鳥居元忠~伏見城で華々しく散り忠義を貫いた三河武士


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鳥居元忠(とりいもとただ)は、松平家の家臣・鳥居忠吉の3男として、三河碧海郡渡郷(愛知県岡崎市渡町)にて1539年に生まれた。
幼名は鶴之助、のち彦右衛門と称している。

渡城主の父・鳥居忠吉は松平清康に仕え、のち岡崎城主・松平広忠に仕えていた。

長兄・鳥居忠宗は1547年に松平広忠と松平信孝との渡の戦いで孤軍奮闘するも討死。
次兄・本翁意伯は京で修業したのち、岡崎城の近くの光善寺の住職となっていたため、のちに3男の鳥居元忠が家督を継ぐ事となる。

1545年、尾張の織田信秀が三河に侵攻すると、主君・松平広忠は今川義元を頼り、この時、嫡男・竹千代(後の徳川家康)が人質として駿府に送られた。
そして、1551年、13歳になった鳥居元忠は駿府に赴き、松平竹千代の近侍となった。

正室は松平家広の娘で、1566年には2男・鳥居忠政が誕生している。

桶狭間の戦い織田信長が今川義元を破ると、松平元康(竹千代)は今川家から独立。
徳川家康が三河を統一すると、鳥居元忠は旗本先手役として1558年の寺部城の戦い、1570年6月、姉川の戦いなど弟・鳥居忠広と共に「三河武士」として活躍した。

1572年に父が死去すると、鳥居家の家督を相続。
1572年12月の三方ヶ原の戦いでは、諏訪原城を攻めた際に斥候として敵陣に潜入。その際、武田勢に発見されて足に鉄砲傷を受け、それからは片足が不自由になっている。

1573年、三方ヶ原の戦いでは武田信玄の部隊に徳川勢は大敗。この時、弟・鳥居忠広は殿を務め討死している。

その後、鳥居元忠は1575年5月、武田勝頼との長篠の戦いや、1581年、高天神城の戦いにも参戦。

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黒駒の戦い

1582年、明智光秀による本能寺の変で織田信長が横死すると、徳川家康は信濃・甲斐へ侵攻。
これに対抗する北条氏直碓氷峠から信濃に入り、北条氏規らと43000にて佐久から甲斐に入ると若神子城に布陣。
対する徳川家康は本多忠俊・岡部正綱や、諏訪・高島城から退却してきた酒井忠次らと新府城に10000にて籠城し、北条家と対峙。

更に北条勢は郡内の勝山城北条氏政・北条氏忠・北条氏勝里見義頼らを配置し、秩父からは北条氏邦と、甲斐の徳川勢を包囲する体制を取った。

郡内の北条勢は笹子峠を越えて大野砦を攻撃するも失敗し、中道往還の本栖城攻めもうまくいかず、焦った北条氏政は北条氏忠の1万に御坂峠を越えさせて、甲府へ攻めさせた。

北条勢10000が御坂峠を越え甲府に侵入するも、北条氏忠は軍を東側と西側と2つに分けて、御坂峠から下らせたうえ、徳川勢の抵抗が無いと安心した北条の兵は、略奪・強奪を始めてしまい、散々に分散されたようだ。

そこを、2000の兵を預かり、新府城から甲府(府中)の防衛の為出動していた鳥居元忠は、御坂の北条勢10000に果敢にも攻撃を挑んだ。
三宅康貞、水野勝成、平岩親吉らの活躍もあり、下黒駒・上黒駒で「黒駒の戦い(黒駒合戦)」となる。

鳥居元忠は北条勢の退路となる上黒駒を遮断して塞いだが、徳川家康は旧武田家臣を手厚く受け入れていたことからか、上黒駒の在地衆が鳥居元忠勢に加勢したとの伝承もある。
御坂城の北条勢も急遽、救援に向かったが、撤退してくる北条勢とぶつかり合い、進退が窮まるところを鳥居元忠は散々に蹴散らしたものと推定される。

