蠣崎光広(蠣崎光廣) 蠣崎氏拡大の策士

徳山館・大舘

蠣崎光広(かきざき-みつひろ)は、蝦夷・勝山城主である武田信広(蠣崎信広)の嫡男として1456年3月に生まれました。
母は安東政季の娘(蠣崎季繁の養女)です。
父は、1457年に、コシャマインの戦いを策略を用いた制した有能な武将であり、子の蠣崎光広も賢かったようで、智将と言えます。
上記の通り、下国恒季(安東恒季)を廃することにも成功していますが、蠣崎家は、檜山城主・安東氏の代官として蝦夷をまとめていると言う立場でした。

永正9年(1512年)4月にアイヌの酋長ショヤ・コウジ兄弟が蜂起します。
詳しいことは不明ですが、アイヌ人は6月27日の早朝に大舘を攻撃して、相原季胤と村上政儀が討死しましたが、これは蠣崎光広(蠣崎光廣)の策略とも言われています。
そして、蠣崎光広と子の蠣崎義広が1513年に鎮圧していますが、大舘を襲撃したのはアイヌに偽装したこの2人の軍勢だったとも・・。


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そして、蠣崎光広(蠣崎光廣)は1514年に松前大館を手に入れると、上之国の勝山城から、小舟180隻を率いて本拠を松前に移し、居館を改修して名称を徳山館と改めました。
ちなみに、勝山城には次男の蠣崎高広が入っています。

その1514年には、函館の与倉前館・小林季景の子である小林良治(小林景宗、小林小三郎景宗?)が、蠣崎光広を頼って徳山館に来ています。
このとき、宇須岸館主・河野季通の娘(3歳)も、乳母に負われて松前に逃れており、のち蠣崎光広の子・蠣崎季広が正室に迎えています。

また、1515年6月、連勝して勢いに乗るショヤ・コウジ兄弟に率いられた東部アイヌ軍が徳山館を攻めていますが、和睦交渉を持ちかけると、アイヌ軍の酋長兄弟や主だった者は、徳山館にて謀殺されており、蜂起は鎮圧されました。

これらの功績を掲げて、主君である安東家の惣領・安東尋季(安東忠季の子)に、松前守護を認めてほしいと、2度も願い出ていますが、蝦夷の血統でないものにはその権限がないとされ、許されてはいません。

しかし、弁舌に長けた紺備後という浪人を使者として送ると、嫡男・蠣崎義広に松前守護を安堵され、念願であった渡島半島の支配権を手に入れました。
ただし、商船と旅人から徴収した税の過半数を、檜山安東氏に贈ると言う条件で妥協したとも言われています。


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蠣崎光広(蠣崎光廣)は、1518年7月12日に死去。

家督は、蠣崎義広(かきざき-よしひろ)が継いでいます。

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