大久保忠教と大久保忠員~徳川本陣を守った三河物語の作者・大久保彦左衛門

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大久保忠教(おおくぼ-ただたか)は、大久保忠員の8男として1560年に三河国上和田にて生まれた。
母は不詳。

父・大久保忠員(おおくぼ-ただかず)(1511年~1582年12月13日)は、徳川家康の祖父・松平清康の頃から松平家に仕える宿老で、蟹江七本槍の1人となる。
その父・大久保忠員が50歳の時に生まれたのが大久保忠教で、兄には大久保忠世、大久保忠佐、大久保忠為、大久保忠長、大久保忠教などがおり、その8番目が大久保忠教と言う事になる。


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大久保忠教は通称・大久保彦左衛門と言い、徳川家康に仕えると、17歳のときに兄・大久保忠世と遠江平定の戦に参加た。
犬居城の戦いが初陣とされている。

その後、兄・大久保忠世や大久保忠佐らを補佐する形で転戦し、高天神城の戦いでは、武田信玄に臣従していた岡部元信を討ち取ったとされている。
しかし、この時、大久保忠世の陣に最後の突撃をした岡部元信を、大久保忠教はまさか敵の大将が先頭に立って突撃してきたとは思わず、ひと太刀当てると、敵の追撃を行った。
この時、大久保忠教の家臣・本多主水が、岡部元信が急坂を転げ落ちたところを討ち取ったが、本多主水もまさか敵の総大将とは思っておらず、首実検で岡部元信と判明し驚愕する。

三河物語では、大久保忠教が「城の大将にて有ける岡部丹波をば、平助が太刀づけて、寄子の本多主水に打たせけり。丹波と名のりたらば、寄り子に打たせましけれども、名のらぬうへなり」と敵の大将を逸した悔しさを述べているが、大久保忠教の一党が討ち取ったので手柄となった。
ちなみに、岡部元信は70歳に近かったと推測されている。
徳川家康は何度も苦しめた岡部元信を討ち取った事を喜び、首級を安土城織田信長の許に送り届けてもいる。

大久保忠教の正室は、旧武田家臣・馬場信春の孫である馬場信成の娘。
子に大久保忠名、大久保包教、大久保政雄らがいる。

1585年、第1次上田城の戦いに出陣すると、真田昌幸の采配に徳川勢が翻弄される中、大久保忠教は兄らと奮戦。

1590年、豊臣秀吉の小田原攻めでは、徳川家康が江戸城に移封され、兄・大久保忠世が45000石にて小田原城主となる。
この時、大久保忠教は3000石を与えられ、1600年、関ヶ原の戦いでは、徳川家康本陣にて槍奉行を務め活躍した。

次兄・大久保忠佐は20000石にて駿河の沼津城主(三枚橋城主)となっていたが、大久保忠佐の嫡子・大久保忠兼が早世した為、大久保忠教に養子となって跡継ぎになって欲しいと頼まれた。
しかし、大久保忠教は「三枚橋城の所領は兄の武功によるもので、自分の勲功によるものではない」と断ったため、のち1613年に大久保忠佐が亡くなると、沼津藩は断絶し改易されているが、いかにも三河武士らしい。

なお、本家筋の大久保忠隣は、徳川秀忠の付家老として、徳川幕府の老中にもなっていたが大久保長安の謀反疑惑もあり、1614年に大久保忠隣の養女の婚姻問題を理由に失脚・改易され、連座した大久保忠教も他の大久保氏同様に一時改易された。

しかし、大久保家は累代における貢献が大きかったことから、本家や一族も許され、大久保忠教は徳川家康直臣の旗本として復帰し、三河の額田に1000石を拝領した。

1614年、大坂の陣でも槍奉行として徳川家康の本陣を固めた。
大阪夏の陣にて、真田信繁(真田幸村)が徳川家康の本陣を急襲した際、馬印の旗も倒れて大混乱に陥ったが、大久保忠教(大久保彦左衛門)は配下を激励して、真田幸村勢に対し果敢に立ち向かったとされる。
のちの詮議にて「旗が倒れていた」と全員が言う中、徳川家の名誉を重んじた大久保忠教は「旗は立っていた」とただ一人言い切ったと言う。

徳川家康の死後は、2代将軍・徳川秀忠の上洛の際に従っており、3代将軍・徳川家光の代では旗奉行となり、平和な世の中でも武功派を貫いた。、
なお、徳川家光からは加増されて2000石となっている。

また、自分の出世を顧みず、多くの浪人たちを養い、また就職活動にも奔走していたといわれている。

1635年頃から常陸の鹿嶋に300石ほどで隠居し、余生を送りながら『三河物語』の執筆を行った。
三河物語は、幕政に対する怒りや不満が記載されており、大久保忠教(大久保彦左衛門)は江戸庶民から“天下のご意見番”と称される。
本来門外不出であったが、講談のベストセラーとなり、就職難にあえぐ浪人から徳川家光まで多くの者に読まれたと言う。

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1632年に大久保忠隣の孫・大久保忠職が大名に復帰するのを見届けた7年後、1639年2月29日、80歳にて死去。

死の間際、徳川家光から5000石の加増が打診されたが「余命幾ばくもない自分には有り難いが不要」と固辞したと伝わる。

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