連載:戦国未来の古文書お気軽読み 第10回 『東国紀行』「かた岡かけたる小城」


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古文書に魅了されて早うん年の戦国未来(せんごくミク)と申します。

今回ご紹介するのは、『東国紀行』「かた岡かけたる小城」です。野田城から井平城(かた岡かけたる小城)を経て、井伊谷城、さらに、引馬城へ向かうという紀行文です。

 

宗長の『宗長日記』は、このサイトに訪問される戦国時代のファンなら読まれたと思いますが、弟子の宗牧の『東国紀行』(天文13年(1544)9月~天文14年(1545)3月までの紀行文)は、今川氏のファン以外には読まれていないかもしれません。

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では、早速、「かた岡かけたる小城」について読んでみましょう。

 

【未来のお気軽訳】 

井伊次郎直盛殿へは、親孝行な人(今泉弥四郎)を遣って、昨日(天文13年(1544)12月11日)、連絡してくれていた。「豊川の渡河点まで迎えに来るように」とまでは申し合わせてはいなかったが、(三遠国境の)山を越えて、井伊衆の武士4、5人と井伊彦三郎(直元?)が迎えに来てくれて、先立って道案内をしてくれた。(夜の山道は怖いので、日が暮れるまでには着きたいと)急いで行くと、「かた岡かけたる小城」があった。この城の城主・井平氏は井伊家の庶子家で、(同行の僧を遣わして、「今日中に井伊谷に行くと井伊直盛に伝えてあるので滞在している時間的余裕がない」と伝えると、)「今日中に井伊谷に下着(げちゃく。都を出て地方のある場所に到着すること)と決めておられるようですので、お寄りにならなくてもいいですよ。(お急ぎのようですから引き留めることはしません)」と言って、遣いの僧を通して樽酒と酒の肴(おつまみ)を贈ってきた。(先を急いでいたので、井平城には寄らず、下馬して宴を設けることもせず、)馬の上で(移動しながら)酒を飲む(いただいた樽酒を飲み、肴を食べる)形となった。初夜(12月12日20時の読経の刻限)を過ぎて、小野和泉守政直の屋敷に着いた。しばらくすると、井伊次郎直盛殿が光儀(来訪)され、「明日、連歌の会を一座催して欲しい」と熱望された。それで、

太山(みやま)にも 宿や桜の雪の庭(こんなに深い山奥にも宿があり、風流を解する人の屋敷なのか、庭には桜が植えられ、雪が降り積もっている

と詠んだ。このような(都から離れた)山中にも、連歌に興味がある風流人がいる。その連歌に対する熱意をほんの少し評価してみたのである。

(12月13日も小野屋敷に泊まり、)12月14日、引馬城まで急いで行った。井伊次郎直盛殿本人と井伊衆が「都田(みやこだ)」という所(都田川の渡河点)まで送ってくれた。ここでもまた、別れの盃を交わした。そして、(謙遜されて)「仮初の宿(通り道のちょっと立ち寄るだけの宿)だから、駿府から京へ帰る時には、必ずお寄り下さい」と言われたので、

帰りこむ秋をまたなん都田のあせの細水ゆき別るとも(都へ帰る秋を待っていて下さい。「都」をその名に含む「都田」の田の「畦の細水」(畦道に沿った細い用水路。「畦の細道」(細い畦道)の誤りか?)が先で別れても(来年の秋には会えるでしょう)。)

と詠みつつ別れた。また、24、5町(1町=60間=360尺=109m)は離れている引馬まで送ってもらった。(この後、宗牧は、京都への帰還途中の翌・天文14年(1545)9月22日に没し、再び井伊谷の地を踏むことはなかった。)

です。

 

おんな城主直虎」時代考証担当の小和田哲男氏は、次のように意訳しておられます。(小和田哲男『井伊直虎 戦国井伊一族と東国動乱史』洋泉社 pp.110-111)

【意訳】 井伊直盛は孝順の心ある人で、昨日連絡をとっていた。このあたりまで迎えに来るであろうと思っていたところ、深山を越え、侍四、五人、井伊氏の同名彦三郎という者が迎えにきて、案内してくれた。急いで行くと、丘の上に小さな城があった。これも井伊氏一族の城であろう。今日は井伊谷まで行くと決めていたので、抑留にはおよばないといったところ、使僧をよこして酒・看を贈ってきた。馬上で呑み、食べするうちに小野和泉守のところに着いた。直盛がやってきて、明日、連歌会(れんがえ)を開きたいといってきた。そこで、
太山にもやどやさくらの雪の山
と詠んだ。このような山中で、連歌に執心する犬切な心を詠みこんだつもりである。

