忠隣が大坂城・豊臣秀頼に内通していると、浪人・馬場八左衛門が密告すると、本多正信が徳川家康に報告した。

大久保忠隣の謀反の疑いは無実の讒言に過ぎなかったが、キリシタン鎮圧のため大坂へ赴いたところを、突如改易された。
近江にて井伊直孝に預かりとなり、栗太郡中村郷5000石に改易されている。

下記は大久保忠隣が彦根藩預かりとなり、幽閉された彦根・龍潭寺にある大久保忠隣幽居之跡の石碑。

大久保忠隣幽閉の地

なお、次男・石川忠総も連座し、駿河で蟄居を命じられたが、石川忠総は既に石川家の家督を継いでいるとし、大阪の陣の頃には許されて戦功もあげ、加増され復帰し、子孫は伊勢亀山藩主となった。

1623年、本多正純が改易。

なお、大久保忠隣は出家すると渓庵道白と号していたが、許されることなく1628年6月27日に死去した。享年75。
墓所は小田原市の大久寺、京都市上京区の本禅寺。


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井伊直孝が、徳川家康の死後に「どうして冤罪であると将軍・徳川秀忠に上申しないのか?、私が力になろうか?」と大久保忠隣に話したところ、今更、罪のないことを申し出ると先君・徳川家康に対する不忠になるとし、大久保忠隣は断ったとされる。
このように大久保忠隣は不遇な晩年を送ったが、死後、徳川幕府成立までの武功が大きかったことが認められ、大久保家の家督は嫡孫・大久保忠職が継ぐと、大久保家は小田原藩主として復帰している。

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