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上杉憲政(うえすぎ-のりまさ)は、1523年に関東管領の山内上杉家・上杉憲房の子として生まれた。母は不明。
1525年に父・上杉憲房が死去(享年59)した時、まだ3歳であったことから、父の養子・上杉憲寛(古河公方・足利高基の子・足利晴直)が、山内上杉家の家督を継いで関東管領となっている。

その頃、扇谷上杉家・上杉朝興は小田原・北條家(北条家)と江戸湾支配を巡って争っており、小弓公方・足利義明と連携し、更には山内上杉家にも協力を求めて来た。

また上杉憲寛はの実家である古河公方家も、実父・足利高基とその弟・足利義明が敵対しており、上杉朝興を介して足利義明とも上杉憲寛は同盟関係となったため、実の父・足利高基や兄・足利晴氏とも戦うことになった。

このように、1529年~1531年に「関東享禄の内乱」(かんとうきょうろくのないらん)と呼ばれる関東管領・山内上杉家と古河公方家の戦いとなる
1529年8月14日には、山内上杉家・上杉憲寛が上野・碓氷郡の安中城の安中宮内少輔?を攻撃開始するも9月22日には撤退。
このような混乱に乗じる形で、上杉憲政(9歳)は、1531年に上野・寺尾城にいた上杉憲寛を攻めて、上総・宮原(市原市)に追い出し、上杉憲政が平井城主として関東管領職と山内上杉家当主の座に就いた。
その戦いの結果では、古河公方家の足利晴氏も父・足利高基を攻撃しており、古河公方の地位を確立していたため、足利高基は隠棲。
扇谷・上杉朝興は甲斐・武田信虎と同盟を結ぶことになった。

1537年、相模の北条氏康が平井城を攻撃し、上杉憲政(15歳)は扇谷上杉家・上杉朝定(河越城)を頼っている。
1541年、葛尾城主・村上義清と、諏訪頼重、甲斐の武田信虎らが信濃小県郡へ侵攻した際には、海野平の戦いで敗れた海野棟綱が、上杉憲政に救援を求めている。
そのため、上杉憲政は佐久への出兵を行ったが、諏訪の諏訪頼重と和睦した為、充分な救援は出来なかった。
そして、関東では北条家が台頭して来る。

1545年、上杉憲政は扇谷上杉家の上杉朝定と和睦して、古河公方・足利晴氏も味方につけ、更には駿河の今川義元とも同盟した。
そして、北条氏康が駿河へ出陣した隙をついて、足利晴氏・上杉朝定と共に北条綱成が守備する河越城を大軍で包囲する。

しかし1546年4月、河越城の増援に赴いた北条氏康との間で「河越夜戦(河越城の戦い)」となると、大敗北を喫し、3000もの将兵を失う。
本間近江守、本庄藤三郎、本庄実忠らの防戦にて辛くも上杉憲政は居城の上野・平井城に逃れた。

忍城の成田長泰など、山内上杉家の家臣の離反が相次ぎ、勝沼城の三田綱秀も北条家に降った。
また、鉢形城の藤田右衛門佐、滝山城大石定久なども北条家に臣従している。

1547年にも、村上義清の要請により信濃・志賀城の笠原清繁救援に出陣したが、佐久郡小田井原での小田井原の戦いにて、武田晴信(武田信玄)に大敗している。
ページ下部の寄稿主・柳生聡氏からのご指摘によると、上杉憲政は長野業正の諫言を無視して、倉賀野城主・金井秀景(倉賀野秀景)に大将として任せて、上杉憲政は出陣しなかったようである。

<補足説明>
志賀城の戦いでの両軍の兵力は史料によって異なる。
志賀城籠城1000+加勢の高田憲頼は兵数不明。
援軍の山内上杉勢2000、3000、3000騎、20000と、私が調べた範囲では4種類の数字が見受けられる。
3000騎の場合、兵数に換算すると約12000。
武田勢は4000とするのもあれば、武田信玄本隊2000+板垣信方ら別働隊5000と言う数字も見受けられる。
討ち取られた首級は3000と言うのを一番多く見うけられるが、首級は500だと言う史料もある。
以上、実態を数字的に掴むのは困難と言えるが、いずれにせよ、山内上杉勢は大敗し、志賀城が武田勢の手に落ちたのは史実どおりと言えよう。