この時、加勢した黒駒の勢力は、徳川家臣・成瀬正一の功績だったのではと小生は推定している。
成瀬正一は武田家臣だった事があり、織田信長が甲府を攻めた際に、多くの武田家臣を保護していた。その成瀬正一は武田信玄からこの黒駒を所領として与えられていたのだ。
徳川家康が甲斐を統治すると成瀬正一は 日下部定好とともに1590年まで甲斐一国の奉行を務め、米倉忠継、折井次昌、大久保長安、武川衆などを徳川家臣に加えている。

さて、蹴散らされた北条勢は周囲の山中に逃げ込み、北条氏忠も退却を図ったが、急斜面で疲労した馬が進まなくなり、家臣の別の馬を借りて敗走したとの話もある。
こうして、御坂峠に急造された「御坂城」の田中吉利・間宮康信・中野友宗・内藤大和守らも打ち破った、鳥居元忠勢は、北条の首を300とも500とも挙げたと言う。

負傷者はだいたい戦死者の3倍であるため、死傷者合計だと2000と推定され、鳥居元忠は兵力に劣りながらも大勝利した。

なお「三河物語」によると北条勢の首は若神子城の手前に並べられて、別働隊の敗退を知った北条家の本隊は、戦意を喪失。
また、大軍の北条家を相手に勝利した徳川家康が有利と、鳴りを潜めていた旧武田家臣らは徳川家康になびく様になり、更に若神子城近くの豆生田砦と、獅子吼城を徳川勢が落とすに至ると、滝川一益配下から北条勢に一旦加わっていた真田幸村の父・真田昌幸が、大久保忠世と旧交のある依田信蕃を仲介に徳川家康に寝返り北条家の背後を脅かしただけでなく、沼田城も奪還。
北条勢は上野方面で真田昌幸に激しく抵抗したが、依田信蕃が小諸城・大道寺政繁を追い払い、また、徳川に服従していた小笠原貞慶も深志城に入ると、若神子の北条勢は兵糧搬入が難しくなり、1582年10月29日、北条氏直は織田信雄を仲介役とし、使者として板部岡江雪斎を遣わし、徳川家康と和睦。

これにより、甲斐・信濃は徳川家康が所有することとなり、北条氏直に徳川家康の娘・督姫が嫁ぐこととなった。

鳥居元忠は、かつて小山田信茂が治めていた郡内を与えられて、谷山城主となる。

1585年、真田昌幸が上杉景勝に寝返ると、徳川家康は鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら7000を上田城に派遣したが、この時は巧みな戦術により敗戦し、1200の上田城攻略を失敗。
そして石川数正豊臣秀吉に出奔したため、撤退している。

真田家が臣従していた上杉景勝が豊臣秀吉の配下に加わると、真田昌幸は徳川家康の傘下に入るよう命ぜられ、本多忠勝の娘・小松姫が、真田信之に嫁いでいる。

1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際には、鳥居元忠も参戦し、本多忠勝、平岩親吉、戸田忠次、松平康貞らと共に津久井城攻略や岩槻城攻めなどで武功を挙げた。
徳川家康が関東に移封されると、鳥居元忠は下総国の矢作城主として40000石となっている。

このように数々の戦で戦功を挙げた鳥居元忠であったが、感状などは信頼できない者に与えるべきで、徳川家康からの感状は無用だと受け取らなかったと言う。
また、1586年に徳川家康に従って上洛すると、豊臣秀吉からの官位推挙の話が何度かあったが、2君に仕える才も無く、秀吉公に出仕する器量もないと、断っている。

また、武田勝頼が討死した際の話だが、武田家臣・馬場信春の娘の探索を命じられた鳥居元忠は、捜索を打ち切って娘は見つからないと徳川家康に報告した。
しばらくして、その娘が鳥居元忠の本妻のように振舞っていると言う話を聞いた徳川家康は「抜け目のない男よ」と高笑いで許した。
この側室として馬場信春の娘との間には、3男1女をもうけたと伝わる。

