北条氏綱とは~関東進出の基盤を作った政治力ある小田原城主


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北条氏綱(ほうじょう-うじつな)は、北条早雲(伊勢盛時)の長男として1487年に生まれた。
母は正室で室町幕府奉公衆・小笠原政清の娘・南陽院殿。
弟には北条氏時、葛山氏広北条幻庵がいる。

1487年と言うと、父・伊勢盛時(北条早雲)、室町幕府も家督相続を認めた今川家の龍王丸が、今川範満と争っている時期で、この年に伊勢盛時は駿河に下向すると同志を募って駿河館を襲撃。
今川範満とその弟・小鹿孫五郎を殺害して、龍王丸=今川氏親を家督を継がせ今川家当主に据えた。

この功績により、父・伊勢盛時(北条早雲)興国寺城の所領を与えられて今川家の重臣となったため、母である小笠原政清の娘と北条氏綱も興国寺城に入ったものと推測される。

その後、伊豆・韮山城主となった伊勢盛時(北條早雲)は大森藤頼を攻撃して相模の小田原城を奪取。

その小田原城は北條氏綱が城主になったようで、1512年には小田原城にいることが文献からわかっている。
この頃、父・北条早雲は57歳であり、岡崎城三浦道寸三浦義同)に勝利し、相模統一を進めているので、恐らく北条氏綱も出陣していたことであろう。

なお、北条氏綱の正室は養珠院殿(ようじゅいんどの)で、1515年に北条氏康が生れた他、1520年には北条為昌、1522年には北条氏尭が生れている。

1516年、北條早雲は玉縄城を上杉朝興に攻められるが撃退し、新井城の三浦道寸と三浦義意の父子をついに滅亡させ、相模を平定した。
そして、1518年、北条早雲(63歳)は、家督を北条氏綱(32歳)に譲り、1519年に死去した。

このとき、早雲寺殿廿一箇条と呼ばれる北条早雲の家訓を、北条氏綱は受けている。
抜粋すると下記のような感じだ。

第一条 仏神を信仰すること。

第二条 朝は早くに起きること。遅く起きれば家臣までも油断して使われず、役に立たない。必ず主君にも見限られるものと深く慎むべきである。

第三条 夜は五ツ(午後八時)以前には就寝すること。夜盗は真夜中に忍び入るもの。夜中に寝込んで家財を盗まれ、滅亡する者もいる。宵にはいたずらに薪や灯火を燃やさずに採りおいて寅の刻(午前四時)に起きて行水と神に礼拝を済ませ、身繕いを済ませてからその日の用事を妻子や家来に申しつけておくこと。六ツ(午前六時)以前には出仕のため城にあがること。古くから子(ね)に寝て寅に起きろというが、これは人にもよる。すべて寅に起きるのは得するのである。

第四条 顔を洗う前に厠や厩・庭・門外を見回って掃除する所を家来に指示すること。顔を洗う水はムダにせず、家中であるからと声高い咳払いなどは見苦しいものである。

第五条 神仏を拝むことは、身の行いである。心を柔らかく持ち正直に拝むこと。上の者を慕い、下の者をあわれみ、有ることは有る、無いことは無いと正直に祈ることは仏の意向にも沿うであろう。たとえ祈らずとも、その心があればよい。

第十二条 少しの暇があれば本を読み、文字のあるものを懐にして人目を忍んで常に読んでいること。本を放せば文字を忘れ、書くことも同じである。

第十五条 歌道を嗜むべきこと。歌を学べば常の言葉にも慎みが出るものである。

第十七条 良い友とは学問のある友であり、悪い友は碁や将棋・笛・尺八などの上手い友である。碁や将棋・笛・尺八は知らなくても恥ではない。習っても悪いことではないが、ただいたずらに年月を送るよりはましな程度である。人の出来、不出来はみな人とのつき合いによる。三人行くところ、必ず師匠あり、よき友を選ぶこと。

第十八条 暇になって家に帰ったなら、厩から裏に回って周囲の壁や垣根の犬のくぐり穴を修理すること。下女などは軒の板を剥がして処理するようなことをする(手抜き工事のことか)ので、常に注意を怠らぬこと。

