連載:戦国未来の古文書お気軽読み 第7回 『遠江古蹟圖會』「築山御前之碑」


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古文書に魅了されて早うん年の戦国未来(せんごくミク)と申します。

今回ご紹介するのは、『遠江古蹟図会』より「築山御前之碑」です。築山御前(一般的には「築山殿」であるが、浜松では「築山御前」という)は、徳川家康の正室で、浜松で亡くなりました。

 

『遠江古蹟図会』は、静岡県掛川市の再影館・藤長庚こと兵藤庄右衛門が、約5年間かけて、遠江国(現・静岡県西部地方)の113ヶ所の古城・名所・史跡などへ行き、取材し、スケッチしたものを享和3年(1803年)にまとめた本(全3巻)です。原本は存在せず、写本には説明文の長い本(浄書本)と短い本(草稿)があります。また、スケッチの上手い下手は、写し手の画力によります。

 

では、早速、「築山御前之碑」について読んでみましょう。

【お断り】『遠江古蹟図会』については多くの写本がある上に、文章の文字数がそれぞれで大きく異なりますので、お手元の『遠江古蹟図会』の文章とは異なるかもしれません。「築山御前之碑」でいうと、虫の話が載っていない写本があります。

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【未来のお気軽訳】 築山御前の墓 浜松城がある東海道五十三次・浜松宿から西へ5、6町(1町=109mであるから、5、600m)ほど行った場所に高松山西来院(こうしょうざんせいらいいん)という曹洞宗月窓派の寺がある。この寺の境内に築山御前の墓がある。築山御前は、徳川家康の正室、松平信康の母である。墓石は「天龍石」と呼ばれる青みがかった石を加工しないで用いている。夏になると(下の絵にある)虫が墓石に数百匹集まり、墓石に巣を作って棲んでいる。墓石には穴が開いている。墓石には鞘堂(墓石を覆う建物)がある。この鞘堂の天井は、冬は寒さを凌ぐ虫たちの巣となっている。私が訪れたのは4月であったので、石碑にいた虫は5、60匹しかいなかった。昔、徳川家康が浜松城にいた時、築山御前も一緒に浜松城に住んでいた。築山御前が体調を崩すと、徳川家康は、名医を探した。東海道五十三次・興津宿に名医として知られる元慶という唐人医者がいると聞いて呼び寄せた。彼が調合した薬は病状にピッタリとマッチして、徳山御前はしばらくして体調を回復された。大いに喜んだ築山御前は、それ以後、(病気で寝ているわけでもないのに)寝所へ元慶を呼んでいた。この築山御前と元慶の不義密通を知った徳川家康は怒り、近習の野中三五郎重政を密かに呼び、「築山御前と元慶が不義密通をしている。元慶は駿河国興津へ帰し、そちは密かに築山御前を討ってくれ」と言った。野中重政は、主人の命令であるから、「是非なく」(いいも悪いもなく)承知した。そこで、野中重政は、築山御前に「この浜松には『三ッ山』という風光明媚な山があります。遊覧されるがよろしかろう」と勧めた。さらに「私が案内しましょう。幸い、明日の天気は快晴です」と言った。それで、弁当、茶、風呂などを準備し、大勢の奥女中をお供に連れて、三ッ山へ行った。天正7年8月29日(1579年9月19日)のことであり、木の葉も紅葉して見頃で、築山御前が、山頂で食事をしながら山麓の池に群れ遊ぶ水鳥から目を離せないでいたところ、野中重政は、槍の鞘をはずして、こっそりと築山御前の後ろから近づくと、築山御前の右脇の脇から左の腰へと槍を突き通した。この様子を見て、奥女中たちは驚き、慌てて裸足のまま浜松城に逃げ帰った。その場には野中重政一人だけが残り、刀を抜いて、築山御前の首を切り取ると、打掛を脱がせて首を包み、静かに山を下り、池の水で槍と刀の血を洗い落とした。この池は、今も「血洗池」と呼ばれて残っている。野中重政は、浜松城に帰り、徳川家康に築山御前の首を見せると、徳川家康は、「でかした」と言って、野中重政の家禄を増やした。しばらくして、築山御前の幽霊が、野中重政の寝所に現れ、「うらめしや~。よくも騙し討ちしてくれたな。私も武士の娘であるから、不義密通が夫にばれたと教えてくれれば、潔く自害したものを、不覚を取って騙し討ちされるとは、残念だ。この上は、お前を冥土へ連れていく」と言って枕元に近づき、野中重政の喉首へ喰い付いて殺した。続けて野中重政の妻も子も取り殺した。養子となった二代目野中三五郎も早世したので、野中重羽(野中重政の孫)は、西来院の築山御前の墓石に鞘堂を建て、堂前に石燈籠と手水鉢を寄進して懇に弔ったので、今では崇られていないという。現在(執筆当時)、野中氏は、水戸藩士で、200石取りである。浜松を通る時、野中氏は、必ず築山御前の墓に参拝している。築山御前の廟堂の扁額の「月窟」の2字は、月舟和尚(曹洞宗中興の祖・月舟宗胡)が書いたものである。

