天海とは~徳川家の参謀として暗躍した生涯と川越の喜多院の見どころ


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天海(てんかい)は、1536年?に生まれたとされる天台宗の僧で、南光坊天海、智楽院とも呼ばれます。
出身は陸奥国会津郡高田の郷と考えられ、三浦氏を祖にする蘆名氏の第12代当主・蘆名盛高(蘆名修理太夫平盛高)の一族で、舟木景光(舟木兵部少輔景光)の長男として生まれました。舩木、船木とも書きます。

母は蘆名盛常の娘で、天海の最初の名前は舟木兵太郎です。

生年に関しては1510年、1530門、1542年、1554年の説もありますが、没年は1643年10月2日ですので、90歳~134歳と長寿だったことが伺えます。
11歳の頃に、家督を弟に譲って出家し、龍興寺の名僧・弁誉舜幸法印に師事すると「随風」と号しました。
貧乏が理由で出家したと、のちに語ったとも言われています。

14歳の頃には、故郷・会津を出て修行の旅に出ます。
この時、宇都宮の粉河寺・皇舜権僧正の元には慕って多くの修行僧が学んでおり、随風も約1年、天台宗を学びました。
また、この時、随風は皇舜が驚くほどに成長し、多くの人脈も得たようです。

18歳のときには比叡山延暦寺の実全 (神蔵寺) に師事しすると、また天海は評価されています。
20歳の時には、大津の三井寺 (園城寺) の尊実、21歳のときには南都の中国人・林和成重から日本書紀と漢史を学びます。
22歳になった随風 (天海) は、奈良・興福寺にて空実から学を深めますが、母が危篤との知らせを受けると、23歳のとき会津に戻っています。
自ら葬儀も全て行い、喪が明けると下野・足利学校にて儒学・漢学・易学・天文学・国学・医学・兵学などを学び、2年ほどで頭角を現します。
そして、ほぼ極めたと言う事で、29歳のときに上野国新川の善昌寺にて遊学しました。

尊盛上人から懇願され、31歳のときに善昌寺の住職となり、初めて寺持ちとなります。

1571年には、明智光秀の仲介を受けて、甲斐の武田信玄に招かれます。
その折り、織田信長が比叡山を焼き打ちしたため、随風 (天海) はそのまま甲府に住みました。

随風 (天海) の名声は会津にも伝わり、1573年、蘆名家の16代当主・蘆名盛氏から、先祖供養などのために故郷に戻るよう要請されます。
このため、随風 (天海) は武田信玄の許可を得て、帰国しました。
黒川城(鶴ヶ城)の稲荷堂の別当を任され、約16年間、会津にて僧侶と神職を兼務しています。

しかし、1589年6月5日、摺上原の戦いにて蘆名義広が伊達政宗に大敗し、蘆名家は壊滅します。
蘆名義広は、黒川城を捨てて常陸の父・佐竹義重の元に逃れる事になり、随風 (天海)は甲冑を身をつけ、蘆名義広を護衛して太田城へ同行しました。

そして、武蔵は河越城下の無量寿寺北院(のちの喜多院)に移り豪海僧正に師事すると「天海」を名乗ったとされます。
豊臣秀吉小田原攻めのあと、江戸城に入った徳川家康と天海がこれで結びつく訳ですが、小田原城の徳川本陣に浅草寺の忠豪とともに天海の姿があったとする史料もあります。

なお、蘆名義広は蘆名盛重と改名し、豊臣秀吉から江戸崎(茨城県稲敷郡)に4万5000石を与えられました。
そして、江戸崎不動院が修復されると、第8世として天海が呼ばれていますが、無量寿寺北院と兼務しました。

1596年(1599年とも)、無量寿寺北院の豪海僧正が死去すると、天海が第27世住職となり、荒廃した寺院の再興に着手し、無量寿寺北院の寺号を「喜多院」と改めています。
そして、本多正信の仲介?を受けて徳川家康と面会しました。
単に寄進を望んできた僧侶ではなく、天海の見識に驚いた徳川家康は、以後、天海を参謀とし、朝廷との仲介も担当させています。

1600年、関ヶ原の戦いの際にも、軍師のひとりとして参陣したようで「関ヶ原合戦図屏風 」(関ヶ原町歴史民俗資料館所蔵)には、鎧兜姿の「南光坊」(60歳くらいか?)が描かれています。
また、徳川家康が幕府を開く際の本拠地を相談された際に、天海が「江戸が最適」だと助言したとされいます。

喜多院(きたいん)は川越藩主となった老中・酒井忠利からの寄進を受けて再興されました。
江戸の街は天海が設計したと言われており、民衆に人気のあった平将門の霊を守護神にしています。
また、五色不動尊を要所に配置し、東海道五十三次の整備など都市造りに着手しました。

1607年、天海は比叡山延暦寺の南光坊に移って比叡山探題執行を命じられ、延暦寺再興にも尽力しました。
そのため「南光坊天海」(なんこうぼうてんかい)と呼ばれるに至っています。

1610年までには、駿府城に戻っていて天台宗の講義など行っており、感銘した徳川家康は「もっと早く聞きたかった」と発言しています。

1611年、南光坊天海は正僧正に任ぜられると、後陽成天皇の勅命で教徒・毘沙門堂の再興を開始しています。
1612年には、徳川家康から喜多院 (無量寿寺) へ戻るよう指示を受けており、徳川家より寺領4万8千坪、500石が寄進されました。
1613年には、駿府城から徳川家康が自ら喜多院を訪れていますが、この頃から頻繁に徳川家康と天海が江戸城などで議論している行動が見受けられます。
日光山貫主を拝命し、本坊・光明院を再興する一方で、1614年、大坂の陣のきっかけとなる「方広寺鐘銘事件」が起きますが、天海が授けた策だとする説もあります。