十四日、引馬まで急いだ。直盛自ら、同名の者だちと都田(みやこだ)というところまで送ってきた。そこでまた盃。帰京のときにはまた必ずというので、
帰りこむ秋をまたなん都田の
あせの細水ゆき別るとも
といいつつ別れた。

 

さすがですね。「お気軽訳」より簡潔で分かりやすいです。(ただ、私の見た写本の俳句は、「雪の山」ではなく、「雪の庭」になっていました。)

さて、「かた岡かけたる小城」で気になる点が2点あります。1点は、「なぜ同じことが繰り返されたか?」で、もう1点は「かた岡かけたる小城」の訳です。

井伊家の歴史を調べると

・家老・小野政直の讒言で、井伊直満今川義元に誅殺された。

・家老・小野政次の讒言で、井伊直親が今川家臣に誅殺された。

と、同じことが繰り返されてるわけで、

──学習能力がないの?

と言いたくなりますが、そうではなく、「史実は、同じことは繰り返されなかった」のでしょう。現在の歴史学会の流行「徳川史観からの脱却」に沿って語れば、「徳川家康が誅殺した小野家は悪者でなければならない」として、歴史の書き換えがあったということです。

井伊直満・直義兄弟の誅殺の直前に宗牧が井伊谷に来ています。そして、宗牧は、その後、引馬城(静岡県浜松市)に1泊、見付(静岡県磐田市)に1泊、島田(静岡県島田市)に1泊して、12月17日に駿府(静岡県静岡市)に着き、12月18日に今川義元に接見して、「そと申入れて、やかて退出」(見聞きしたことをこっそりと報告)しました。そして、駿府に呼び出された井伊直満・直義は、12月23日に切腹させられました。翌12月24日、宗牧は「別時」(「別時念仏」の略。ひたすら念仏を唱えること)を行っています。『東国紀行』を読むと、「家老・小野政直の讒言で、井伊直満・直義兄弟が今川義元に誅殺された」のではなく、「宗牧の報告を聞いて、井伊直満・直義兄弟が今川義元に誅殺された」ように思われます。

宗牧は、井伊谷城では、本丸(井伊氏居館)ではなく、三之丸(小野屋敷)に泊まっています。この理由を、小和田氏は、前掲書に次のように書いておられます。

「 井伊氏当主の直盛が宗牧を迎えたり送ったり、接待をつとめているが、宗牧が泊まったのは「和泉守所」、すなわち小野和泉守の館である。これでは、どっちが主人か家来かわからない。小野和泉守はそれだけの力を持っていたのである。
さらに憶測をたくましくすれば、直平─直宗─直盛の井伊氏は、直平のときまで今川氏に抵抗を続けていたこともあり、今川氏とは距離をおきたいと考えていたのに対し、家老の小野和泉守は、むしろ今川氏にすり寄り、今川氏の力で井伊氏を存続させたいと考えていたものと考えられる。小野和泉守が義元に「直満・直義兄弟に謀叛の恐れあり」と訴えたのも、そうした背景があったからであろう。そうなると、当主直盛も、小野和泉守が生きている間は、亀之丞を呼びもどすことができなかったものと思われる。」(小和田哲男『井伊直虎 戦国井伊一族と東国動乱史』洋泉社)

なるほど。私の脳は単純構造なので、連歌師・宗牧が小野屋敷に泊まったのは、小野家に伝わる小野篁や小野小町の遺品を見たかったから、あるいは、和歌について語り合いたかったからだと思っています。(ちなみに、これらの遺品は、江戸時代に井伊氏に代わって領主となった近藤氏に貸し出したままで、まだ返してもらっていないとのことです。)

井伊直盛は、NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」では、華道をたしなんでいますが、私的には無骨な武人のイメージです。宗牧もそう思っていて「連歌の会を開きましょう」と言われて、「こんな山奥にも風流人がいたのか」と驚き、武人・井伊直盛の文人としての評価をちょっと高めたのでしょう。

一方、小野氏は、浜名氏ほどではないにしろ、文人として名が通っていました。夜には酒宴となり、小野氏は酔った勢いで、家老としての苦労を漏らしてしまったのではないでしょうか。その愚痴を今川義元に報告され、井伊直満・直義兄弟が誅殺されたのではないでしょうか?

