高天神城の戦い~武田勝頼と小笠原長忠・大河内源三郎、そして岡部元信らの戦い


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高天神城は比高は約100mで連郭式山城に区分される。
古くから地元豪族が城として活用したようだが、文献での初見は、今川家臣・福島助春が「土方の城」に駐屯したと言う。

1536年の「花倉の乱」で今川義元太原雪斎が勝利すると、福島越前守(福島正成か?)は没落し、その後、小笠原春儀(小笠原右京進春儀)が、高天神山城主となった。
1542年には小笠原氏清(小笠原彈正忠氏清)が城主とある。
しかし、1560年の桶狭間の戦い織田信長に敗れると今川家は衰退し、その頃、高天神山城主だった小笠原長忠(小笠原与八郎長忠)や小笠原氏興・小笠原氏助は、1568年の時点で徳川家康に屈した。

その後、遠江を巡って、武田勝頼徳川家康が領有を争う事となり、高天神城でも戦闘が繰り返された。

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第一次高天神城の戦い

武田勝頼は1574年5月3日に25000の大軍をもって甲府を出発し、5月12日に高天神城を包囲。
高天神山城主の勇将・小笠原長忠(小笠原与八郎長忠)は籠城し、徳川家康に援軍を要請したが、この頃の徳川勢は10000程度で兵力が足りず、織田信長にも救援を求めた。
織田信長は5月16日に京を出て、5月28日に岐阜城に帰還。

高天神城は、武田勝頼らの激しい攻撃を受け、5月28日には本丸曲輪、二の丸、三の丸を残すのみとまで追い詰められ、兵糧も欠乏。
6月11日には堂の尾曲輪も落ち、本間八郎三郎氏清・丸尾修理亮義清らも鉄砲で撃たれて討死し、残すは本丸・二の曲輪のみとなった。

しかし、織田信長も出陣して来ると言う情報もあり、武田勝頼は武田勢の馬場信房・山県昌景らの進言を受け入れ、城内に対して調略を行い、また和睦交渉を考えるようになる。

織田信長の部隊が6月17日に三河の吉田城に到着した翌日の18日、城内の小笠原氏助が武田勝頼に内応し、援軍を未だに得られなかった小笠原長忠は降伏した。
武田勝頼は「城主と共に勝頼に付くもよし、徳川家康方に戻るもよし」とし、大須賀康高などは逃がれて浜松城まで落ち延びたが、武田勝頼に寝返った小笠原長忠には、駿河庵原郡・富士郡(鸚鵡栖)に1万貫と言う好条件で迎え入れている。
また、小笠原長忠は徳川家康が送り込んでいた軍監・大河内源三郎が武田への降伏・開城に反対したため、高天神城の本丸下にある「石牢」に幽閉していた。

元今川家家臣の岡部元信が兵1000を持って、高天神城主に任命されている。

この時、援軍として遅れてしまった織田信長は、お詫びとして徳川家康に、兵糧代だと称し、黄金2袋を贈呈したのは有名な話だ。

第二次高天神城の戦い

徳川家康は、高天神城奪還のため、まずは1574年8月1日に大須賀康高が馬伏塚城を改築し、高天神城に備えた。
1575年の長篠の戦いで、徳川家康は武田勢に大打撃を与えると、反撃に出て、まずは、二俣城犬居城諏訪原城を奪取。

一方、武田勝頼も、小山城から海岸沿いに高天神城に至るルートが唯一の補給路となったため、1576年3月に相良城を築いて、なんとか維持を図っている。 
その後、徳川家康は馬伏塚城より高天神城に近い、横須賀城を1578年6月3日に造営。更に高天神山よりの山に小笠山砦を築いた。また、8月には小山城への攻撃を試みている。
 
そして、1578年10月8日、横須賀城の大須賀康高が出陣し、坂部三十郎・近藤武助・柴田三十郎・柘植又十郎・筧助太夫・神谷平六・渥美源五郎ら160名が伏兵となり、高天神城から討って出た武田勢に国安川で勝利。

この頃、武田勝頼は大井川を越えて1578年11月3日に高天神城に入城するも、12月12日には高天神城を出て、12月19日に田中城に入り諸城の巡検と徳川勢に対し牽制する程度で甲斐に戻っている。

その後も、高天神城の麓では小競り合いが続いたが、徳川家康は更に高天神城を取り囲むように砦をいくつも構築し、1579年頃から兵5000を動員して兵糧攻めを準備した。

武田勝頼は1579年8月に横田尹松を軍監とし高天神城に送ったあと、1580年7月頃に高天神城は完全に徳川勢に包囲される。

次第に追い詰められた武田勢の高天神城主・岡部元信(岡部長教)は、甲府の武田勝頼に援軍を要請したが、軍監・横田尹松は「武田の兵力の温存のためにも高天神城は捨てるべき」といった内容の書状を出したこともあり、武田勝頼は兵を出さなかった。

その為、岡部元信は降伏を申し出る矢文を徳川勢に送ったが、織田信長や徳川家康は、武田勝頼の援軍は来ないと分析しており、援軍を出さずに高天神城が落ちれば、駿河での武田の信用は失墜するだろうと考え、1581年1月25日に降伏は許さないと返事している。

1581年3月頃には、高天神城の兵糧は底を尽き、餓死者も増え、残った城兵は草木をかじって飢えを凌いだと言う。

覚悟決めた岡部元信は城兵に酒を与えて最後の訣別の宴を開くと、1581年3月22日の夜22時頃、大久保忠世の陣に斬り込んだ。
岡部元信が500、江馬直盛も500、横田尹松は50を率いたが、斬りこんだと言うよりは、突破を試みたと言って良いだろう。
徳川勢は、自陣の前に「堀」を築いており、堀は688の討死した城兵で埋まったとされる。

徳川家康は、城の将らは生け捕りにせよと命じていたが、名乗らなかったため、大久保忠教の配下である本多主水が岡部元信を討ち取っている。
討ち取った時はまさか敵の総大将とは思っておらず、首実検で岡部元信と分かって驚愕したと伝わる。
その首級は安土城の織田信長の許に送り届けられた。

なお、わずか11名が甲府に逃れる事ができたが、その中に横田尹松が含まれている。
横田尹松がしきりに気を配っていた「石牢」の大河内源三郎は、関節は曲がらず歩行困難になっていたが、8年振りに救出されると徳川家康から忠義を賞賛され、厚待遇を受けて遠江国稗原を知行した。しかし、のちの小牧・長久手の戦いで討死したとされる。

この翌年、信用を失った武田勝頼は、織田信忠の大軍に攻められたが、木曾義昌をはじめ多くの家臣が相次いで離反し、武田本隊で迎撃もできずに武田は滅亡するに至った。

高天神城訪問記・写真集
大久保忠教と大久保忠員~徳川本陣を守った三河物語の作者
横田尹松とは~高天神城の生き残りで徳川家では使番となった武田家臣
忠義の士である岡部元信と岡部正綱とは~出世した岡部長盛も
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