です。

 

<写真1:「築山君魂屋之圖」と「虫之圖」(『遠江古蹟図会』)>

 

<写真2:「築山君碑之圖」(『遠江古蹟図会』)>

 

青石自然石(「天龍石」という) 高サ四尺程

堂内ハ土間。天井ニ彩色画アリ。

 

兵藤庄右衛門は、実際に現地へ行って取材し、スケッチしています。ですから、本文の内容は、「浜松で聞いた話」だと思われます。浜松の築山御前伝承は、基本的に、「築山御前は徳川家康と一緒に浜松城に居た」という事が大前提になっていますので、浜松市民でない方には違和感がある内容かと思います。

 

(1)築山御前殺害の理由

築山殿は、岡崎の菅生郷築山にある屋敷に住み、甲斐国の唐人医師(実は武田氏が放った間者)の減敬(げんけい。「滅敬(めっけい)」とも)にそそのかされて、信康と共に武田方への寝返りを考えていたから。→『遠江古蹟図会』では、築山御前は浜松城に住み、駿河国興津の唐人医師の元慶(げんけい)と不義密通したからとする。

 

(2)築山御前の殺害場所

説1:小藪村で、野中重政が、槍で、輿の中の築山殿を刺した。

説2:三ッ山で、築山御前は自害し、野中重政が首をはねた。

『遠江古蹟図会』:三ッ山で、野中重政が、槍で築山殿を刺し、刀で首をはねた。

 

──本当に現地調査したのだろうか?

 

と疑いたくなるほど、今に伝わる話とは食い違っています。(それに、西来院は、浜松の北ではなく西ですし、浄土宗ではなく曹洞宗です。虫の話をしているので、実際に行ったことは確かでしょうけど。)

 

『遠江古蹟図会』は、1803年の発行で、入野の歌人・竹村広蔭(1793-1866)の時代と重なるのですが・・・竹村広蔭の時代には、気落し坂・太刀洗の池・御前谷・比丘尼谷の4ヶ所が「築山御前遺跡」と呼ばれていて、竹村広蔭は、それぞれで歌を詠んでいます。

●御前谷

以下四首権現公御簾中天正七年九月廿九日うしなひ奉りし古跡なり。

こととへどせむすべもなしむかしそのたえにし跡ににるものやなに

●太刀洗池

武士のたちあらひ池いけり共我身をすらも思はざりけむ

●きおとし坂

おひしきて入野の坂はこえもあへずまろびおつべく心そらなり

●比丘尼谷

身をあまにかへてや袖をしぼるらむ舟ながしたるあとのしらなみ

(注)「天正七年九月廿九日」は「天正七年八月廿九日」の誤り

 

