浦添城と舜天とは~浦添ようどれ 源為朝が沖縄に逃れたと言う伝承や察度も


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浦添城(うらそえじょう)と舜天王統の開祖とされる琉球国王・舜天(しゅんてん)に関して調べて実際に沖縄にも行って参りましたので、よければご覧頂けますと幸いです。

まず、沖縄の歴史として、琉球王国の公式史料によると、日本の平安時代末期の武将・源為朝(鎮西八郎)が沖縄に逃れてきたとあり、なかなか興味を惹かれます。
源頼朝源義経の叔父にあたるのが鎮西八郎為朝になりますが、この源為朝(みなもと-の-ためとも)は、1156年の保元の乱で父・源為義とともに崇徳上皇に協力しましたが、後白河天皇に敗れています。

この時、捕縛されたあと伊豆大島に流刑となりますが、罪人でありながら伊豆諸島(伊豆七島)を自分の支配下に治めて領主になるというスゴ技を示したため、工藤茂光・伊東祐親・北条時政・加藤景廉・宇佐美祐茂?らの討伐を受け、1177年に伊豆大島にて自害したとされています。享年32。

この剛勇の武将で知られた源為朝には妻の平忠国の娘、阿多忠景の娘?との間に、源義実、源実信、源為頼(閉伊頼基)、源為家(豊後冠者)、娘(足助重長の正室)、舜天と子供がいました。
源義実と源実信は保元の乱の際に処刑されたようです。
源為頼は伊豆大島の代官・三郎大夫忠重の娘との間に設けた子だったようで、父が自害した際に母と共に島を脱出すると、東北の三陸海岸に流れ着いたようです。
そして、源頼朝が鎌倉幕府を起こすと、奥州合戦の際に源頼朝に拝謁し、奥州藤原氏滅亡後の閉伊郡と気仙郡の統治を任せられたともされ、閉伊頼基と称したともされます。
源為家は伊豆大島の祖となり、戦国時代には子孫が小田原城主・北条家の家臣に見受けられます。

なお、上記の話も諸説ありますし、真偽のほどは、本当に良くわかりません。
当サイトにある他の歴史関係の話も含めて、すべて正しいと言う事ではありませんので、念のため、ご確認申し上げます。
そのうえで、別の説をご紹介しますと、工藤茂光らに攻められた際に、島の人々の助けで、源為頼は逃れて、琉球にたどり着いたと言う話があります。
※琉球に流刑になったとも。

源為朝上陸記念碑

浦添ではないのですが、源為朝が沖縄本島に上陸したと言う伝承がある今帰仁の丘に、源為朝上陸記念碑(下記写真)が建立されています。

下記その今帰仁(なきじん)から撮影した、運天港の様子です。
天気が悪くてすみません。

船が嵐に遭い、沖縄本島の今帰仁に漂着すると、源為頼は大里按司の妹と結婚して豪族となり、その源為頼の末子が琉球王家の始祖「舜天」になったと、沖縄の正史で歌謡集の「おもろさうし」などでは解釈されています。

源為朝上陸記念碑のある場所は、当方のGoogleオリジナルマップにてご確認を賜りますと幸いです。

話がそれましたが、続いてその舜天に迫ってみます。

舜天

舜天(しゅんてん)は、1166年生まれとされ、初代・琉球国王として舜天王統(しゅんてんおうとう)の開祖となり、1187年から1237年まで琉球国中山王(ちゅうざんおう)となりました。

舜天は15歳で浦添按司になったと記載されていることがあります。

按司(あじ)と言うのは日本本土で言う「分家」と言う意味ですので、そのまま捕らえますと、王統の分家として沖縄県浦添市を本拠にしたと言えるでしょう。

琉球最初の王統とされる天孫氏(てんそんし)が、その家臣・利勇に討たれて滅ぶと、その利勇を討伐して沖縄を統一し中山王になったのが、1187年で22歳の舜天だとされています。
これが正しいとすると、舜天王統(しゅんてんおうとう)は、琉球二番目の王統となります。

中山と言うのは、このころの琉球は、三山時代と言い、北山・中山・南山と沖縄本島が3つに割れた統治、すなわち「3国」あったと言う事から、分けられていた名称で、中山の舜天が統一したと言うことになります。

ただし、舜天に関しては伝説的な要素も多いようですので、琉球統一と言う事ではなく、浦添周辺を支配した大按司であり、実質的な琉球の王のような存在であったとも推測できます。

