今川氏真と言う武将の才覚~今川氏真に足りなかったものは?


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今川氏真(いまがわ-うじざね)は、駿河・遠江・三河の3ヶ国を受け継いだ戦国大名であり、第11代の今川家当主である。

父は今川義元で母は定恵院(武田信虎の娘)であり、血筋も悪くない。
1554年7月には、小田原城主・北条氏康の娘(北条氏政の姉)である早川殿を正室に迎えた。
そして、1558年、21歳の時に、父・今川義元から家督を譲られたが、事実上の統治は引き続き今川義元が行っている。

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しかし、1560年、織田信長との桶狭間の戦いにて、今川義元が討たれた(享年41)だけでなく、松井宗信、久野元宗、井伊直盛、由比正信、一宮宗是、蒲原氏徳など今川家の有力家臣らを失った。
この時、今川氏真は23歳であり、今川義元が領土拡大した時のように、太原雪斎と言う頼りになる相談相手がいなかった事が、今川家衰退への道に繋がったとも言えます。

今川義元らが討死した今川家の家臣らは動揺します。
この頃の戦国時代は、各地の領主が付近の強い者に臣従していると言う事であり、武田家や北条家も同様です。
当然、今川氏真の器量に不安を感じたのか、臣従していた家臣らが生き延びる為、離反を考えるようになります。
今川氏真は織田領と接している三河の寺社・国人・商人ら多数に安堵状を発給して動揺を防ごうとしましたが、特に三河では離反の動きが顕著になります。

最初に離反したのは言うまでもなく松平元康、のちの徳川家康ですね。
19歳の徳川家康は、今川家の従属から独立すると言う選択をし、故郷の岡崎城に戻り、今川家は西三河を失います。
そして、1562年1月には織田信長と「清洲同盟」を結び、今川氏真と対立しました。
足利義輝や北条氏康の仲介も断り、徳川家康は織田信長と結んだのです。

そんなこんなでしたので、今川氏真は、東三河の国人に対して、従来の人質以外に新たな人質を要求し、1562年2月には今川氏真が自ら出陣して、一宮砦を攻撃しますが徳川家康の反撃で撃退されています。

今川氏真も三河の家臣らを信用できなかったからでしょうが、当然、三河では不満が強まり、徳川家康に内応する武将も現れ始めます。
関口親永など謀反の疑いを受けた重臣も切腹を命じられました。
特に、野田城主・菅沼定盈が離反した際、今川氏真は吉田城主・小原鎮実に対して、東三河の諸氏から差し出させれていた人質十数名を処刑するよう命じます。
これが東三河の今川家臣らの離反を決定的なものにしました。

今川氏真は討伐軍を送って菅沼定盈を逃亡させましたが、1562年には菅沼定盈が野田城を奪回するなど、東三河で今川家は影響力を弱める一方でした。

一貫して今川家に忠節を尽くしていた、東三河の拠点である吉田城主・菅沼定盈も、1564年6月に徳川家康に降伏し、遂に三河から今川勢は駆逐されました。

当然、三河に隣接する遠江の国人に動揺が広がり、井伊谷城主・井伊直親菅沼忠久曳馬城主・飯尾連竜、見付の堀越氏延、犬居城主・天野景泰らが徳川家康からの調略を受けて内応します。
謀反が疑われた井伊直親が、今川家の重臣・朝比奈泰朝に暗殺され、飯尾連竜が反旗を翻すと、今川氏真は三浦正俊らに命じて曳馬城を攻撃させますが、陥落させることはきできませんでした。
しかし、飯尾連竜を結果的に暗殺するなどし、裏切り者を処罰していきます。

今川氏真の妹・嶺松院を正室としていた武田義信が1567年に東光寺で自害し、嶺松院が駿河に戻ると、1568年、武田信玄は駿河侵攻を開始し、三国同盟も破棄されるに至りました。

今川氏真には何が足りなかったのか?

今川氏真は政務を省みなく、蹴鞠などの遊びに講じたとされますが、本当にそうなのでしょうか?
また、多数の家臣に裏切られていると言うイメージもありますが、本当にそうなのか?
この2点について重点的に調べてみました。

実際に教養人であったようで、蹴鞠は織田信長が教えてほしいと懇願しているくらいで、茶道具でも織田信長とは交流を深めたようです。
京都滞在中には公家とも度々連歌の会を催すなど、和歌だけでは観泉寺史にて1658首も収録されており、優美平明な和歌が得意だったようです。
剣術に至っては塚原卜伝より学んだともされ、決して武芸を怠っていた訳ではありません。

内政面を見ますと、1566年4月には、富士信忠に命じて富士大宮の六斎市を楽市にしたり、疲弊した地域には徳政令を命じたりもし、井伊谷城の井伊直虎も実行しています。
その一方で『甲陽軍鑑』などでは家臣の三浦義鎮(小原鎮実の子)に政務を任せっきりだっとあります。
これは信憑性に問題がありますが、和歌・連歌・蹴鞠などの技芸に通じた文化人であったことには間違いありません。

となると、領国経営と言うよりは「戦略面」が多少不安要素が大きかったと推測致します。
特に、太原雪斎のような軍師となる優秀な人材がいなかったのでしょう。

このように考えますと、今川家がここまで衰退した結論としては、今川義元が討死した際に「弔い合戦」をしなかった事に尽きます。
離反した徳川家康を改めて降伏させて、織田信長に対しても一矢を報いておけば、三河や遠江の家臣らはまだ今川家に味方した可能性があったでしょうが、そこまでの器量が無かったのが、能力が足りなかったのか、カリスマ性が乏しかったのか、軍勢を動かせない事情があったのか、皆様はどのようにお考えでしょうか?

1568年、武田信玄の侵攻を受けた今川氏真は、駿府を追われて僅か100騎余りで掛川城へ逃げ込みます。
遠江では堀江城主・大沢基胤が徳川家の猛攻を受けた降伏もしており、家臣に裏切られると言う事で考えますと、掛川城主・朝比奈泰朝らにここでも裏切られておかしくないと思います。
本拠地を追われたのですからね。
しかし、掛川城では約5ヶ月に渡り籠城し、徳川家康の侵攻を食い止めました。
もちろん、北条氏康の援軍が、駿河に入った武田勢を駆逐する予定があったため、それに期待していたと言う事もあるかと思いますが、籠城を頑張った訳です。
されど、掛川城を降伏開城すると、今川氏真は正室・早川殿の実家である北条氏康を頼り、戦国大名としての今川家は滅亡しました。

この時の「今川家滅亡」は下記にて詳しくご紹介させて頂いております。

今川家の滅亡~掛川城と今川氏真・朝比奈泰朝 、薩埵峠の戦い

1575年になって、今川氏真は京都・相国寺で織田信長と会見すると、織田家に協力するようになり、長篠の戦いでは徳川家康にも味方し、少数ながらも後詰をしました。
このように徳川家にも接近すると、1576年には諏訪原城を攻略した徳川家康より、諏訪原城の名を改めた牧野城主として今川氏真が配置されています。
1577年からは浜松城下に居住したようで、1590年以降は京都に移り住んだようで、1612年からは徳川家康から近江国野洲郡長島村に500石を与えられ、1614年12月28日、今川氏真は江戸・品川の屋敷にて死去しました。享年77。

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