ここで注目すべきは、「築山御前遺跡」に「三ッ山」が入っていないことです。

 

<写真3:佐鳴湖八景「三山晴嵐」>

 

竹村広蔭が選定した佐鳴湖八景に「三山晴嵐」が入っています。「三ッ山」は景勝地で、大正から昭和時代に活躍した画家・鈴木白華の「築山御前像」(西来院蔵)の背景に使われていますが、昭和時代の宅地造成で平らに均され、「佐鳴台」という新興住宅地になっています。

跡地へ行ってみると、すぐ下が佐鳴湖で、太刀洗の池まではちょっと遠い。私だったら、坂を駆け下りて、佐鳴湖で刀を洗うよ。

 

「ゆきゆきて、遠つ淡国の国さかひ、本坂の関、うちこゆる。いつか乗りけり三ヶ日や、昨日の淵は今日の瀬と、かはるならひに吹きよする、みる目はいかに猪の鼻の渡りに舟をやる水と身の行末ぞたのみなく、わたしし黒木中絶へて、名のみぞ残る浜名ばし、こもれるうきを引く細江、やがて危きふち郡入野の川のひむがしの岸辺に深き大等が谷、浮び瀬のなきところにぞ、御舟は横に着にける」(『築山御殿御伝記』)

※遠つ淡国の国さかひ:本坂峠は、岡崎がある三河国と浜松がある遠江国の国境

※いつか乗りけり三ヶ日や、昨日の淵は今日の瀬と:「いつか」とは、家康の遠江侵攻の時か? ここでは「いつか」を「五日」と掛け、「五日、三ヶ日・昨日・今日」と言葉遊び。

※猪の鼻の渡り:難所として知られる「猪鼻瀬戸」

※わたしし黒木中絶へて、名のみぞ残る浜名ばし:歌枕「浜名橋」の橋桁は、虫食い防止のため、表面が黒く焼かれていた。「浜名橋」は大地震で崩壊し、今切が出来てからは再建されていない。

※こもれるうきを引く細江:「引佐細江」とは細江湖のことであるが、江戸時代は、宇布見の湊を「引佐細江」だと思いこんでいる人が多かった。

※ふち郡:「淵」が好字二字令で「敷知(智)」に変わった。「浜名湖の淵」の意。

※入野の川:「入野之江」。佐鳴湖のこと。

※ひむがしの岸辺に大等が谷:佐鳴湖の北東の御前谷

 

築山殿を乗せた船が着いたのは、通説では小籔とされてますが、小籔から太刀洗の池までは平坦で坂がありません。

 

<写真4:富河岸跡>

 

築山殿を乗せた船が着いたのは、小籔ではなく、「富河岸」じゃないの?

小籔は観光用ボート乗り場が出来てから賑わってるだけで、当時の湊は「富河岸」でしょう。

「富河岸」と太刀洗の池の間には坂があります。

「坂の上で輿から飛び出して、着物の裾を踏んで、坂を転げ落ちて気絶した」では見苦しいけど、「その坂の頂上で、輿に槍を入れ、坂の途中で気絶(絶命)し、太刀洗の池で輿から引きずり出して首をはねた」と考えると、非常に合理的で、納得いきます。ただし、「合理的な説明=史実」とは限りません。真相(築山御前の殺害理由、殺害場所、死に様)は今でも謎のままです。

 

<写真5:昭和33年頃の「太刀洗の池」碑(現地案内板)>

<写真6:「太刀洗の池」碑>

「太刀洗の池は、この南10㍍位のところにあった。昔はこのあたり一帯は藪におおわれ、約50平方㍍ほどの池であった。徳川家康の正室は、今川義元の家臣関口刑部少輔義慶の娘で、岡崎の築山にちなんで築山御前と呼ばれたが、政略の犠牲となって、岡崎城から浜松城に向かう途中、佐鳴湖畔小藪で家康の家臣に殺害された。時に天正七年(一五七九)八月二十九日、築山御前三十八才であった。このとき血刀をこの池で洗ったので、その水が涸れたが、延宝六年(一六七八)百年忌の法要が行われてから清水にもどったという。築山御前は西来院に葬られた。この谷一帯を御前谷という。  浜松市」(現地石碑)