1552年、武蔵・御嶽城が落城すると、平井城が北条勢の脅威にさらされ、箕輪長野氏・安中氏などが那波氏に通じて北条家に臣従。
続いて上杉憲政の馬廻衆も離反したため、上杉憲政は平井城にいられなくなり、1552年3月に平井城は落城した。
平井城に留まっていた嫡男・龍若丸は処刑されている。

上杉憲政(30歳)は山内上杉家の家宰・足利長尾家や東上野の雄・横瀬家を頼ろうとするが、北条家の進出により足利長尾家や横瀬両氏の居城へ入れなかった。
そして、吾妻へと向かうと、前古河公方・足利晴氏と重臣・簗田晴助の仲介にて、そのまま越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼って春日山城へと逃れた。

上杉憲政は春日山城下に御館(おだて)を与えられて住んでいる。

1557年頃、上杉憲政は長尾景虎を養子として、関東管領職を譲る。
それに答えるかのように、上杉景虎(上杉謙信)は、1560年に小田原城攻撃を行い、1561年3月、鎌倉鶴岡八幡宮にて長尾景虎への関東管領職と山内上杉家の譲渡儀式を執り行った。

その後は上杉憲政(39歳)は隠居したようで、史料上にみえなくなっている。

しばらくした1578年、上杉謙信が死去すると2人の養子である上杉景虎(北条三郎)と上杉景勝との間で家督争いとなる「御館の乱」が起こる。

旧山内上杉家臣は、北条家との関係を重視したようで、上杉憲政は上杉景虎(北条三郎)を支持したとされているが、当時越後に亡命していた山内上杉家旧臣の大石綱元、倉賀野尚行らは上杉景勝に味方している。

御館の乱は武田勝頼の支援受けた上杉景勝が有利となり、上杉景虎(北条三郎)は上杉憲政の居館「御館」に籠城して抵抗し、小田原城からの救援を待った。
その時、1579年3月18日、上杉憲政は上杉景虎の嫡男・道満丸と共に、和睦交渉のため、春日山城の上杉景勝のもとに向かったが、2人は陣所で討たれて命を落とした。享年57。
一説には四ツ屋付近で包囲されたため、自刃したとも言われている。
現在の墓は、米沢の照陽寺にある。

敵対していた北條氏康(北条氏康)の子に協力したため、殺害されると言う皮肉な最期であったと言えよう。

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平井城の前の道路は何度も通行したことがあるのですが、まともに平井城へ寄った事がないため、以下は柳生聡氏による平井城と平井金山城の寄稿をありがたく頂戴致しております。

平井城と平井金山城

上州・平井城址(群馬県藤岡市西平井)

▼室町時代の鎌倉公方足利氏をめぐる抗争から、この地に移ってきた関東管領山内上杉家の居城跡です。
鮎川の流れをせき止めて水堀とし、城下の主要部を遠構えで囲った広大な城域でした。
戦時の詰めの城・金山城と不可分の構えになっている。
当時、京・鎌倉につぐ賑わいを見せた城下だったと伝えられる。

▼新興の小田原北条氏に抗しきれなくなると、上杉憲政は越後の長尾景虎の元に亡命、養子となして、のちの上杉謙信が誕生する。
謙信が関東管領職を継ぐと、上州は上杉・武田・北条の三つどもえの騒乱の舞台となって行く。

上州・平井金山城址(群馬県藤岡市下日野)

▼さきにご紹介しました「平井城」と一体をなす詰の要害山城です。
関東管領山内上杉家の居城なので「永享の乱」(1438年)の際には、管領方の本陣になりました。
管領上杉家本城の要害城・・がポイントか。

▼登城ルートは藤岡市金井のJAから遊歩道が付けられ、杖も貸しています。
根小屋か?と思わせる石組みの杉林を行くと、10分ほどいきなりの急登で、杖なしでは落ち葉に足を取られますので注意。
すぐに尾根にでます。
稜線沿いに、物見台や小曲輪をへて本丸に。
ルートも案内板もよく整備されているので、迷いません。
登山口からの比高100mくらい。

▼群馬は雷の頻発地帯なので、二カ所避難小屋がもうけてあります。
目立った戦闘はなかったようですが、ゴルフ場の方(大手筋)へ降りていくと、顕著な遺構があるようです。
マイナーですが、山城らしさは楽しめます。

(平井城と平井金山城の寄稿) 柳生聡

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