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虎の印判状

北條氏綱は家督を継ぐと、書状には虎の印を用いて、この虎の印がない印判状は無効と定め、郡代や代官が勝手に百姓などから臨時税などを取る事を抑止させた。
それまで、領民はその領地を所有する武将の管轄であったが、印判状によって大名が直接、村や百姓への指示することになり、大名家による直接支配が進んだ。

そして、父が居城した韮山城は支城とし、小田原城を本格的に改修開始して、本城としたのは北条氏綱となり、改めて検地も実施した。
また、寒川神社、箱根大権現、相模六所宮、伊豆山権現などを再建し、早雲寺を創建している。

なお、小田原・北条家は、北条早雲の時代にはまだ「伊勢氏」を称しており、家督を継いだ北条氏綱も正しくは伊勢氏綱(いせ-うじつな)と書くのが正しい。
しかし、1523年7月前後に苗字を北條(北条)に改姓し、北条氏綱(北條氏綱)となった。
最近の研究では、単なる自称ではなく、朝廷に願い出て正式に「北条」と許可を得たものと考えられている。
その後、鎌倉幕府・執権北条氏の古例に倣い、左京大夫に任じられ、家格も今川家や武田家、上杉家と同等になった。

このように北条氏綱は政治力がある武将で、父の頃に行われていた豪族での連合体制を修正して治外法権をなくし、自身への権力集中を計った。
また、前述の通り検地を実行し、家臣団と領民の統制整備を行い、有能な人材を評定衆・奉行衆に登用し、適材適所の配置を行った。

そして、北条氏綱が使用した朱印「禄寿応隠」の意味は「人民よ皆平和に暮らそう」であり、北条家が滅亡するまで代々の当主が使用することになる。

関東に影響力を持っている古河公方・足利晴氏に娘・芳春院を継室として送って同盟。
また、太田道灌の孫・太田資高を寝返らせて江戸城を確保し、続いて岩槻城(岩付城)を攻略した。
また、小机城、玉縄城、三崎城(新井城)江戸城、河越城など改修し、支城網の整備にも努めている。

しかし、扇谷・上杉朝興が、山内・上杉憲房、上杉憲寛と提携して北条氏綱に対抗。
これに甲斐の武田信虎、上総の真里谷武田氏、小弓公方・足利義明、安房の里見氏らも加わり周りは敵だらけとなる。
鎌倉の鶴岡八幡宮も、里見勢により焼失するも、1530年には嫡男・北条氏康が上杉朝興勢と小沢原で戦いに大勝した。
ただし、膠着状態は続き、北条氏綱は17年も対応に迫られ戦っている。
その一方で、1532年からは興福寺の番匠を呼び、鎌倉・鶴岡八幡宮の再建にも着手し、関東制覇への大義名分を強めている。

また、小田原城を訪れた福島正成の子とされる北条綱成をたいそう気に入ると、娘・大頂院と結婚させて養子に迎え、北条綱成を北条一門に迎えている。

1534年には今川氏輝から要請を受けて、山中の戦いにて武田信虎の弟・勝沼信友を討ち取るなどしたが、今川家の跡を継いだ今川義元は武田信虎に接近し甲駿同盟を成立させる。
そのため、北条氏綱は駿河に出兵し、父と今川家の時代から続いていた主従関係を完全に断ち切った。

1538年10月7日、第1次国府台の戦いとなると、北条氏綱は小弓公方・足利義明と安房の里見義堯らに大勝し、足利義明を討ち取って小弓公方を滅ぼした。
これにより、武蔵南部から下総に勢力を拡大し、磐石な基盤へと前進させている。

そして、子の北条氏康に家督を譲ると、家訓を記した「五箇条の御書置」を残し、1541年7月19日に北条氏綱は死去した。享年55。

北条氏綱から代々の当主らは『氏』という通字を用いているが、これは早雲の別名である長氏や氏茂などの偏諱が由来とも、従兄の今川氏親からの偏諱ともされている。

鶴岡八幡宮の再建は、大道寺盛昌、笠原信為、北条為昌らの奉行によって、北条氏綱が没した後まで続き、1544年に完成を見ている。

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