北条時政とは~伊豆韮山にある願成就院、執権・北条時政の生涯と牧の方について


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北条時政(ほうじょう-ときまさ)は、伊豆の田方郡北条(静岡県伊豆の国市)の豪族である北条時方(または北条時兼)の子として1138年に生まれた。
母は伊豆掾伴為房の娘。

京都で起きた平治の乱にて、平清盛に敗れた源義朝の子である源頼朝は、命は許されて、1160年3月11日、伊豆の蛭ヶ小島(ひるがこじま)へ流刑となります。

北条時政の正室は伊東祐親の娘でしたが、源頼朝が伊豆に流された頃の北条時政の継室は、牧宗親の娘(妹)である牧の方(まきのかた)だったようです。
牧の方の父・牧宗親は、平清盛の異母弟である平頼盛の家来であったこともあり、流罪となった源頼朝の監視を北条時政が任されました。

やがて、北条時政の長女・北条政子は、1177年頃に源頼朝と結婚し、1178年に長女・大姫を産んでいます。
北条時政が大番役として京都の警護で不在だった時とされています。
最初は反対した北条時政でしたが、のちに認めています。

その後、1180年に平時忠が伊豆の領主となると、工藤祐経や北条時政など在地豪族は圧迫されるようになります。
また、1179年に父との不和で伊豆・山木郷に流罪となっていた山木兼隆が、平時忠によって伊豆の目代とされ、伊東祐親らと力を付けて行くようになりました。

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これに不満を覚えていた北条時政や、平氏が新たに源氏討伐の命を出していたことにより、自分の命も危ういと感じた源頼朝は、お互いの利害が一致し、縁故ある坂東武士に挙兵を呼びかけます。

そして、1180年8月17日、北条時政と源頼朝らは、韮山の北条館から出陣して挙兵すると、さっそく山木兼隆を討ち取り、北条義時、工藤茂光、土肥実平、土屋宗遠、岡崎義実、佐々木四兄弟、天野遠景、大庭景義、加藤景廉らと共に相模へ向かう途中、8月23日、石橋山の戦いとなるのです。

石橋山の戦いにて敗れた際、北条時政の嫡男・北条宗時は逃亡途中に伊東祐親に捕捉されて討死。

北条時政と次男・北条義時は源頼朝と行動共にして安房の仁右衛門島へ逃亡しました。
その後、北条時政は源頼朝の命を受けて、甲斐の武田信義らに合流して駿河へ進出すると、1180年10月2日、富士川の戦いにて、源頼朝らと再び一緒に戦い、平維盛を敗走させ伊東祐親を自害に追い込んでいます。

1182年11月、北条時政の妻・牧の方は、北条政子に源頼朝の浮気を伝えたため、北条政子が牧の方の父・牧宗親に頼み、源頼朝の愛妾・亀の前の屋敷を打ち壊すと言う騒動も起きています。

1185年、平氏が滅亡し、鎌倉幕府が成立すると、後白河天皇は源義経に源頼朝追討を命じますが、この時、北条時政は1000騎を率いて入京し、後白河院の院政停止や幽閉などを断行します。
そして、北条時政は京の管理を任され、京都守護とも呼ばれるようになりましたが、4ヶ月ほどで京から離れています。

その後、鎌倉に入った北条時政ですが、他の有力御家人に押されて存在感が無くなりました。
理由としては源氏出身ではなかったからですが、更に北条時政は策略をもちいて権力を強めて行きます。

1190年9月7日、曾我時致が北条時政を烏帽子親として元服し、その後、北条家に身を寄せていたようです。

父・河津祐泰が1176年に同族の工藤祐経に暗殺されていた、曾我兄弟(曽我兄弟)である曾我祐成と曾我時致は、1193年、富士の裾野で行われた源氏の軍事演習「富士の巻狩り」の際に、父親の仇である工藤祐経を討ち果たします。
1193年5月28日の出来事であり、赤穂浪士の討ち入りなど日本三大仇討ちの一つとされ、後世でも仇討の模範とされた事件となりました。
工藤祐経は伊豆の有力者でしたので、北条時政の地位はこれで確立したものとなり、伊豆だけでなく駿河・遠江にも強固な基盤を築きました。

そして、1199年に源頼朝が死去すると、鎌倉幕府の十三人の合議制に北条時政や嫡子・北条義時の名も出てくるようになり、北条氏は有力御家人に躍り出たのです。

阿野全成に嫁いでいた北条時政の娘・阿波局(あわのつぼね)が、結城朝光に対して「梶原景時があなたを殺害しようとしている」と言い、きっかけを作ると、鎌倉幕府で権力を持っていた梶原景時は失脚し、一族は京へ逃れる途中、北条時政の所領である駿河にて襲撃されました。

