高根城の訪問記~武田流の中世山城を忠実に復元した高根城公園(おまけ若子城)


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遠江・高根城(たかねじょう)は、静岡県浜松市天竜区水窪町(みさくぼ)にある久頭合の山頂に築かれた標高420m、麓の橋との比高で173mの山城である。久頭合城・久頭郷城とも言う。

JR飯田線の向市場駅から南方に入って行くと、途中、案内板が見つけられる。
下記写真は高根城への登り口で、この上に駐車場がある。

その指示に従い登って行くと中腹に何件かの民家があり、その途中に無料駐車場が設置されている。
民家がある場所も、戦国時代には高根城主などの館があったものと言えるだろう。
飯田線もこんな山の中に良く通したものだと感心するが、その向市場駅から歩くと徒歩20分。
それでも、下記の地図ポイント地点に、約20台の駐車場が完備されているのでありがたい。

下記がその駐車場の入口付近の写真。
この場所にトイレもあるが冬季は凍結防止の為閉鎖されている。

この日は、眠い目をこすりながら朝早くに出発し新東名で向かったため、早朝7時40分くらいに到着した。
3月中旬の訪問で外気温は2℃であったが、積雪などはなく道路もノーマルタイヤで全く問題無い。
そもそも、南アルプスとは言え、南側なので、雪もそんなに積もる事はないのだと感じる。

ここの高根城がある水窪までは、新東名の浜松北ICからでも、車で80分ほど掛かると言う、訪れるのには大変苦難が伴う場所である。
しかし、わざわざそんな山奥の山城を訪問したのには、訳がある。

それは、1994年~1999年に本曲輪を中心に発掘調査した結果に基づいて、中世の山城が忠実に再現されているからだ。
以前から訪れたいと思っていたが、なにせ遠いのでなかなか機会を逸していた。
しかし、ようやく機会に恵まれて訪問する事が出来た。

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駐車場がある地点が標高293mで、そこから高根城まで比高127mほどの登りとなり、徒歩15分といったところか?
駐車場から舗装された道を終点まで登ると木製の階段が見えてくる。
その場所が標高324m、そこから高根城の城郭部分まで、標高差96mとになるが、登城道は整備されている。
山城恒例のトレッキングポールも、無くてOKだが、下る事を考えるとあった方が足に負担は掛かりにくいだろう。

上記は高根城の分岐。
ここから左手の登城の小道を登って行けば、城郭部分まで直行できるが、急な階段が見えたので、あえて遠回りとなる右手方向の四季の小道に進んでみた。

四季の小道は途中から谷底を登って行くような感じだ。
下記の写真が途中、振り返ってその谷底を撮影したもの。
しかし、山城なので急な坂は大変息が切れるし、他に誰もいないのでなんだか寂しい感じがした。

そして、息を切らせながら最後の階段を登ると、南の城広場に出た。
南の広場にはちょっとした木製遊具などもあるが、経年劣化のためか「使用中止」となってる。
あまり撮影するにも良い雰囲気ではなかったので、写真はなし。
その南の城から高根城の櫓などが復元されている方向へと向かったが、あれ?
進むにつれて、だんだん標高を下げているのに気が付き、失敗したと感じる・・。

南の城は高根城よりも標高が高い450mくらいで、高根城がある峰の方が標高が低いのだ。
せっかく登ったのに降りると言う、私の一番嫌いなアップダウンの非効率な山歩きとなってしまい、素直に直登していればよかったと後悔する。
しかし、尾根づたいに5分ほど歩くと、立派な郭が見えてきた。
高根城を感じるのではあれば、南の城から向かったほうが雰囲気はよいだろう。

上記は南側から高根城を見た様子で、手前に堀、中間に土塁、そして堀があって、向こう側が三の丸となっている。
と言葉で説明してもわからないと思うので、ここで高根城の城郭図を載せて置く。

下記もその「城外」付近から三の丸(三の曲輪)を撮影したもの。
いつものフレーズだが、各写真はクリックすると拡大するので、念の為記載する。

下記のようにきちんと木道も整備されている。

下記は高根城の4号堀。
恐らくは武田家による改修によるものであろう。

河内川と水窪川の合流点の俗名・三角山に築かれた高根城は、南北朝時代の1414年に、奥山定則(奥山金吾正定則)が後醍醐天皇の孫である尹良親王(伊良親王)(ゆきよししんのう)を保護する為に築いたとされている。
水窪川の対岸に尹良親王(伊良親王)が住む為の仮宮(行在所)があったと言う。
この尹良親王(伊良親王)は井伊谷城が高師泰に攻められて落城したため、関東などを流浪したと言う謎が多い人物だが、井伊道政の娘が宗良親王との間に設けた子であるとされている。

なお、犬居城主の天野家の一族が、久頭郷城主であった時期もあったようで、そうすると、上記の奥山氏以前の話となるような気がする。

戦国時代には今川義元に臣従していた奥山一族であったが、桶狭間の戦い織田信長が勝利したあとは、今川・武田・松平のどこに属するかで、奥山一族は事実上の分裂となるが、高根城の奥山氏は、徳川家康に従っていたものと推測できる。
やがて、甲斐の武田信玄が駿河へ進出する際のルートの1つになり、1569年には武田に臣従していた和田城主・遠山景直(遠山土佐守景直)の軍勢が高根城(久頭合城)を攻め、高根城主・奥山貞益(奥山民部少輔貞益)は降伏している。

