和田合戦~経緯と戦闘詳細【和田義盛の乱】


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 鎌倉時代初期に支配した横山党をご紹介しましたが、このページでは、横山党が滅ぶ原因となった「和田合戦」についてご紹介致します。

和田合戦前の鎌倉幕府
 
 横山党が滅ぶ原因となった和田合戦は、1213年5月2日に鎌倉幕府有力御家人・三浦氏の一族・和田氏が横山党と結び、執権北条義時を打倒するために起した反乱で、現代風に言えばクーデターと言っても良いです。
 和田氏は三浦半島の和田などに本拠地を置き、三浦氏や横山党とは姻戚関係でした。
 相模原市上溝にある亀ヶ池八幡宮に残る記録では、横山庄に行く途中、和田義盛が武運長久必勝を祈願したと言い、姻戚関係にあった和田義盛と横山党は親交があったことがここからもわかります。

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 和田合戦が始まる前の経緯として「比企能員の変」があります。
 鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝北条政子が嫁いでいた関係で、北条氏が執権として政治最高職を得ていましたが、この頃まだ執権の権力は万全なものではありませんでした。2代将軍・源頼家は、側近や正室(若狭局)の実家である比企能員を重用し、それに北条政子(母方)の北条氏などが反発していました。
 1203年8月源頼家が一時危篤になった際に、北条氏は源頼家の長男・源一幡が本来すべて受け継ぐ領地を、源頼家の弟である源実朝に分割しました。これに怒った比企能員は病床の源頼家と、9月2日に会い北条氏討伐を企てますが、障子越しに母である北条政子に聞かれ、北条政子の父、北条時政の耳に入ります。
 北条政子は薬師如来供養を口実に比企能員を鎌倉・名越の北条邸に招いたところを、天野遠景と仁田忠常に襲わせ、全く警戒していなかった比企能員を暗殺します。知らせを聞いた比企一族は、その日のうちに一幡の小御所に入り戦に備えますが、北条政子が将軍代行となり、比企氏討伐令を出し、北条義時を大将とする軍勢が小御所を取り囲み、比企一族は源一幡や若狭局を囲んで自刃し、たった一日で滅亡しました。
 数日後の9月7日、激怒していた源頼家は病から回復し、頼りの和田義盛と仁田忠常に御教書(正式な討伐令)を送り北条氏を逆賊として討伐を命じましたが、和田義盛はこの御教書を北条氏へ渡し、源頼家を裏切ります。北条氏の仁田忠常はただちに滅ぼされ、その日(9/7)のうちに北条政子の命で源頼家は将軍職を剥奪され伊豆・修善寺に幽閉されることになり、3代将軍は北条氏によって11歳そこそこの源実朝が擁立されました。
 翌年1204年7月18日北条氏からの刺客により源頼家は絶命します。
 1205年7月19日、北条時政邸に滞在している源実朝を殺害し、娘婿の平賀朝雅を新将軍として擁する、北条時政の後妻、牧の方の策略が鎌倉に知れ渡ります。北条時政の娘、北条政子とその弟・北条義時は大反対し、源実朝は北条政子の命を受けた御家人らに守られ、北条義時の邸宅に逃げます。北条時政は兵に集まるように呼びかけますが、その兵はすべて次男の北条義時邸に参じます。7月20日、北条時政は伊豆国修善寺に追われ、執権は北条義時が継ぎました。牧氏事件と呼ばれます。