伏見城の戦い

1600年、徳川家康が上杉景勝の征伐のため、京から出陣した際に、鳥居元忠は1800の兵と鉄砲200丁を与えられ、ニの丸には内藤家長、内藤元忠、佐野綱正、三の丸は松平家忠と松平近正・鵜殿氏次など、治部丸には駒井直方、名護屋丸には岩間光春と甲賀衆、松の丸には深尾清十郎・木下勝俊、太鼓丸に上林竹庵、また安藤定次らが伏見城の守備を任された。

これは、石田三成が挙兵した場合、僅かな兵の伏見城を攻撃させ、大義を得ると見越した上で、徳川家康が鳥居元忠に命じたもので、大阪城から出陣した徳川家康は、翌日の6月16日伏見城に宿泊すると、鳥居元忠と酒を飲み交わした。
徳川家康が「我は手勢不足のため伏見に残す人数は少しで汝には苦労をかける」と述べると、心中を察していた鳥居元忠は「そうは思いませぬ。天下の無事のためならば自分と松平近正両人で事足りる。将来、殿が天下を取るには一人でも多くの家臣が必要である。もし変事があって大坂方の大軍が包囲した時は城に火をかけ討死するほかないから、人数を多くこの城に残すことは無駄であるため、一人でも多くの家臣を城から連れて出てほしい」と答えたと言う。
徳川家康は、この言葉に深く感謝し、深夜まで飲み交わして別れを偲んだと伝わる。

そして、徳川家康は、井伊直政榊原康政・本多忠勝らと共に奥州を目指すと、石田三成は挙兵して宇喜多秀家を総大将、副将は小早川秀秋で、毛利秀元吉川広家小西行長長宗我部盛親長束正家鍋島勝茂大谷吉継など40000の大軍が伏見城を包囲。
なお、徳川家康から要請を受けた島津義弘が1000を引きいて入城を求めたが、その話が鳥居元忠に伝わっておらず入城を拒否されている。
増田長盛が送った降伏勧告の使者・山川半平を鳥居元忠斬殺して送り返すなどし抵抗を続けたため、以外にも7月18日から8月1日の間、伏見城は落ちなかった。

長束正家が鵜飼藤助に命じて伏見城内にいた甲賀衆の妻子一族を捕縛して内通を脅迫したため、甲賀衆が伏見城内に火を放ったため、8月1日に目の前に現れた敵将・鈴木孫一(鈴木重朝)に「吾は鳥居彦右衛門よ。首取て功名にせよ」と告げると、具足を脱いで切腹し、鈴木孫一に介錯されるような形で討ち取られ、伏見城は落城。
主君・徳川家康の天下を夢見て、長年共に戦った鳥居元忠は、最後に命を張ってこれ以上とない忠義を示したまさに三河武士の鏡であった。享年62。

内藤家長、松平家忠、松平近正、安藤定次らも共に討死した他、このとき伏見城では多くの家臣らが切腹し、関ヶ原の戦いを制した徳川家康は、その血染めの畳を鳥居元忠の忠義を称える形で、江戸城・伏見櫓の階上に設置した。
明治維新で、勝海舟西郷隆盛により江戸城明け渡しとなった際、その畳は栃木県下都賀郡壬生町の精忠神社脇に埋められて供養されている。

また、血染めの床板は「血天井」として京都市の養源院をはじめ、宝泉院、正伝寺、源光庵、宇治市の興聖寺の天井に用いられ、現在も垣間見る事ができる。

徳川家康は、鳥居元忠の嫡男・鳥居忠政を、磐城平藩10万石を経て山形藩24万石の大名に昇格させ、忠義に報いた。
また、江戸時代に鳥居家は2度も改易されそうになったが、いずれも鳥居元忠の勲功が大きいとして、減封に留められ断絶を免れている。