 

 

《西来院のお墓巡り》
「西来院」(静岡県浜松市)へ行ってきました。
疣取りで有名な西来院(浜松市天竜区西藤平)ではなく、曹洞宗寒厳十三派(寒厳義尹の法孫・華蔵義曇(普済寺)の13人の弟子の教派。普済寺の末寺は、西来院、妙厳寺(通称:豊川稲荷)など460ヶ寺)のうちの月窓派の拠点・高松山西来院(浜松市中区広沢2丁目)です。

 

<写真7:白尾家の墓>

三方ヶ原の戦いで敗れた家康は白馬に跨って敗走しました。(当日は雪が降り積もっていたので、白馬の方が目立たなかったので白馬にしたそうですですが、史実は、「鬼栗毛」という栗毛の馬に乗っていたようです。)浜松八幡宮の大楠の洞に隠れたものの、馬の尾が出ていたので、村人が尾を隠したそうです。その直後に武田軍の追っ手が通り過ぎて難を逃れたとのことです。
家康が、
「褒美をさずけよう。何が欲しい?」
と問うと、
「姓が欲しい」
というので、「白尾」という姓を与えたそうです。

 

<写真8:水野元彭・元龜父子の墓>

水野家(宗主は老中・水野忠邦)家老の水野元彭・元龜父子のお墓です。水野忠邦は、文化14年(1817年)、唐津から浜松に転封となり、元彭やその子・元龜が家老として仕えました。通称は、「三郎右衛門」「平馬」「治部」「治郎右衛門」です。

 水野監物忠元(萬松寺侯)-信英:以後代々家老職
信英-元貞-元英-元亮-元凞-元珍-元彭-元龜-元永-元宣
※水野忠邦の家老については、『編年江戸武鑑・文政武鑑』(柏書房)に、文政元年(1818年)の家老は水野平馬(水野元彭?)と拝郷縫殿、文政12年(1829年)の家老は水野亀太郎(水野元龜?)と拝郷源左衛門とある。

 

<写真9:中国人貿易商・林五官の墓>

林五官は、遠州灘で難破し、浜松に漂着した6人の内の1人。

5人は中国に帰りましたが、林五官は浜松に定住して、家康の庇護を受けました。家康のために海外の珍しい物をたくさん輸入したそうです。医学の心得があったことや、「日本初の銅活字の鋳造者」としても有名です。

<写真10:杉浦真崎の墓>

杉浦真崎は、荷田春満(賀茂真淵の師)の姪です。浜松諏訪神社の神官(大祝)で、国学者としても有名な杉浦国頭(浜松の史跡を語るには必読と思われる『曳馬拾遺』の著者)の奥さんです。
墓碑銘は「蓮池院殿清運純香大姉」です。

 

<写真11:森繁子の墓>

江戸時代の女流歌人・森繁子(袴田繁子。杉浦国頭の弟子の袴田為寿の妻)のお墓です。
杉浦国頭に遅れる事一年、荷田春満の弟子となった浜松五社神社の神官・森暉昌の二女です。
墓碑銘は「寶勝院殿蓮臺清香大姉」です。

 

<写真12:田辺友三郎の墓>

明治37年(1904年)に浜松高等女学校第二代校長に就任。幼年唱歌「モモタロウ」を作詞したことから「桃太郎校長」と呼ばれました。校訓「誠・愛・節」の制定者です。
当時の生徒の中には、鷹野つぎ(1907年卒)がいました。

 