横山党が滅亡した和田合戦

 和田氏は鎌倉幕府創設以来の功臣であり、軍事の最高職である侍所を務めていましたが、1213年に和田合戦が鎌倉の市街地で勃発します。源実朝はようやく21歳そこそこです。
 まずはその経緯から・・・。
 信濃国住人・青栗七郎の弟で僧侶の阿静房安念は、関東中を歩き回り鎌倉への謀反に加担するよう説得して歩き回っていました。
 1213年2月15日、鎌倉の有力御家人、千葉氏・千葉介成胤の鎌倉甘縄屋敷を訪れ「北条氏打倒に荷担するように」説得したところ捕らえました。最初は小さな企みかと思われましたが、その後、検非違使・山城判官行村(金窪行親)の調べで、信濃源氏の泉親衡が源頼家の遺児千寿を将軍に擁立して北条氏を打倒する陰謀が発覚します。
 加担するよう説得した相手は130余人に登り、参画した者の中には、一村小次郎、籠山次郎、宿屋次郎、上田原平三父子、園田七郎、狩野小太郎、渋河刑部六郎、磯野小三郎、栗沢太郎父子、木曾滝口、奥田氏、臼井氏といったそうそうたる面々で、極めつけは、和田義盛の子の和田義直、和田義重も計画に参加している事がわかりました。
 北条義時も事の重大さに気付き、判明した者は翌2月16日直ちに、それぞれを重臣の屋敷へ監禁します。和田義盛の子の和田義直・和田義重と、甥にあたる和田胤長も拘束されました。
 泉親衡は、源満仲の弟・源満快の子孫と源氏の中でも名門であり、また剛勇をもって知られていましたが、北条氏の独断先行を快く思っていませんでした。
 北条義時は泉親平が潜んでいるとされた建橋に工藤十郎らの兵を派遣し捕らえようとしますが、工藤十郎は逆に泉親平に討ち取られてしまい、泉親平は行方をくらまします。

 和田義盛は上総国・伊北(いぎた)庄にいて、鎌倉を離れている間の出来事でした。鎌倉中が騒動になり、諸国から鎌倉街道を御家人達が鎌倉目指して参集してくる中、急ぎ戻った和田義盛は、3月8日鎌倉の御所に入り、一族の歎願釈明をします。執権・北条義時は、他の御家人に示しが付かないと反対しましたが、源実朝は和田義盛の祖父以来、これまでの勲功もあるとして、北条義時も同意の上、和田義直・和田義重を赦免すると答え、和田義盛は喜んでその場を下がりました。
 息子2人が赦免されたので、当然弟の子、和田胤長も釈放されると思い込んでいたのか、その辺りの事情はわかりませんが、和田胤長は釈放されないことがわかりました。和田義盛は一族からは罪人を一人も出したくないし、息子2人許されれば、同じ一族のもう1人も許されて当然と考えたのかも知れません。
 翌日3月9日、和田胤長が釈放されないことを一族や三浦氏など相談した結果、三浦・和田一族98人揃って御所へ行き、南庭に列座し、和田胤長赦免を嘆願しました。
 大江広元が源実朝に取り次ぎましたが、呼ばれてもいないのに勝手に御所へ一族98人で乗り込んでくれば、それだけでの兵力でも占拠可能です。そのような脅しとも取れる行為を戒める気持ちもあり、北条義時は検非違使・山城判官行村(金窪行親)に命じて、わざわざ縛られた和田胤長を98人一族の面前に引き出し、罪人につき予定通り判決を下すようにと、実質釈放しないことを宣言しました。
 一族98人で御所に来る暴虐ぶりでは和田胤長だけは許す訳には参らぬと言う事を、北条義時が源実朝に許さないようにと進言したことが様子で分かり、和田義盛は怒りました。屈辱のあまり和田義盛は「うーむ、義時め」と睨み、一族こぞって荒々しく立ち去ったとされています。