地元の古文書によると、水巻城主・奥山美濃守定茂が 兄・奥山民部少輔貞益を滅ぼそうとし、遠山遠江守・遠山土佐守の親子とはかり、奥山貞益(奥山民部少輔貞益)の留守を狙って、長尾(水窪町長尾)に隠居していた父・奥山能登守定之を討ち、高根城に火を放ったとある。

下記写真は途中で振り返り撮影した高根城の城外曲輪。

このように、武田家が高根城に堀を設けるなど改修したが、少ない兵力でも守れるように堅固に造られた小さめの城であり、高根砦と呼んでもおかしくはないだろう。

その後、1572年には武田信玄が西上した際には、2万5千の大軍が青崩峠・兵越峠を越えて高根城下を通過し、二俣城を抜けて三方ヶ原の戦いで、徳川家康を破ったのは有名な話だ。

しかし、武田の軍勢も茅野から高遠城を抜けてと、峠を何個も越えて、こんな山道をはるばる良く来たものだと感心する。

高根城は各曲輪を結ぶ城内道が、ほぼ完全な形で見つかっており、大変貴重である。

2017年のNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」でも、この高根城にてロケ(撮影)が行われた。

井伊直平井伊直親と幼い「おとわ」のシーンなどが撮影された。

と言うのも、高根城がある水窪は浜松市と言う事もあるだろう。

平地の城であれば、復元するための資材を運搬するにしてもラクだと思うが、こんな山の上にて建物を復元したのは、あとは荒砥城くらいで大変貴重である。

下記は高根城からの展望だが、大河ドラマでも民家を消した状態で何度も登場するお馴染みのシーンになっている。

水窪(みさくぼ)の街も、結構、民家が多い。

下記は奥山氏の慰霊碑。

高さ8mの井楼櫓(せいろうやぐら)。発掘された柱穴をもとに、釘を使わない当時の建築技術で復元されている。

冬は氷点下にもなる厳しい地勢であるため、木製の建物はだいぶ傷んではいるので、訪れるのであれば早いほうが良いだろう。

あと10年・20年もすると朽ち果ててしまうと思うが、是非、後世にも伝えて頂きたい史跡である。

高根城の見学所要時間は、私の場合で45分。
もっとじっくり見ると60分くらい見た方が良いかも?

遊具も整備された城跡公園のため、家族連れにもお勧めだが、夏は虫や藪が多いとの事なので、冬季に高根城公園を訪問する事をお勧めする。

もし、春から秋に訪れる場合には、熱中症対策(水分補給)と虫よけスプレーなどは必須と言える。

おかわ御前の逸話

奥山民部少輔貞益の正室とされる「おかわ御前」は、高根城落城の際に、生まれたばかりの姫と3歳の若君を連れて3人だけで逃れたと言います。
城下の水窪川を渡ろうと川に入ったが水流が激しく、2人の子供を抱えて渡るのは難しく、鬼になってやむを得ず姫を手放すと、たちまち姫は川の流れに消えて行ったとされます。
そして、3歳の男の子と共に山の麓にある民家に頼み、水を一杯所望した、老婆に「ここに来たことは言わないで欲しい」と頼みましたが、追っ手が来ると老婆はあっちに向かったと話してしまったと言います。

耐え切れなくなった若君が泣いてしまったところを池の平付近で追っ手に捕捉され、2人は斬られたそうです。

地元では、姫を投げ棄てた淵は「赤児淵」(あかんぶち)と呼ばれ、「池の平」の近くには「おかわ地蔵」(おくわ地蔵)と言う小さな地蔵が建っています。
なお、池の平は7年に1度だけ水を2週間程湛えると言う「幻の池」で、付近のすすきには、おかわ御前の飛び散った血しぶきが染まって、赤い斑点があると言います。
また、不思議なことに、おかわ御前の供養碑は、どちらを向けておいても、いつの間にか高根城の方角を向いてしまうと言われています。
更に、逃げた方向を教えた老婆の家は、その後代々、口のきけない子供が生まれたと、今でも伝えられているそうです。

※デスマス調、失礼致しました。

大洞若子城

高根城から南2kmの場所に「大洞若子城」があるので、ついでに寄ってみた。
橋を渡ったところに下記の案内板があった。
若子城の城主は、高根城主・奥山貞益の弟(3男)の奥山定吉(奥山加賀守定吉)とある。
ちなみに、この奥山定吉の子である奥山吉兼は、武田滅亡後は徳川家の家臣となり、その子孫は井伊直政に仕えている。
そのため、奥山家の墓は、井伊谷の龍潭寺にも存在する。

そして細い道を道なりに進んでいくと、若子城の麓に水量も多い見事な滝があった。
その道の行き先が怪しくなったところに、2台ほど、路肩に止められるスペースがある。
下記の地図ポイント地点となる。

しかし、住民の方であろうか?、登山者なのか?、平日の朝8時30分の時点で、その路肩にはすでに2台止まっていて、他に車を止められる場所がない。
当然、道路をふさぐ形で止める訳にもいかず、滝の撮影も諦めた。
しかも、車の方向転換が不可能だったので「バック」で来た道をずっと戻ることに。
と言う事で、若子城の写真は下記の遠景1枚のみ。

以上、水窪から浜松方面に戻って、次には犬居城へと向かった。
もし、セットで訪れるのであれば、犬居城と二俣城は必須と言える。

二俣城と二俣城の戦い 松平信康の墓 訪問記・写真集
犬居城の歴史と武田流の見事な縄張り~天野景貫とは
井伊直虎とは~おんな城主になった訳と次郎法師のまとめ【2017年大河ドラマ】
三方ヶ原の戦いと一言坂の戦い~史跡の写真や地図・駐車場情報も

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