なお、鳥居元忠の4男・鳥居忠勝は水戸藩士となったが、その娘が赤穂藩の家老・大石良欽に嫁いだ。
この夫婦の孫に当たるのが赤穂浪士(忠臣蔵)で有名な大石内蔵助(大石良雄)となる。

下記は島原にある松平家の菩提寺「本光寺」が所蔵する、伏見城の戦いの際の伏見城の様子と、攻め手の豊臣勢布陣と守備側の布陣が記載されている大変貴重な絵図となる。
炎上しする前の伏見城を知ることが出来る唯一のもので、これだけの城を2~3千人で守備するのは無謀であることも良く分かる。
西軍は5万人、城中は2千人とも明記されており、資料館の受付フロアにて模写品が500円で販売されていたので、もちろん購入してみた。
※転写不可の為下記は資料館の写真を引用させて頂いている。


(出典:本光寺常盤歴史資料館」)

京都・養源院にある血染めの血天井とは?
鳥居元忠の次男である鳥居忠政の6娘(真田信重の正室)の墓【鴻巣・勝願寺】
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コメント

  1. ワタシこの方大好きなんですよ。
    養源院の血天井も見に行きました。関ヶ原について私が元住民であるため(ボランティアガイドみたいなこととかセールスしたいと思ってるんです)どっちがどうだという意見を持たないことにしていますが、鳥居元忠だけは話は別です。好きな武将の一人です。

    • 高田哲也
    • 2015年 3月 19日

     寺田みゆきさま、いつもコメントなど多大なご支援を賜りまして、誠にありがとうございます。
     ずっと前から、鳥居元忠は取り上げたかったのですが、ようやく機会を得て頑張ってみました。かなり時間を費やしました。
     調べて見ますと、徳川家臣の中でも、かなり濃い活躍をした実直な武将でして、全部取り上げると、鳥居元忠ひとりで大河ドラマ作れるくらいでしたのでだいぶ省きましたが、特に血天井に関する部分は、クライマックスでしたので少し詳しく記載してみました。
     とは言え、特に伏見城の部分は、様々な解釈もあるかと存じますので、ご意見などございましたら、遠慮なくコメント賜りますと幸いです。

    • こめ
    • 2016年 2月 27日

    鳥居元忠さんのことを詳しく知ることができ、本当に嬉しいです。以前からぼんやりこの鳥居サンってかっこいいなー!と思っていたのですが、伏見城の戦いだけでなく、色々な戦で活躍し、また色々なカッコイイ逸話が残っているんですね。
    まとめて頂いてありがとうございます!いつか大河ドラマにならないかなー♪♪

    とても余談ですが、新成人として三十三間堂の弓道大会に参加し、待ち時間にブラブラ散歩していて偶然養源院にたどり着きました。「表に書いてあった血天井ってなんだろうね?」と、母と呑気なことを言いながら中に入ってみると、お寺の方が棒を持って、「こちらが誰々が切腹した跡、こちらが血の手形です」等など紹介してくださり、肝を冷やしました。その後うぐいす張りの床を楽しむのに夢中になっていたのですが、ふと天井を見るとしみが沢山ついており、お寺の方が棒で指した一部分だけでなくお寺さんの天井ぐるりと一周すべて血天井なんだと気づいた時にはゾッとしました。

    • 高田哲也
    • 2016年 2月 27日

    こめさま、この度はコメントを賜りまして、誠にありがとうございます。
    戦国好きな方で、鳥居元忠さんの事も好きな方は、結構いるような気がいたしておりますので、ご指摘のとおり、大河になると良いですね。
    三十三間堂での弓とは、スゴイですね~。
    養源院もたしか内部撮影禁止でしたので、私も写真はないのですが、三十三間堂を観光した際には、セットでオススメできますよね。
    戦国武将好きのFacebookグループもございますので、もしよろしければご参加賜りますと嬉しく存じます。
    https://www.facebook.com/groups/675590472547562/

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