 息子たちと異なり、和田胤長は首謀者格だったので、許されなかったと言うのが一般的です。この頃、執権・北条氏の政権も強固ではなく、幕臣でも最高位に位置する侍所別当の和田義盛にかなり配慮した形を取り、息子の2人だけは許したと言う配慮があったとも解釈することができます。
 3月17日、和田胤長は鎌倉の邸宅没収、奥州の岩瀬郡鏡沼(現在の鏡石町)への流刑が決定し、死罪だけは許されたのですが、北条氏も和田氏も、立場と思惑が入れ混じった駆け引きが行われたと言えます。
 3月19日夕刻、若宮大路に面した和田義盛の屋敷の近辺で、和田義盛と姻戚関係にある横山党の横山太郎(横山時兼)一行の甲冑武者50騎ほどを発見したと、北条義時のもとに一報が入りました。
 3月21日には和田胤長の長女で6歳になった娘が、父が流刑となったのを悲しんで病気になり、一族で色々慰めたりするものの急死してしまい、北条義時への恨みは募るばかりです。
 和田胤長の邸宅は鎌倉でも便利な荏柄大神社の前にあり、この頃、既に多くの御家人がその邸宅拝領を北条義時に願い出ています。
 3月25日、それを聞いた和田義盛は、御所に行き、源実朝の近くに仕える五条局を通じて、「先先代将軍家の御時より、一族のうちで屋敷没収されし折りには、その一族の者に与えて、他の者には下賜せぬしきたとなっております。故に胤長の屋敷は義盛に賜りたく存ずる。あの地は御所の東隣に位置し、宿直「とのい」や伺候致すのに近くて便が宜しゅうござる。何卒老いぼれのそれがしに、是非賜りますようお取り次ぎ願います。」と、当時のしきたりでは没収された土地は血縁者に渡されると言う、普通の主張をしました。
 その和田義盛の申し出は、直ちに許可され、和田義盛は屋敷に戻るとすくに代官として久野谷弥太郎を行かせて和田胤長邸宅に滞在させました。
 4月2日、北条義時は約束を破り、荏柄天神社を参拝した帰りに、この旧和田胤長邸を見て、今回の事件解決の手柄として金窪行親と忠家に分ち与えると発言し、屋敷を守っていた久野谷弥太郎を追い出しました。

 このように度重なる処遇に我慢できなくなった和田義盛は、このまま引き下がっては和田は衰退し、和田に味方するものもいなくなるが、今なら北条氏に不満を持つ御家人も多く、機会は今しかないと挙兵を決意します。
 和田一族は御所への出仕をしなくなり、味方してくれそうな御家人に使者を出したりと、挙兵準備をすることになります。和田氏は名門三浦氏に関係深い一族で、兵力は北条氏を圧倒します。その為、北条氏も簡単に討伐することができません。
 鎌倉中は戦が起きるのではと言う雰囲気となり、源実朝の側近として仕えていた和田朝盛は将軍側と和田一族との板ばさみに苦しみ、京へと出奔しました。
 4月16日、その置手紙を読んだ和田義盛は、一族から離脱者が出たことに怒って、すぐに息子の和田義直に命じて追わせました。
 4月18日、駿河国手越で和田朝盛を捕捉し、鎌倉へと連れ戻します。それらの行為は、当然目立ち、様々な憶測を呼び、北条義時も「挙兵は近い」と感じたはずです。
 いまさら呼び寄せても来ないだろうし、呼び寄せること事態が合戦開始になり、暗殺もできず、和田氏討伐の令を出せば、鎌倉が火の海になりますし、北条義時は先手が打てません。
 4月27日、源実朝の使者として宮内公氏が和田邸を訪れました。宮内公氏が寝殿に通されて上使として座についていると、慌てて衣服を改めた和田義盛が対の屋から出てきました。
 「世上では、和殿が密かに反逆を企てていると専らの噂。間き捨てにならぬことにて、和殿はどう御考えになっておられるのぢゃ。将軍家におかれては、御心痛一方ではござらぬ。和殿に反逆の気持ちまったくござらぬとあれば噂になるような行動は止められて、唄日より出仕なさるが宜しかろう」と宮内公氏が述べると、和田義盛は「何で将軍に対し奉り反逆の意志あろうや。北条氏が我が一族を亡きものにする企みあるにより自衛するまでのこと。北条氏が吾等を尊重されれば以前と変り無く出仕も仕るし、将軍を補佐致すであろう。」と長々と弁じたが、列座の朝夷奈義秀や古郡保忠の険しい顔付や、別室に密かに集められている武器・武具類を見て、和解は困難と察して、御所に戻り報告しました
 将軍源実朝は風雅の道に親しんで、北条氏の言いなりになっている人物ですが、寵愛する和田朝盛の一族であり、鎌倉幕府創立以来の功臣でもある和田一族を滅したくはありません。
 夜になって刑部承忠季を再ぴ使者として和田邸へ派遣しました。
 和田義盛は「これは将軍家を恨み奉ってのことでなく、執権・北条義時の非道に対して怒っているので、御教書賜わりたるとも、北条氏を討つ気持に変りござらぬ。こちらで防戦の用意なくば、あの比企一族のごとく討ち滅ぼされることは必定。われら滅ぼされなば将軍家の御安泰も計り知れず私憤ばかりではなく君側の奸を討つことなれば、もはや止め立てなされようとも、止めようがござらぬ。老い先短かいそれがしが今北条を討たざれば、われらの息子共の時代には滅ぷこと目に見ゆるごとくでござる。将軍家に果を及ぼすことは致さぬにより、必ず決行致す。度々の忝なき御諚を戴き義盛嬉しく存ずる次第、義盛の真意くれぐれも御前態宜しく頼み入る。」         
 とトッキリ心情を述べ、刑部承忠季も諦めて「さらば戦場にて相見得ん」と言い戻りました。

