武田勝頼討死後でも武田家は滅びず


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武田信玄の子

武田信玄の子には下記のとおり男子がたくさんいた・・。
武田信玄の嫡男・武田義信は、後継者としての期待が高かったが、武田信玄への謀反の疑いで1567年に命を落としている。

武田信玄の2男・竜芳は幼少より盲目であった為、出家していた。その後、1561年、海野幸義の娘を娶り信濃・海野氏の名跡を継いで海野信親(海野二郎信親)と名乗り、半俗半僧の身となり「御聖道様」と呼ばれ慕われた。子には道快(武田信道)がおり、共に出家していたようだ。
3男・武田信之は病弱で10歳の時に亡くなったとされているが、別説では甲斐武田氏とも交流があった上総武田氏の養子となり武田豊信と名乗ったともある。
4男・諏訪御寮人との間に生まれた武田勝頼は天目山で1582年討死。
5男は1561年に仁科の家督を継いだ仁科盛信。最後まで武田軍として戦い、1582年織田勢が攻撃した高遠城で討死。
6男とされるのは禰津御寮人の子と言われ、出家し法善寺に入った玄竜。のちに武田勝頼の命令で還俗し、信州の旧族・安田氏の名を継ぎ安田信清と称した。武田氏滅亡後、姉の菊姫を頼り上杉家家臣となり、高家衆筆頭として3300石となる。そのあとに武田姓に復帰し武田信清(米沢武田家)として現在に子孫が残る。
 
このように武田信玄には6人の息子(7人とも?)がいたが、武田信玄が亡くなった時には、長男と3男は既におらず、2男は盲目。必然的に4男の武田勝頼が武田家を束ねるしかなかった。

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甲斐武田宗家の血を残した海野信親

2男・海野信親は盲目であった為、家督こそ継げなかったが、家人・領民からは「お聖道様」と親しまれ、武田信玄正室・三条の方の子と、武田本家の正当な血を受け継いでいた。
その後、武田勝頼が采配を振るった武田は更に領土を増やしたが、力をつけた織田勢の侵入を許すと、次々に家臣が離反。甲府にも織田勢が押し寄せ、海野信親の身を案じた入明寺の栄順が、海野信親を隠まった。
しかし、まもなく武田勝頼討死の報を聞くと、海野信親は入明寺で自害して果てた。
海野信親には男子1人と娘2人がいた。男子の道快(武田信道)(1574年~1643年)は、武田の血筋が絶えるのを心配した入明寺の栄順と長延寺の実了により、長延寺領の信州・伊那犬飼村に武田信道を逃し、織田勢の捜索からうまく逃した。
その後、織田信長明智光秀に討たれて、徳川家康が甲府を治めるようになると、道快(武田信道)は甲府の尊体寺で徳川家康に拝謁。僧として長延寺の再興を許された。
そして、武田信道は法名を本願寺顕如より一字を与えられ顕了道快と称し、1603年には実了の後を継いで長延寺(現在の光澤寺)第二世となった。
道快(武田信道)は、その後、甲斐にて活躍した元武田家臣だった土屋長安とも面識があったと考えらる。
経理に秀でたとされる元武田家臣だった土屋長安は、武田滅亡後、徳川家康に仕え大久保忠隣の与力に任じられ、以後、大久保長安と称した。本能寺の変のあと、甲斐の復興を指揮したのは大久保長安であると考えられ、堤防復旧や新田開発、甲斐の金山採掘などに尽力した。
1590年、徳川家康が関東に入ると、1591年、八王子8000石が大久保長安の領地となり、八王子の開発が始まった。
また大久保長安は徳川家康に対して武蔵国の治安維持と国境警備の重要さを指摘し、八王子500人同心創設を具申して認められ、ここに旧武田家臣団を中心とした八王子500人同心が誕生した。1599年には関が原の戦いに備えて同心を増やすことを徳川家康から許され、八王子千人同心となった。
徳川家康からも重用された大久保長安は旧武田家臣を保護しただけでなく、武田信玄の娘・松姫なども保護したらしい。
1600年には、武田信道に子・武田信正が誕生している。
1613年4月25日、69歳の大久保長安が亡くなったあと、金山産出の横領の疑いを掛けられ5月17日に大久保一族や腹心は捕らえられた。
7月9日には、その捕らえられていた一族郎党が処刑される。
また、武田信道や松姫を保護していたことから、武田氏が再興を企んでいるとも疑われ、武田信道と子の武田信正は笠間城主・松平康長の下に預けられたのち、1615年、武田信正と武田信正(教了)の親子と共に伊豆大島への流刑が決定。武田信正の妻である「ままの局」と家臣9人と共に伊豆大島の野増に居住した。(伊豆武田氏と呼ばれる)
伊豆大島には現在も供養塔や屋敷跡が残る。
武田信道は1643年3月5日に伊豆大島で亡くなったが、子の武田信正は厳しい流刑生活も50年に達しようとしていた。そんな折り、上野寛永寺の法親王・公海上人の仲介などもあり、徳川家光公十三回忌を契機に流刑が許されることが決まり、将軍・徳川家綱より1663年3月赦免され江戸に戻ることができた。そして、1672年、小山田信茂の娘・香具姫を母に持つ、平藩主・内藤忠興(内藤帯刀忠興)の娘(17歳)との間に武田信興を設けた。
武田信興は最初、内藤忠興の元で生活していたが、父・武田信正が死去したのちは柳沢保明(のちの柳沢吉保)の世話になって暮らした。
そして、柳沢吉保の推挙により武田信興は1700年12月27日に徳川家臣として復帰し、甲斐・八代郡内に500石を与えられ、寄合に所属する旗本となる。
翌年1701年1月には徳川綱吉に拝謁。9月には表高家に列することになり、江戸城・幸橋門外に新たに宅地を与えられ、1705年8月19日には領地を相模国大佐郡と高座郡内に移された。その子孫は徳川家の表高家として代々取り立てられ、武田信玄以来の血脈を保ち現在に繋がる。

柳沢吉保の尽力

柳沢家の家紋は「四つ花菱」。武田家と同じ系列の家紋であり、武田一族を示している。家紋が表すように、柳沢氏と武田氏は接点があり、柳沢氏の先祖は清和源氏の流れを引き、河内源氏の支流である甲斐源氏・武田氏一門である。
武田信玄の時代に柳沢氏は甲斐の西部を本拠とした武川衆(武河衆・六河衆)の一員として武田氏に仕え、柳沢村を知行していたとされる。
武田勝頼討死後、武川衆は徳川家康に従い、柳沢家は石高111石程度と小録の徳川旗本として続いたが、将軍・徳川綱吉の時代に、柳沢吉保が小姓頭から大老まで出世を遂げた。
柳沢吉保は1694年には川越藩72000石の藩主となり、1704年に甲府藩15万石の藩主と大出世している。
このように時の人であり、武田とも縁がある柳沢吉保が武田信興を徳川家臣として1700年に復帰されたのである。
ちなみに有名な赤穂浪士を生んだ、江戸城松の廊下で赤穂藩主・浅野内匠頭が吉良上野介に刃を向けたのは1701年3月14日。吉良邸討ち入りが1702年12月14日である。
武田氏が復活を果たした時期は、柳沢吉保と徳川綱吉は難しい政治判断を迫られていた時期でもあった。

柳沢吉保~いち藩士から幕臣として大出世した旧武田家臣
米沢の林泉寺にある上杉家墓所~武田信清の墓など
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