北条氏政とは~小田原城主・関東覇者への道のりとその最後


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 北条氏政(北條氏政)は、1538年、相模の北条家第3代当主・北条氏康(小田原城主)の次男として生まれた。
 母は今川氏親の娘(瑞渓院)で、1535年頃に北条氏康の正室となっていた。

 兄・新九郎がいたが、夭折したために北条氏政が世子となり、北条新九郎氏政と名乗った。他の通称は左京大夫。隠居後は相模守、截流斎と号している。

 1554年12月、父・北条氏康が武田信玄今川義元と甲相駿三国同盟を成立させると、武田信玄の娘・黄梅院を正室に迎えた。
 黄梅院は、僅か12歳で北条氏政16歳に嫁いだが、その輿入れ行列は、武田家臣の小山田有信が取り仕切り、10000人もの供が付き従って国境の上野原付近まで警護したが、大変豪華であったと伝えられている。
 なお、夫婦仲は極めて良好であったとされる。

 1559年、父・北条氏康(45歳)が北条氏政(22歳)に家督を譲った。
 これは永禄の飢饉で疲弊した関東を救う為(不満が続出した為?)、徳政令の実施する為に、代が変わったと言うお祝い事(責任を取った形)にする狙いがあったようだ。
 北条家は民意を重視している為、検地や徳政を行うためなどの内政事情によって代替わりすることは、北条家の手法と言える。
 その為、北条氏康は、家督を譲った後も、小田原城の本丸にて「御本城様」として政治・軍事の実権を掌握し続け、北条氏政を後見した為「ニ御屋形」「御両殿」と呼ばれた。
 この時、北条氏政は「小田原衆所領役帳」をまとめた家臣管理や検地を行い、6月には貨幣法ともいうべき代物法度を改定して、精銭と地悪銭の法定混合比率を7対3に確立するなど、民政面でも能力を発揮した。北条家には「家臣や民を慈しみ、人心を掌握し、戦いに勝っても思慮深くあるように」 という家訓が代々伝わっていたのも大きいだろう。

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 1560年5月、桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、越後の上杉謙信は8000にて関東に侵攻した。名目上は上杉憲政を奉じて侵攻したのだが、各地で略奪行為をしているので、飢饉に耐えかねて、食糧確保の為侵攻したと言える。
 上杉謙信は、小川城・名胡桃城・明間城・沼田城・岩下城・白井城・那波城・厩橋城など北条方の諸城を次々に攻略。
 上総の里見義堯の本拠地・久留里城を囲んでいた北条氏康は、包囲を解いて9月に河越城に出陣し、10月には松山城に入って籠城した。
 上杉謙信は厩橋城にて年越したが、破竹の勢いに関東の諸将は次々に味方した。(下記参照)

 上野の白井長尾氏、惣社長尾氏、箕輪長野衆、沼田衆、岩下斎藤氏、金山横瀬氏、桐生佐野氏。下野の足利長尾氏、小山氏、宇都宮氏、佐野氏。下総の簗田氏、小金高城氏。武蔵の忍成田氏、羽生広田氏、藤田衆、深谷上杉氏、岩付太田氏、勝沼三田氏。常陸では、小田氏、真壁氏、下妻多賀谷氏、下館水谷氏。安房の里見氏。上総の東金酒井氏、飯櫃城山室氏。遅れて佐竹氏が参陣。

 北条家側は上野の館林赤井氏、武蔵の松山上田氏。下野の那須氏。下総の結城氏、下総守護千葉氏、臼井原氏。上総の土気酒井氏。常陸の大掾氏が協力。
 しかし、野戦は不利と判断し、玉縄城北条氏繁を配置し、滝山城・河越城には北条氏堯、江戸城小机城・由井城に北条氏照三崎城北条綱成津久井城は内藤康行が守備した。

 年が明けた1561年、上杉謙信は10万とも言われる大軍で上野国から武蔵国へ進撃。
 2月には松山城と鎌倉が攻略され、3月3日までには相模原市の当麻に上杉勢の先鋒が着陣。
 上杉謙信、宇都宮広綱、佐竹義昭、小山秀綱、里見義弘、小田氏治、那須資胤、太田資正三田綱秀、成田長泰らは3月下旬頃には小田原城を包囲し、小田原城の蓮池門へ突入するなど攻勢を仕掛け、北条氏は窮地に陥った。
 しかし、上杉家に味方した関東諸将も、飢餓に苦しんでおり兵糧が不足。小田原城の防衛も優れていた事や、佐竹氏など諸豪族が撤兵を要求し、一部の豪族は勝手に陣を引き払う事態にまでなった事から、上杉謙信は小田原城から撤退して鎌倉に入った。
 鎌倉では閏3月に鶴岡八幡宮にて関東管領への就任式を断行している。
 その後、武田信玄に扇動された一向一揆が越中で蜂起したこともあり、上杉謙信は各地で略奪・放火を行いながら、6月に越後国へ戻った。