 源実朝は最悪の事態が迫ったことに夏慮し、4月28日に北条義時と大江広元が拝謁に来た際に、相談し、事態がおさまるように鶴岡八幡宮で祈祷を行います。

 北条義時と和田義盛の邸宅は歩いて5分ほど、軍事行動を開始すればすぐに知られてしまう距離です。和田義盛の隣に屋敷を賜っていた筑後朝重は5月2日、朝から武者の出入りが活発になった和田義盛の邸の情報を、御所に近い問注所別当大江広元のもとに報告させます。大江広元は酒宴の最中でしたが、客達にわからないように座をはずして、御所に伺候して和田義盛が決起しそうな様子を報告しました。

 しかし、決起当日になり、和田義盛が一番頼りにしていた、三浦氏が裏切ります。
 三浦義村は起請文まで書いて挙兵に同調する約束でしたが、和田氏より「今日決起する」と使いがくると、この2~3日の北条氏の動静を振り返り、和田勢の行動が日立つようにり、戦が始まるとわかっていながら、静観している北条氏は、実際に将軍家を擁しており、何か勝算があっての静観ではと考えると、北条氏の実力がとても怖くなったのだろうと思います。
 今度の事件で和田一族の権威は既に落ちているから、もしかしたら呼応する御家人も予想より少ないかも知れない。そこで、どちらにも味方することなく中立を取ろうと考えましたが、 一度和田勢に味方するとした以上は、戦わなくても罰せられる。
 家を存続させるには一族の和田氏を裏切るしかない弟の三浦胤義と相談し決断します。
 まずは、和田勢がこれから決起することを北条氏に伝え、罪を逃れようと徒歩3分の距離にある北条義時邸へ行きました。
 北条義時はこの時、大勢の御家人を招いて囲暮会を開いており、緊迫した日々の中で、何事もないかのように過ごしています。三浦義村の訴込を聞いても別に驚いた様子もなく、静かに微笑し「相わかった。御苦労に存ずる。あとは将軍家の御為に働くように」と、まるで主人が家来に言うように命令し、御所に赴き将軍に面謁して、和田勢が本日いよいよ反逆挙兵する事を言上し「万一、和田が御所へ押し寄せましたら、お目障りと存ずるゆえ鶴岡八幡宮の別当坊へ御移りあるように。」と北御門から側近を付けて避難させました。
 それから使いを自分の邸に出して、集っていた御家人に急ぎ出陣の用意をするように命じ、更に相模・武蔵の御家人に出陣の急使を出しました。

 一方和田勢は、横山党の横山時兼が3000余騎を引連れて駆け付ける手筈でしたが、予定の時刻になっても現れません。和田側の動きはすでに悟られてしまっているように感じますし、大町小町の町屋も避難の庶民でざわついています。
 このままでは、北条側から攻められ包囲される恐れもあり、和田義直も和田義重もイライラし、和田義秀に叱られたりしています。和田義盛は胡座のまま腕を組んで、苦渋に満ちた顔で目を閉じていましたが、これ以上待っては不利になるかも知れぬと、16時頃打って出ます。