<写真13:松平康俊の墓>

松平源三郎康俊(家康の異父弟)のお墓です。

今川氏に人質に出していたが、武田に捕えられ、逃げたものの、雪の中を裸足で歩いたので、凍傷で、足の指は全て無くなったそうで、このことを知って悲しんだ於大の方は、以後、自分の子供を人質に出すのを拒み続けたそうです。
墓碑銘は「善照院殿泉月澄清大居士」です。

 

<写真14:築山御前の霊廟・「月窟」廟>

<写真15:「月窟」廟案内板>

静岡市が出身地であったから「お瀬名の方」と呼ばれた。父は今川一族で重臣の関口刑部少輔親永。母は今川義元の妹である。岡崎の松平元信(後の徳川家康)が今川人質時代に結婚。長男信康、長女亀姫を生んだ。家康が名実共に岡崎城主となるや、城内の築山御殿に居住したので「築山御前」と呼ばれた。同盟関係にあった織田信長と徳川家康両者間における政治的駆引と、岡崎城内における派閥抗争など、複雑に交錯する政治的、人間関係的関係のひずみのなかで、遂に夫である家康により殺害されていった。力において優れていた信長の命令とはいえ、三河の為、徳川家康安泰のために屈服せざるを得なかった家康の苦悩もさることながら、あまつさえ身に覚えなき「謀反人」の汚名を着せられて、一人淋しく浜松の野に散華した御前の姿を想うとき、いかに戦国乱世とはいえ、余りの痛ましき、果かなきに涙を禁じ得ないものがある。時に天正七年八月二十九日(西暦一五七九年九月二九日)御前三八歳。家康これを哀れみ翁(いおう)禅師に命じて懇ろにこの地に葬らしめた。
法名は 清池院殿潭月秋天大禅定法尼

 

<写真16:築山御前の墓>

・右側:天正七年 禪定

・中央:○ 清池院殿潭月秋天 大 淑霊

・左側:卯八月晦日 法尼

※○:円相は「空」または「無」を表す。

 

自分の墓をデザインできるとしたら・・・

鎌倉の円覚寺に12/12に生まれ、12/12に亡くなられた小津安二郎監督の墓があります。ほぼ立方体の墓石に「無」とだけ彫られています。私が死んだら、円板の墓石に「○」とだけ書いて欲しいな。見た人は「人生○(成功、満点)」って思うかもしれないけど、「○」は「まる(丸)」ではなく、「む(無)」と読んで欲しい。

 

「月窟」の名の由来は、李白の詩「蘇武」の「渇飲月窟水」(渇しては月窟の水を飲み)だそうです。匈奴に捕えられ、穴倉に飲食物を与えられずに捨て置かれた蘇武が、匈奴に屈せず、雪を溶かして飲料水、旗の飾りの毛をちぎって食料として生き長らえたという題材を詩にしたもので、築山の屋敷に幽閉されていた築山殿や、今川や武田の人質であった松平康俊のイメージに重なりますね。

「月窟」の出典が分かっても、築山殿の法名「潭月」(「潭」は「池」の意)、松平康俊の法名「泉月」の意味が分かりません。池(泉)に映る満月・・・水面が揺れたら満月にはならない。
──月歪むにあらず波騒ぐなり。止水に映る月を見よ。(by 蓮沼門三)

「明鏡止水」の境地に至れば、望月(満月)になるのかな。

──「希望」とは、望月になることを希むことなり。

しかしながら、少しくらいは波がある人生の方が面白いかなとも思う。

──「月、海上に浮かんでは、兎も浪を奔るか。面白の島の景色や」(『竹生島』)

 

どうでしたか?