 1562年、北条氏政(北條氏政)の嫡男・北条氏直が誕生している。 

 越後に撤退した上杉謙信が、第4次川中島の戦いで武田信玄と戦って甚大な被害を受けると、北条氏康・北条氏政は北関東方面に侵攻し、奪われた領土を徐々に取り戻し、深谷城の上杉憲盛、上野の佐野直綱と下野の佐野昌綱などを降伏させた。
 1563年には、厩橋城や古河城を奪還し、成田氏・小山氏・結城氏・小田氏を降伏させている。

 1564年の第2次国府台合戦にて、遠山綱景などの有力武将を多く失ったが、北条氏政は北条綱成と共に里見義弘の背後を攻撃して勝利。上総の土気城主・酒井胤治らが一時的ながら北条氏政に帰順した。
 また、同年、武蔵の岩槻城主・太田資正の長男・太田氏資を調略して大田資正を武蔵から追放させる事に成功。
 北条家は50000の大軍で、上杉謙信の武蔵拠点である松山城を攻略した。これに対し上杉謙信は関東に出陣。

 上杉謙信は小田朝興が守備する騎西城を攻め落とし、武蔵忍城主・成田長泰、唐沢山城主・佐野昌綱、、小山城主・小山秀綱、結城城主・結城晴朝を降伏させるなど、関東の諸城を次々に攻略した。
 北条家は武田信玄の援軍も得て、上野・厩橋城を奪還。
 上杉謙信は閏12月に上野和田城を攻めるも失敗し、この年も厩橋城で越年。

 1564年1月、上杉謙信は北条方へ寝返った小田氏治を討伐するため常陸国へ攻め入り、1月28日に山王堂の戦いで小田氏治を破り、小田城を攻略した。その後、唐沢山城主・佐野昌綱を総攻撃し、3月に越後へ帰国。

 1565年3月、北条氏康らは関宿城主・簗田晴助を攻撃したが、上杉謙信が救援の為出陣し、常陸の佐竹義重も援軍を出して来たため、北条氏康らは撤退。6月には武田信玄が上杉方の倉賀野城主・倉賀野尚行を攻略。上杉謙信は、武田勢の関東拠点である和田城を攻めたが落とせず、以後、上杉謙信は関東での影響力を弱める結果となった。
 1566年、上野・厩橋城の上杉家直臣・北条高広が北条家に寝返った事により、上杉勢は関東より大幅な撤退を余儀なくされ、この頃から父・北条氏康は実質的に隠居し、北条氏政・北条氏照・北条氏邦北条氏規ら自分の子供に、合戦も任せる事が多くなった。

 1567年、里見義堯・里見義弘父子が上総奪還を目指して侵攻した為、北条氏政・北条氏照は上総東部の低山である三舟山(君津市)に着陣。
 しかし、正木氏などの国人が里見に通じたことなどがあり、北条氏政は里見勢に裏をかかれて太田氏資が討死するなど大敗し、北条家は上総南半分を失った。

 1568年12月、武田信玄は駿河の今川領への侵攻し、3国同盟は破たん。北条家は今川家との同盟を優先して武田勢に対抗した為、北条家と武田家の同盟関係も崩れた。
 父・北条氏康は駿河侵攻に激怒し、武田信玄の娘・黄梅院を離縁させ、子供を残したまま甲斐に送り返した。この時、北条氏政は堪忍分として16貫文余を与えたと言う。黄梅院は傷心の故か翌年、27歳で死去した。
 北条氏政は、継室に鳳翔院殿(ほうしょういんどの)を迎えているが、時期や出自などは伝えられていない。

 北条氏政は、掛川城に籠城していた今川氏真(北条氏政の妹・早川殿の夫)を救出する為、三河の徳川家康と和睦。
 武田信玄に対抗する為、上杉謙信とも和睦し、弟の北条三郎(後の上杉景虎)を上杉謙信の養子(人質)として越後に送り、上杉家からは家臣・柿崎景家の実子・柿崎晴家が人質として小田原城に入った。

 1569年9月、武田信玄は碓氷峠を越えて関東に侵攻し南下。鉢形城で北条氏邦が防衛すると、小仏峠からは小山田信茂の別働隊も進入し、北条氏照は滝山城で武田信玄を迎え撃ったが、武田信玄はそのまま小田原城へ進み包囲した。
 この時、北条氏政は父・北条氏康と共に小田原城に籠城。
 武田信玄は約3日間で撤退開始し、その帰路の途中、激戦として知られる三増峠の戦いになった。
 北条氏照・北条氏邦・北条綱成らは、武田重臣の浅利信種や浦野重秀らを討ち取ったが、北条氏政・北条氏康の本隊が到着する前に津久井から迅速に甲斐へと撤退した。