 北条氏打倒計画には相模国のほとんどの御家人が同調。
 和田常盛、和田朝盛、朝比奈義秀(朝夷名義秀)、和田義直、和田義重、和田義信、和田秀盛、土屋義清、古郡保忠、渋谷高重、中山重政、中山行重、土肥惟平、岡崎実忠、梶原朝景、梶原景衡、梶原景盛、梶原景氏、大庭景兼、深沢景家、大方政直、大方遠政、塩屋惟守らの軍勢約300余騎が、5月2日の16時頃、御所南御門、北条義時の小町邸西門・北門の3手に分かれて攻撃を開始します。

 直前に裏切った三浦義村は出陣の支度を終え、御所に入ったのが16時過ぎとされています。
 北条義時はすでに、御所の北の法華いた為、小町の北条邸はすぐ和田勢に占拠されました。
 北条義時は北条政子と源実朝の妻を八幡宮に非難させます。
 御所では、押し寄せる和田勢に対して波多野忠綱、三浦義村が防戦します。
 三浦勢が和田勢に矢を射かけ来るので、和田義盛はそこで三浦義村の裏切りを知り、「おのれ三浦メ。」と怒り、和田勢が突撃してくるので、三浦勢は退却します。
 北条泰時、北条朝時、上総義氏も加わって御所を守りましたが、攻めて来るのは武勇の誉れ高い朝比奈義秀。御所は炎上し源実朝は火災を逃れ源頼朝の墓所である法華堂に入りました。
 深夜になっても戦いは終わらず、劣勢の報を受けた源実朝は驚き、政所にいた大江広元を召すと、願書を書かせ、それに自筆で和歌を二首加え、八幡宮に奉じます。 高井重茂は和田義茂の子であり、和田一族でしたが、将軍を守る立場の源実朝の側近だった為、和田一族としては唯一幕府側として御所で防戦した。高井重茂も武勇で知られていましたが、朝比奈義秀と戦って討死。北条朝時も太ももに負傷し退却。足利義氏も政所前橋で戦いますが、馬から振り落とされそうになりながらも命からがら退却。
 しかし、和田勢挙兵の報を受けて、鎌倉に向かっていた幕府側の軍勢には、政所や御所の火災の明かりが、闇夜の中、遠くからもぼんやりとわかったはずです。更に急いだ幕府側の軍勢が続々と鎌倉に入り、道と言う道は幕府勢で埋め尽くされ、しだいに和田勢は不利になります。
 横山党が馳せ参じたと言う報告もまだなく、開戦から3時間が経過し、和田勢の兵も疲労困憊です。御所で奮戦していた和田勢は朝比奈義秀を先頭に御所を出て、屋敷を目指しますが、屋敷が既に幕府側に占拠されているのを知ると由比ケ浜を目ざします。
 和田勢は残った兵も50騎ほどののところ、大町大路で足利義氏、筑後知尚、波多野経朝、塩田義季らと出会い追い散らしますが、夜戦は敵味方の区別がつきにくいこともあり、深追いはせずに、由比ケ浜を目指します。幕府側も追撃はしてきませんでした。
 
 和田勢は由比ガ浜でしばし休息を取ります。その間、続々と幕府側と鎌倉入りする人馬の音が聞こえていきます。三浦氏が裏切った以上、形勢はあきらかに不利で、明朝は最後の突撃を行い討死するまでと考える、長く感じる夜を過ごしたことでしょう。深夜になると雨も降り出しました。
 5月3日朝4時頃、稲村ケ崎の方から軍勢が進軍してくるのが見えます。御所まで斬り込みに行くまでもなく、ここが死場所となったと、和田勢は迎え撃つ体制を取ります。
 当時の戦の習いに従い、名乗りをかけてから突撃しようと「そこに参られるは誰方にて侯や。」と朝比奈義秀が叫ぶと、相手の集団の中から
 「そちらこそ誰人にて候や。吾こそ横山武蔵党の旗頭、横山右馬允太郎時兼なり。そちらも名乗らせ給え。」と声が返って来ました。
 「おう。横山殿か。待ち兼たり。われこそ和田義盛とその一族なり。」と和田勢は横山時兼に率いられた横山党を迎え、形勢逆転と和田勢は勢いを取り戻します。
 横山党はもらなく少しでも大勢を連れて来るのに手間取り、遅れたとの事。
 横山党3000騎と言えば、当時1騎に3~4人の言わば歩兵がついた模様ですので、9000人~12000人程度の兵力とと推測されます。