1200年、北条時政は遠江守となりますが、これは源氏以外の御家人として初の国司ですので、大出世です。

しかし、将軍家の外戚としては、2代将軍・源頼家の側室・若狭局の父である比企能員が権勢を強め、北条時政の政治に不満を持ち、病床にあった源頼家に北条時政追討を進言します。
これを立ち聞きした北条政子が父・北条時政に報告した為、大江広元の支持も得た北条時政は、1203年9月1日に源頼家が死去したという虚偽の報告を朝廷に行います。
そして、源頼家の弟で阿波局が乳母を務めた12歳の源実朝を3代将軍にたて、翌日の9月2日には比企能員を名越邸に呼び出します。
そこで、待ち受けていた天野遠景、仁田忠常によって比企能員を謀殺させ、更に5日後にはまだ存命であった源頼家の鎌倉殿の地位を奪って将軍職を廃し、伊豆・修善寺へと追放しました(比企能員の変)。

これにより、幼い源実朝の後ろ盾となった北条時政は鎌倉幕府の実権を握る事となります。
同じ政所別当である大江広元の権限も抑え、1203年に初代執権として北条時政が就任したのです。
1204年3月6日には、嫡子・北条義時が相模守となり、武蔵・相模も北条氏が掌握しました。
1204年7月18日には、修善寺に幽閉していた源頼家に刺客を差し向けて、入浴中に殺害しています。

また、1204年、畠山重保と平賀朝雅が酒宴にて言い争いになると、根に持った平賀朝雅は、妻・北条時政の娘を通じて、牧の方(北条時政の後妻)に連絡し、北条時政に畠山重忠と畠山重保の父子の謀叛を訴えます。
一旦は畠山討伐に反対した北条時政でしたが、牧の方に迫られ、同じく娘を嫁がせていた稲毛重成を利用して、畠山謀叛を将軍・源実朝に訴え出る事にしました。
この謀略により、1205年6月22日、畠山重忠の乱が起こり、畠山重保を殺害し、二俣川の戦いにて、愛甲季隆が畠山重忠を弓で討ち取りました。

簡単に経緯を記載しますと、畠山重忠が乱を起こしたのではな、畠山重忠が謀叛を起こしたと偽情報を受けた、各地の御家人が鎌倉にいた畠山重保を討つべく軍勢を向かわせたのです。
そこで、鎌倉で騒ぎが起きていると聞き及んだ畠山重忠も、何事かと菅谷城(埼玉県嵐山)から鎌倉に向けて進軍したのですが、二俣川(横浜市)にて他の軍勢と遭遇すると、自分が討伐対象であると初めて知ったのです。
すでに、子の畠山重保も討たれたと聞かされた畠山重忠は、逃れることなく正義を貫き、僅かな手勢ながらも潔く戦って散ったと言う事になります。

いざ、戦ってみると畠山重忠の軍勢は僅かであったことから、畠山重忠が謀反の企てをしていたと言うのが、すぐに虚報であったと知れ渡ります。

北条時政の嫡子・北条義時も、友人であった畠山重保の首を見て、大変気の毒な事をしたと涙を流したと伝わります。
稲毛重成、小沢重政、榛谷重朝、榛谷重季、榛谷秀重は、畠山重忠をおとしいれた首謀者として、三浦義村らに殺害されました。

この事件で北条時政は失脚した為、継室・牧の方と共に将軍・源実朝をも殺害し、平賀朝雅を奉じて政権を奪おうとします。
この余りにも強引な強硬策にはさすがに北条義時と北条政子も反感を持ち、源実朝を奪って保護すると御家人の多くを味方にしました。
そして、1205年閏7月20日に北条時政の執権職をはく奪し、牧の方と共に鎌倉から追放して、伊豆の本領に幽閉したのでした。
これら紹介してきた北条時政の謀略の多くは、牧の方の発案だとも言われています。

閏7月26日には平賀朝雅も鎌倉幕府によって殺害され、第2代執権には北条義時が就任。

北条時政は、そのまま伊豆にて余生を過ごし、1215年1月6日、腫物のため死去しました。享年78。
牧の方は平賀朝雅の妻だった娘が、再嫁した権中納言・藤原国通の元に身を寄せ、贅沢に暮らしたと伝わります。

願成就院

伊豆・韮山にある願成就院(がんじょうじゅいん)は、1189年の奥州征伐の戦勝祈願の為に、北条時政が領地であった守山の麓に創建したもので、国指定史跡にもなっています。

高野山真言宗の寺院で、仏師・運慶作の数少ない阿弥陀如来坐像(国宝)も安置されているそうです。

1491年、北条早雲の動乱で願成就院は、ほぼ全焼し、そのあと少し再建されたますが、1590年、豊臣秀吉小田原攻めの際にも再び全焼しました。
江戸時代の1753年に河内狭山藩の第6代藩主・北条氏貞(北条氏規の子孫)が復興させています。

茅葺の本堂は1789年の建立です。

その願成就院の境内に入って左手にある鐘楼の近くに、北条時政の墓があります。

堀越公方・茶々丸の墓も境内にありますが、本堂の右手奥にある池を渡った先、山肌のところとなります。

願成就院への行き方(アクセス)ですが、伊豆箱根鉄道の韮山駅からだと徒歩15分、タクシー5分です。
車の場合には、下記の地図ポイント地点が参拝者用駐車場で、境内に入れるのは朝9時~16時となります。

※上記の地図に表示されている北条時政墓とある場所は違っていますので、参拝される場合には、上記本文中の説明通り、境内に入って左手にお進み願います。

以上、ご覧頂きまして、ありがとうございました。

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