 以後、蒲原城深沢城など駿河諸城は武田家に奪われ、1570年には興国寺城のみが北条家の駿河配下となった。

 北条氏政の父・北条氏康(北條氏康)は1570年8月頃から中風とみられる病を得ており、1571年10月に病没した。享年57。
 「上杉謙信との同盟を破棄して、武田信玄と同盟を結ぶように」と遺言を残したとされており、死後の12月27日、北条氏政(34歳)は武田信玄と再同盟し、上杉謙信との越相同盟を破棄した。
 この時、北条氏政は、早雲寺の塔頭に同じく黄梅院を建立し、亡くなっていた愛妻・黄梅院の分骨を譲り受けて供養している。

 1572年、武田信玄の三河・織田領国への侵攻(西上作戦)の際には、諸足軽衆の大藤秀信や伊豆衆筆頭で怪力の持ち主とされる清水太郎左衛門など2000を援軍として武田軍に参加させている。

 1574年、上杉謙信が再び上野に進出すると北条氏政も出陣して利根川で対陣した。
 北条氏政は閏11月、念願であった簗田晴助の関宿城を攻め落とし、1575年には小山秀綱の下野祇園城を攻め落とし、関東より上杉勢勢力ほぼ一掃した。

 1577年、北条氏政は上総に侵攻すると宿敵・里見義弘と和睦。北条氏政の娘(鶴姫、龍寿院)が里見義頼に嫁いだ。なお、この戦いには、元服した嫡男・北条氏直が初陣として加わっている。
 この年、北条氏康の娘・北条夫人武田勝頼に嫁いだ。

 1578年、上杉謙信が死去すると、その後継者をめぐって上杉謙信の甥・上杉景勝と、北条氏政の弟で上杉謙信の養子として上杉家に入っていた上杉景虎の間で後継者争いである御館の乱が勃発。
 北条氏政は下野にて佐竹氏・宇都宮氏と対陣中であったため武田勝頼に援軍を依頼した。
 しかし、武田勝頼は、すでに上杉景勝より大量の金品を貰っており、上杉家と同盟を結んだ為、援軍を送らず、北条氏政は武田との同盟を破棄。
 5月になって、兄弟の中でも武勇の誉れの高い北条氏照と北条氏邦の2人を、上杉景虎の援軍に向かわせるも、坂戸城で直江兼続らの抵抗に合い撤退。1579年に上杉景勝が勝利し、上杉景虎は自害した。
 上杉景虎の敗死を受けて、北条氏政は上杉との同盟を破棄し、三河の徳川家康と同盟を結んで武田勝頼に対抗した。

 1580年には、武田家の真田幸昌らが上野に侵攻し、北条家は支配権を失っている。

 しかし、この頃には巨大な勢力となりつつあった織田信長の台頭を受けて、北条氏政は織田家に臣従を申し出た。1580年8月19日には、武田勝頼と黄瀬川にて対峙する陣中で、嫡男・北条氏直(19歳)に家督を譲って隠居したが、父に見習い北条家の政治・軍事の実権は引き続き掌握し「御隠居様」などと敬称され、北条氏直の政務を後見した。
 この家督相続は、これまでの武田家とは断絶し、改めて織田家・徳川家と、武田を撃滅する姿勢を示したものとみられる。

 1582年2月、織田信長の嫡男・織田信忠を総大将に、滝川一益を軍監とした織田家の大軍が、武田勝頼討伐の為の甲州征伐に出陣。
 北条家は織田家に臣従していたことから、出陣要請を受けて甲斐に侵攻した。しかし、織田家や徳川家からは進軍予定などの連絡も無かった為、主だった行動は取れないうちに武田勝頼と北条夫人(19歳)は自害。甲斐はそのまま織田家の領地となってしまった。
 しかも、上野には滝川一益が関東管領として入り、箕輪城から前橋城に拠点を移すなどした為、北条氏政は織田信長に対して関東一括統治を嘆願したが、織田信長は無視した。

 そんな中、1582年6月2日、明智光秀の謀反により織田信長が本能寺の変で横死。
 北条氏政は、上野を奪還すべく、軍を発して深谷まで進めた。すると滝川一益も出陣し、神流川の戦いとなり、滝川一益を破った。
 滝川一益は僅かな家臣と共に、本拠地・伊勢に逃亡したが、北条氏政は真田昌幸木曾義昌・諏訪頼忠などを取り込み、依田信蕃らを討って小諸城を占拠。
 一方、同じく、徳川家康も甲斐・信濃を狙って出陣しており、依田信蕃を通して真田昌幸を調略し北条勢と対立した(天正壬午の乱)。
 前線は当主の北条氏直と軍事に精通する弟の北条氏照・北条氏邦に任せて、北条氏政は小田原城より補給と募兵に尽力した。