大阪冬の陣にて、天海は徳川家康の本陣に参陣し、1615年の大阪夏の陣でも同様に陣幕に入り、戦後は二条城に滞在しています。

1616年、鷹狩りに出た徳川家康が倒れたと聞くと、急ぎ駿府城に赴いて、藤堂高虎の屋敷があった上野に東照宮を造営する話となりました。
そして、天海が朝廷に掛け合って徳川家康が太政大臣になりますが、武士においては、平清盛、足利義満 (源義満)、豊臣秀吉に次いで史上4人目の快挙となります。

死の間際、徳川家康は、天海、本多正純以心崇伝(金地院崇伝)の3人を枕元に呼び、あとを託しました。

大僧正となった天海は葬儀の導師をつとめ、徳川家康の神号を巡り以心崇伝、本多正純らと争うも「東照大権現」の主張を通し、家康の遺体を久能山東照宮から日光東照宮に改葬しました。
徳川秀忠・徳川家光も天海を厚く信頼し、幕政において天海の権力も頂点に達します。

徳川家康を祀る東照宮は全国に515社も建立されました。
現存は約130社が残っています。

福島正則が武家諸法度に問われた際には、天海が嘆願書を徳川秀忠に提出したため、福島正則は信州への減封で済んだとも言われています。

1624年には、天台宗関東総本山として上野に寛永寺を創建。
徳川家の菩提寺は、2代将軍・徳川秀忠が眠る、芝の増上寺でしたが、以後、寛永寺が徳川将軍家の祈祷所・菩提寺となり、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠っています。
「東の比叡山」となった寛永寺の大部分は幕末の上野戦争で焼けましたが、現在の寛永寺・本堂は川越の喜多院・本地堂を移築したものです。

晩年の天海は、堀直寄・柳生宗矩と共に沢庵宗彭の赦免にも奔走したと言います。

何度も徳川家光の見舞いを受けた南光坊天海は、1643年10月2日、寛永寺の子院・本覚院にて没しました。108歳(諸説あり)です。
遺書遺宝が徳川家光に渡されると、激しく嗚咽したと伝わります。

遺言により、天海は徳川家康が眠る日光山 (大黒山) に埋葬されました。
国の重要文化財である慈眼堂 (日光山輪王寺の天海墓)ですが、原則非公開(関係者以外立ち入り禁止)となっています。

ただし、国宝・大猷院の入口受付にて「慈眼堂(じげんどう)のお参りをしたい」と申し出て拝観料を納めると、パンフレットを頂けて訪れることができる?ようです。

さて、3代将軍・徳川家光は天海に大いに帰依していたため、自分の葬儀は寛永寺に行わせました。
更に遺骸は、徳川家康の廟がある日光と言うより、天海大僧正の霊廟がある慈眼堂の近くにと言う事で、大猷院廟(たいゆういん-びょう)がここにあるのです。

天海の死から5年後、朝廷から慈眼大師(じげんだいし)の諡号が与えられていますが、朝廷から賜る大師号としては史上最後であり、日本で7番目の大師様でした。

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天海は足利将軍12代・足利義晴の子という説や、明智光秀が本能寺の変で敗れた後、天海になったという説もあります。
その出自の不明さや、江戸幕府の中枢を担った経緯から、天海は色々なドラマ・映画・小説などにも登場致しますが、実際の天海はどのような高僧だったのかと思いを馳せるのも良いものです。

川越・喜多院

喜多院(きたいん)は平安初期の830年に、淳和天皇の命にて円仁(慈覚大師)が建立した寺院で無量寿寺と号していました。
関東天台宗の本山として伏見天皇が尊海僧正に託し、後伏見天皇の時には東国580寺の本山となっています。
戦国時代には荒廃し、北院、中院、南院とあった伽藍も、南院に至っては墓地しかなかったと言います。

そして、天海僧正が住職として入ると「喜多院」と改め、酒井忠利の助けもあり再興されました。
山門は天海が建立したもので、喜多院で現存する建物としては一番古い1632年建立です。

しかし、1638年、川越大火にて山門と経蔵以外の伽藍を焼失します。
この時はまだ天海も存命であり、徳川家光が江戸城・紅葉山御殿の一部をわざわざ喜多院に移築させました。

老中・堀田正盛が指揮し再建されましたが、これが国の重要文化財である、現在の客殿、書院、庫裏となり、江戸城にあった建物として唯一の現存建造物とも言われます。
内部は有料で拝観が可能ですので、訪れた際には絶対見学なさってみてください。

客殿には「徳川家光誕生の間」、書院には「春日局化粧の間」がありますが、建物内部は撮影禁止の為、写真は掲載できていません。

4代将軍・徳川家綱は200石を加増して合計750石、寺域48000坪として、更に手厚く保護しています。

下記の五百羅漢は日本三大羅漢のひとつとなっており、538体の石仏が鎮座していますが、石仏はすべてが違う表情・ポーズでなかなか面白いです。

下記は、徳川家光の命にて1645年建立の慈眼堂で、厨子に入った天海僧正の木像が安置されています。

下記は、天海の墓碑です。

さて、河越城跡かもほど近い、喜多院へのアクセス・行き方ですが、西武新宿線の終点・本川越駅からですと、徒歩約15分となります。
クルマの場合には、下記の地図ポイント地点に民間の大きな有料駐車場がありますので、便利です。

古き良き時代である城下町雰囲気が漂う小江戸と呼ばれる川越の街並みも良いですが、喜多院は川越観光での一番の見どころと言えます。
河越城などとセットでどうぞ。

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