感想をコメント欄に書いていただければ幸いです。

では、最後に原文を載せておきますね。今回の記事を参考に、解読に挑戦してみてね。

 

築山御前之碑 濱松宿の北、五、六町程隔てて高松山西来院と云ふ浄土宗の寺有り。其寺の境内尓築山君の石碑有り。此御方ハ、神君の妻、すなはち、岡崎三郎殿の御母堂なり。石碑ハ自然石也。夏に虫、石碑に數百疋寄集りて、碑を巣となして居る。其碑は、穴有り。石碑ハ塔尓有。其塔の天井の上ハ冬ハ虫登て窟居。予、行きて一覧志たる時ハ四月なれハ、虫、五、六十疋、碑尓住て居り候。往昔、神君、濱松御居城の内ハ、築山御前、付添ひまします。御不例尓付て醫を求む。奥津の宿尓唐人醫者有て元慶と云ふ。其の醫を召して寮治を更せたる尓、薬、的中し、程奈く本服被成、築山君、悦び斜めならず、常に築山御前の寝所へ召されける。築山御前、この元慶と秘通有、神君、此事をしろし召して、御怒不斜。則、衆能内、野中三五郎を密尓被召、宣ふ様、「築山と元慶、不義有ハ、元慶ハ國え歸へし、汝、密かに築山を討って呉よ」と御仰。三五郎ハ主命と云、是非なく御請申。扨、三五郎、彼築山君尓申様、「此濱松の在尓三ッ山と申して景色勝れ候ふ山有り。これへ御遊覧遊ばされしかるべし」と御勧め申し上ぐる。「拙者、御案内申上ん。幸ひ、明日、天気、快晴しかるべし」と。すなはち、弁当、茶、風呂など取持たせ、大勢奥女中御供尓、三ッ山へこそ御覧有り。比は天正七年卯八月晦日の事なれば、木々の梢も紅葉し、上もなき御楽み、山の絶頂にて御弁当ひらかせ、山下の池水の水鳥多く遊びたる所、御覧成られ、余念なき折節を見済まし、三五郎は、大身の鑓の鞘をはづし、そろそろと後より近寄り、情なくも築山御前の右脇の脇から左の腰へ鑓尓て突き通す。この体を見るより奥女中胆をけし、はだしにて城中へ逃げ歸る。三五郎跡只壱人、刀引き抜き、御首を討ち奉り、打掛をぬがせ、首を包み、静々と山下をくだり、彼の池水にて刀鑓の血を洗ひける。今残りて三ッ山に血洗池とて残る。三五郎は城中に帰り、首を御覧に備へけるに、「神妙に仕たる物也」とて、三五郎に加増仰せ付けられける。やがて築山君の亡霊、三五郎が閨(子や)へ顕れ、「恨免しや。汝、よくも自(みつから)を欺討(たましうち)に害せしよな。我も武士乃娘、不義の事知らせ玉ハハ、早速に我尓告て呉(くるれ)ハ、自害すへしを。女ながらも不覚をし、欺かれしと恥を残す事、残念なり。いで、汝を冥途(めいと)へ連行かん」と幽霊、枕元に立寄り、喉首へ喰付き、殺すなり。それより三五郎が女房ならびに子供、幽霊尓取殺さる。二代目の三五郎とて養子をすれども育たず、短命なりければ、西来院に有る碑前の上に堂を建て、前に石燈籠・手水鉢を建立し、懇尓弔ひければ、今にては崇なしとなり。当時、野中三五郎ハ、水戸様之御家来、二百石取りて、家残る。浜松通行能節は、碑前尓拝礼有り。廟堂の額「月窟」乃二字、月舟和尚の筆也。

(つづく)

連載:戦国未来の古文書お気軽読み 第1回 『以貴小伝』 築山殿(長男・松平信康の母)
連載:戦国未来の古文書お気軽読み 第6回 『直政公御一代記』「井伊直親」
戦国未来の連載シリーズ一覧
瀬名とは~築山殿は悪女だったのか?築山御前が殺害された本当の理由とは
松平康俊と於大の方【徳川家康の母】の運命
浜松城(引馬城)の観光詳細はこらちです
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