 北条氏照・北条氏邦は、徳川家康と甲斐の若神子において対陣(若神子の戦い)。
 北条氏忠(北条氏政の弟)・北条氏勝(北条氏政の甥)10000の援軍が、御坂峠を越えて黒駒(御坂町)にて徳川勢の鳥居元忠・水野勝成らと合戦となり敗北した事もあり、不利となった北条氏直は、徳川家康の娘・督姫を正室に迎える事で和睦した。
 この結果、信濃・甲斐は徳川領、上野は北条領と言う事で合意したが、真田昌幸が上野・沼田城を北条家に明け渡す事を拒んで上杉景勝に寝返り、上田城・沼田城にて徳川と北条と抗戦することとなった。

 織田家で清洲会議以降、柴田勝家を滅ぼし実権を握った羽柴秀吉(豊臣秀吉)が台頭し、上杉景勝がいち早く豊臣秀吉と同盟していた事もあり、相模・伊豆・武蔵・下総・上総・上野から常陸・下野・駿河の一部に及ぶ240万石を領した北条家も、やがて豊臣秀吉に従属か、徹底抗戦かを迫られる事態となった。

 1588年、豊臣秀吉は、北条氏政・北条氏直親子の聚楽第行幸への列席を求められたが、上洛することはすなわち豊臣に臣従すると言う事から、北条氏政・北条氏照・北条氏邦は拒否。北条氏直や北条氏規との間で意見が対立し、8月に名代として北条氏規が上洛したが、以後、北条家は城の改修など軍事力強化を急ぎ臨戦態勢を取った。
 1589年2月、小田原評定衆である板部岡江雪斎が上洛し、沼田問題の解決を豊臣秀吉に要請。
 豊臣秀吉は沼田領の3分の2を北条側に還付する沼田裁定をおこない北条方に引き渡された。北条氏政も上洛の約束をするも、延期を申し出た為、また関係は悪化し、1589年10月に北条氏邦の家臣・猪俣邦憲による名胡桃城奪取事件が起きた。猪俣邦憲は真田昌幸の名胡桃城を、城主・鈴木重則の家臣を買収して、誘き出したところを狙い城を乗っ取った。
 豊臣秀吉は北条氏政の上洛・出仕の拒否を従属拒否であるとみなし、名胡桃城奪取は惣無事令に違反したとして、1589年12月23日、諸大名に正式に北条追討の陣触れを発した。

 豊臣秀吉の小田原攻めに関しては「小田原攻め」のページにて詳細を記載しているので、ここでは省かせて頂く。


 
 北条氏政・北条氏直は小田原城に籠城。下田城、松井田城、玉縄城、岩槻城、鉢形城、八王子城、津久井城などは次々と落城し、小田原城の目の前に石垣山一夜城を築かれると、22万の豊臣軍の前に黒田官兵衛の和睦交渉を受け入れ (1)武蔵・相模・伊豆のみを領地とする、(2)北条氏直に上洛をさせる と言う条件で、北条家は降伏することを了承した。

 しかし、豊臣秀吉は和睦の条件を破り、北条氏政・北条氏照に切腹を命じ、北条氏直らを高野山に追放する事を決定。
 7月5日、北条氏直が自分の命と引き換えに全ての将兵の助命嘆願して降伏。
 北条氏直の舅である徳川家康も北条氏政の助命を願い出たが、豊臣秀吉は主戦派であった北条氏政・北条氏照及び宿老の松田憲秀・大道寺政繁に切腹を命じた。
 井伊直政(北條氏政)の情報では一時は助命されるという見通しもあったが、7月11日に北条氏政と北条氏照が、弟・北条氏規の介錯にて、医師・田村安栖の宿所で切腹。北条氏政 享年53歳。ここに戦国大名としての小田原北条氏は滅んだ。
 北条氏政は享年53。小田原駅近くに北条氏政・北条氏照の墓、静岡県富士市の源立寺に首塚がある。

 なお、小田原攻めの最中である1590年6月12日に、北条氏政の母・瑞渓院と、継室・鳳翔院殿の2人が、同じ日に死去している。同日であることから、2人は自害した可能性もあるのではと指摘されている。伊達政宗が小田原に到着した頃の出来事であった。

 父である北条氏康が偉大だったこともあり、北条氏政の評価はイマイチだが、北条氏康時代以上に勢力を拡大した能力や、兄弟でも抗争する戦国時代に兄弟仲が非常に良く北条氏照らと協力し、内部崩壊もなく良き家臣と共に合戦でも武功を挙げているなど評価できる点が多く、北条氏政も決して無能な武将というわけではない。

 兄弟の担当割振

 北条氏政→政治
 北条氏照→軍事
 北条氏邦→殖産
 北条氏規→外交
 上杉景虎→人質

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