 このとき横山党の当主は横山時広で、系図上における嫡子が横山広長とされています。そして、横山広長の弟にあたる横山時兼は合戦て横山党大将として参戦し、横山広長は合戦に参加した形跡はありません。横山氏と和田・三浦両氏、梶原氏とは縁戚関係があったことが系図から知られ、横山広長の妻は横山時重の姪です。おそらく、横山時広の嫡男は横山時兼であり、和田合戦で没落した横山氏の家系を、血縁関係にある横山広長の系が受け継いだと見るのが真相に近いと思われます。

 幕府側は、和田勢は残り少なしと見て、夜が明けるのを待って攻勢にでようと考えていたところ、明るくなると由比ガ浜の和田勢が大軍になっているのがわかり、驚きました。
 しかしながら、幕府側より攻撃に出ようと進軍しましたが、朝8時頃海が見える辺りに到達した際に見える和田勢は、横山党以外にも二宮氏、曾我氏、中村氏、河村氏なども加わった様子で、更に大軍になっているように感じ取れ、その場で進軍が止まりました。さすがの北条義時や大江広元も危機感を感じます。和田勢優勢となれば、三浦勢が和田につくことになったり、幕府側の結束が揺るぎ、寝返される恐れがあります。そうなると将軍・源実朝は殺されなくても、北条氏は確実に滅亡します。
 そんな空気を察した大江広元は
「方々、御案じ召さるな。いやしくも恩顧を受けし御家人達が、将軍家に対してそむき奉る気持ちは毛頭無いはず。将軍より御教書を彼の者達に遣わされれば、事の順逆の次第が判明致し、和田方より離れてこちらに馳せ参ずると存ずる。何卒上様には御教書を御遣わしなされませ。」
 と諭し,幕府側の御家人も皆なるほどと納得しました。

 昨晩負傷した波多野朝定が起草したものを、執筆が浄書し、源実朝が花押を書きました。
 それに執権・北条義時と別当・大江広元の文をつけ、その書状を、安芸国住人・山本宗高が和田勢の御家人に持参しました。これにより和田勢は逆賊と正式に認定されることになり、浜辺を埋め尽していた和田勢の一部は、続々と将軍側の陣に投降し、残ったのは和田一族と横山党のだけになり、この時勝敗はもう決定していました。
 堂々と戦の準備し、戦勝祈願するなど、昨夕に行動開始することを完全に悟られ、少し「知恵」が足りなかったとどうしても感じてしまいます。

 和田勢は、横山党が駆けつけた時はそれは大部隊に感じましたが、その後に更に加わった軍勢がいなくなると3000余騎でも、急に孤立した小部隊に見えます。和田義盛以下、引止めに回りましたがどうすることもできませんでした。
 横山党が加わった際に、すぐに攻撃に出ていれば、まだ御教書が御家人に行き渡っておらず、このような事態にはならなかったかも知れません。和田義盛は、次々と加わった御家人への応待に追われてしまっていたのでしょうか?
 和田勢は、再び討死覚悟の悲壮な気待に戻ることになりますが、最後の戦いと奮い諭し、朝10時頃、和田氏を先陣に横山党が続き北上を開始します。