浦添ようどれ

浦添城跡には「浦添ようどれ」(うらそえようどれ)と呼ばれる場所があります。

当方のオリジナルGoogleマップ「沖縄編」にて示している浦添城の無料駐車場から階段を下がっていった先にあります。

下記が浦添ようどれの入口です。

浦添ようどれはウラシーユードゥリとも呼ばれますが、琉球王国の陵墓の事になります。

「ようどれ」と言う言葉は琉球語で夕凪(ゆうなぎ)、すなわち、海辺の地域なのに夕方に無風の状態になると言う意味です。

日本の鎌倉にある北条政子の墓もそうですが、古代琉球の王族の墓は、概ね、山の斜面(絶壁)にある「崖」に穴を掘ったような墳墓が多く見受けられます。

ただ、その横穴を掘った穴は、だいたい木の柵や石などで塞がれているのが、簡単に申し上げれば、沖縄の特徴かと存じます。

西室(英祖王陵)と東室(尚寧王陵)と、2つの墓室を中心に、墓庭、門、石牆(石垣囲い)から構成されており、最初は英祖(えいそ)と言う王様が築いたとされます。
この英祖は、天孫氏の末裔で、伊祖城の恵祖世主の子となり、舜天王統の3代目で最後の王・義本(ぎぼん)の摂政を務めていた人物です。
義本は、沖縄で天災や疫病が発生した責任を取って、1259年に王位を英祖に譲ったと言う形になります。
その英祖が、1261年に築いたのが、浦添城の中にある浦添ようどれと言う事になります。

岸壁に横穴を掘って墓室とし、墓の中では中国産の石で作られた石厨子が発掘されています。
1620年には尚寧王が改修し、王自身もここに葬られています。

なお、浦添ようどれの場所は、日本式の城郭で言えば曲輪になっており、その外側は高い石垣で覆われていました。

次は浦添城にまつわる人物として察度を取り上げたいと存じます。

察度

上記にてご紹介したあとの時代となりますが、英祖王統が衰えると、浦添に察度と言う人物が登場します。

察度(さっと)は、三山時代の琉球・中山王(ちゅうざんおう)として、浦添城を本拠に察度王統(1350年~1405年)を開いた武将です。

伝承では、1321年生まれで、父は浦添間切謝名の奥間大親、母は伝説上の天女となる飛衣(羽衣)とされます。
貧しい家庭でしたが、力もありの裕福な勝連按司の娘を妻に迎えます。

なんでも、才色兼備で知られる勝連按司の娘が、多数の求婚を断り、誰とも結婚したがらないと言う話を聞き、勝連城を訪ねて、娘に求婚したそうです。
勝連城の者たちは、貧乏な察度が身分もわきまえずと笑いましたが、勝連按司の娘は、父を説き伏せて、この察度を夫にしたと言う事になります。
こうして、勝連按司の支援を得て、察度は力を発揮するようになったようです。

30歳のとき、1350年には、浦添城の英祖王統を滅ぼして、察度王統を創設したとされます。
その時、英祖王統が蓄えていた金蔵を空けて、武器や農具に必要な「鉄」を日本の商人から購入したと言われています。
また、浦添世の主となるまでの名前は、謝名ムイ(じゃなむい)ともあります。

1393年、察度は明国の大学に留学生を送り、言語や文化を学ばせるなどして、新しい文化を浦添にもたらしました。

浦添城

国の史跡にも指定されている琉球・浦添グスク(うらぞえしろ)は、長さ約400mの断崖の上に築かれています。

浦添城の見学は無料で、24時間立ち入り可能です。
大きな井戸もありました。

太平洋戦争の末期・沖縄戦で、日本軍は浦添城を「前田高地」として防衛拠点に位置づけ、死守したたため、約3週間、11回にわたりアメリカ軍と激しい戦闘も行われました。

下記は浦添城の本郭にある「ガマ」(洞穴)ですので、司令部も置かれていたことでしょう。

もともと、このガマは浦添城の「聖地」のひとつになっていたと容易に考えられます。
沖縄の城の中には、小さな聖地がいくつもあるのが特徴です。

要するに神仏信仰ではなく、祖霊信仰が盛んで御嶽(ウタキ)と呼ばれる聖林を信仰したりします。

以上、浦添城と浦添ようどれでした。

上記の案内図にある「現在地」の場所が、浦添城や浦添ようどれに、最も近い無料駐車場です。

浦添城の無料駐車場は、当方のオリジナルGoogle地図にて示させて頂いておりますので、ご参考頂けますと幸いです。
よく地図を見ないと、大通りから入るところはわかりにくいです。

なお、浦添城の観光所要時間は約30分といったところです。
天気が良ければ海も見えます。

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