これに対し、井伊直盛は、宗牧が今川のスパイだと薄々気付いていて、本丸の間取りを知られないように本丸に泊めなかったのではないか、領地の端から端まで(豊川から都田まで)人を付けたのは「宗牧の護衛、道案内のため」だけではなく、「絶えず宗牧の行動を監視するため」(たとえば、城の脇を通る時に、歩数を数えて城の大きさを測ったり、設備の配置をメモしたりしていないかとか)ではなかったかと。

──戦国時代は、ちょっとした不注意が命取り。

 

《伊平紀行》

 

<写真1:伊平観光案内板>

伊平(現在の表記。戦国時代の表記は「井平」)へ行ってきました。

 

<写真2:岡の頂上の井平城跡碑>

<写真3:井平城復元図>

<写真4:井平城案内板>

「 井平氏は井伊家七代井伊弥直(みつなお)の時代に分家、井平四郎左衛門直時が井平氏の祖となり井平・花平の領主で殿村に居館を構えていた。南北朝期井伊家の枝城が記されている浜名古城記に「北は伊平の川東、今城山と云う処に砦を築き井平左衛門二郎重直其の子掃部(かもん)左衛門直勝之を守る」とある。

天文十三年十二月(一五四四)井伊谷城主井伊次郎に招かれた連歌師の宗牧は、井平村を通過した折その道中記東国紀行に「片岡かけたる古城あり之も井伊家一家の人」と井平城のたたずまいを詠じている。
又細江町の式内社蜂前(はちさき)神社の古文書には井伊直平公の嫡男で井伊家十四代井伊宮内少輔直宗の伊平村御在城が記録されている。

井平城は旧鳳来寺街道上の要所に在り戦国時代小屋と呼称されていた。元亀三年十月(一五七一)武田信玄の将山県三郎兵衛昌景の率いる一隊の進攻を受け落城している。

 この付近には帯曲輪・土塁・土濠・井戸跡等と目される遺構が現存僅かに昔日の面影を留めている。」(現地案内板)

<写真5:城の東端に沿った鳳来寺道>

 

気になるもう1点は、「かた岡かけたる小城」(井平城のこと)の訳です。通説は、「片岡欠けたる小城」として、「西半分が欠けて絶壁となっている岡に築かれた小城」と、城がある岡の形状に合わせて訳されています。

宗牧が通ったのは、井平城の東の柵に沿った鳳来寺道だと思われますが、その鳳来寺道からは、城の西側が崖であることは、たとえ馬上からであっても見えません。そこで私は、「片岡(岡の半分。南斜面)を全面使って、岡の頂上から麓にかけて縄張りされた小城」と訳しています。

どうでしたか?

感想をコメント欄に書いていただければ幸いです。

では、最後に原文を載せておきますね。今回の記事を参考に、解読に挑戦してみてね。

 井伊次郎殿へハ、孝順知人にて、昨日申つかハしたり。「このわたりまでむかひくるらんな」と申もあへす、深山をこえて、侍の四、五人、井伊殿同名彦三郎迎とて、さきへ案内あり。いそき行ほとに、かた岡かけたる小城あり。これも井伊一家の人。「今日、谷まて下着あひさためたれは、抑留にをよはす」とて、使僧して樽さかなをくらる。馬上盞の体なり。初夜の過に、和泉守所へ落着たり。次郎殿、やかて光儀。明日、一座の懇望。又、

太山にもやとやさくらの雪の庭

かゝる山中にて、執心大切なるこゝろをいさゝか風したるはかりなり。

十四日、引間まていそきはへり。次郎殿自身、其外同名中、都田といふ所まて送ゆく。又さかつき。「かりそめのやとりにて、帰京の次、又かならすな」とあれハ、

帰りこむ秋をまたなん都田のあせの細水(ミちか)ゆき別るとも

といひつゝゆき別れたり。又廿四、五町引間まてをくり有。

(つづく)

連載:戦国未来の古文書お気軽読み 第1回 『以貴小伝』 築山殿(長男・松平信康の母)
連載:戦国未来の古文書お気軽読み 第9回 『藩翰譜』「井伊直孝」
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