 楯を列べて待機していた幕府勢からは矢が乱れ飛び、和田勢は倒れても倒れても進みます。
 ここを守っていたのは北条泰時らのの軍勢で、小町大路は足利義氏。名越は近江守頼茂。大倉には佐々木義清、結城朝光などが丸太を組んで待機しています。突入断念し、和田勢も縦を並べて、双方弓戦となります。幕府側の弓の名手・由利中維久は木陰から、和田勢の古郡保忠の郎党を次々と射倒しました。鎮西(福岡県周辺)の住人・小物資政は、「和田義盛殿に見参。」と楯の間から突撃しますが、朝比奈義秀に首を取られました。
 朝比奈義秀は、和田義清・保忠と共に3騎で敵陣に突入し、楯を蹴散らして斬りまくり、幕府側は度々退却しました。
 昨日以来、和田勢の攻撃に恐れをなしている源実朝は、大江広元に「敵壊滅の祈願」を鶴岡八幡宮に捧げるよう願書を書かせ、和歌二首を添え、その祈願書は宮内公氏が使となって鶴岡八幡宮へ奉納します。
 足利氏、佐々木氏、結城氏は押されて退却。筑後氏、土方氏、神野氏、林内氏ら27騎は和田勢に討ち取られるなど、和田勢は意外と奮戦し、和田勢の土屋義清は鶴岡別当まで進軍。一時、将軍源実朝に迫ります。しかし、馬上の土屋義清は赤橋で、うかつにも流れ矢を首に受けて戦死。
 昨日から戦い続けて矢傷も負い、疲労の色も濃い和田勢に対して、幕府側は次々と新しい軍勢が鎌倉に入り、戦を仕掛けてきます。次第に和田勢は由比ガ浜へと後退してきます。

 午後18時頃、和田義直(37歳)が伊具馬盛重に討ち取られます。「義直が討たれてしまった。どうして息子が父親より先に逝ってしまうのか。私は誰のために戦えば良いというのか。」と和田義盛は戦のさなかではあったが号泣したと言います。
 混乱している和田義盛を見て、江戸能範があっさりと和田義盛(67歳)の首を討ち取ります。(自刃したと言う説もあり。) 間もなく、すでに孤立していた和田義重(34歳)、和田義信(28歳)、和田秀盛(15歳)も次々に討たれ、和田勢は総崩れ。朝比奈義秀は自ら殿(しんがり)となって由比ガ浜に、残った兵力500騎を退却させ、朝に用意しておいた6艘の船に分乗し海から退却し、安房国へと逃亡します。
 陸上でも、和田義盛の長男・和田常盛、和田朝盛、岡崎実忠、横山時兼、古郡保忠、山内政宣の6人は、散々暴れ廻ったのち正面突破で鎌倉から逃れます。
 5月4日、甲州で討たれた和田常盛、横山時兼の首も鎌倉に届きます。
 「吾妻鏡」によると和田勢は988人討死。負傷者は軽症も含めると普通3倍程ですので、約2900人と言ったところでしょうか? 戦死しなくてもほとんどが負傷したと考えられます。
 5月9日、流罪となっていた和田胤長(31歳)が処刑されます。
 のちに、和田義氏も討たれています。

 こうして北条義時が勝利をおさめ、和田一族の大半は討死もしくは処刑され、再起できる力を失いました。討死した高井重茂の子・高井実茂は、父が幕府側に味方したため一人生き残りました。
 和田義盛が戦死した由比ヶ浜には、現在でも「和田塚」という地名が残っています。

 義盛の子で、源実朝の側近だった和田朝盛は、1221年の承久の乱で宮方として戦っています。

 和田合戦は逮捕者のうち和田一族以外は直後に釈放されており、和田一族が強力になることを危惧した執権・北条義時が和田義盛を挑発し、早期弾圧を加えたものと考えられます。
 和田合戦により北条義時は山内荘、美作守護を手に入れ、一番活躍した大江広元に武蔵国横山荘を与えました。北条義時は和田義盛に代わり侍所別当を政所別当と兼任し、政治と軍事の実権を掌握。北条氏による執権体制が確立しました。なお、幕府側の指揮を取っていたのは北条義時ではなく義時の長男・北条泰時という説もあります。
 一方、直前で裏切った三浦氏は、結果的に一族を割ることになり、弱体化し、のちの世に北条氏の手で滅ぼされてしまい、北条氏は権力をより強固なものとして行きます。
 和田合戦の時、圧倒的な兵力で有利だった和田・三浦軍が予定通り行動を共にすれば、かなり高い確率で北条氏に勝つことができた事でしょう。

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