山県昌景(飯富昌景)の解説~武田家を支えた重臣・飯富三郎兵衛

山県昌景とは

山県昌景 (ヤマガタ マサカゲ) 別名:飯富源四郎、飯富三郎兵衛尉 1529年(1530年?)~1575年5月21日

2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」ては俳優の橋本さとしさんが、山県昌景(飯富昌景)を演じられる。

山県昌景は幼名を飯富源四郎と言い、のち飯富三郎兵衛と称している。飯富虎昌の弟として武田信玄の近習となったとされている。
兄とされる飯富虎昌は武田信玄の嫡男・武田義信の傅役として、厚い信頼を得ていた。
飯富氏は本来「飫富」と書いて「オブ」と読み、甲斐源氏・逸見光長の子が飯富源内長能と名乗ったことから始まると言われている。(出自には諸説有)
いずれにしろ飯富氏は清和源氏の流れを汲み、巨摩郡飯富郷を領し、代々武田家の重臣として活躍する。
ただし、飯富源四郎(山県昌景)と飯富虎昌とは年齢差が約25歳と大きいこともあり、飯富虎昌の弟ではなく「甥」と言う説が現在では有力だ。
安芸・毛利氏の信憑性が高い史料「閥閲録」では、飯富源四郎の母は飯富虎昌の姉であり、生母である飯富虎昌の姉が没したあと継母と不仲となり、11歳の時源四郎は出奔し、母方の叔父・飯富虎昌を頼り甲斐に赴いて武田家家臣となったとある。


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飯富源四郎は、武田信玄の近習からお使番を経て、1554年信州伊那攻めで初陣。神之峰城一番乗りなどの戦功を上げた。 
身長は130cm~140cmと小柄で、体重も軽く、唇が裂けているなど見てくれは悪かったと言われており、継母との不仲の理由かも知れない。しかし、武勇だけではなく内政・外交にも優れ、武田信玄のよき片腕となって活躍する。軍略面において城攻め、野戦で見せるの采配ぶりは、戦上手の武田信玄も感嘆するほどだったと言う。板垣信方・甘利虎泰の討死後は、武田家の政治最高機関である「職」を原昌胤と共に務め、1552年には侍大将150騎持ちとなった。
1556年頃の相備え衆として、小笠原信嶺100騎、下条伊豆守150騎、松岡新左衛門父子50騎との記録がある。
采配御免の衆(20回以上の手柄を立てた家臣)としては、飯田某、西巻監物、ふたつぎ(二木?)弥右衛門、猪子才蔵、三科肥前、小菅五郎兵衛、孕石源右衛門、広瀬郷左衛門、古畑伯耆守、曲淵庄左衛門吉景、ふたつき(二木)源三郎、三井某、渡部三左衛門、川手文左衛門、北地五郎左衛門、和田加助、石黒将監、こち某(古地、小知)、尾崎某、久保勘左衛門、越石主水、小崎三四郎、滝三郎左衛門、今福求馬介(今福求女助)、長坂宮内左衛門、河原村伝兵衛(川原伝兵衛)、志村宮内丞、辻弥兵衛盛昌、早川三左衛門幸豊、鳶二位とある。
1559年6月下旬には、飯富源四郎、馬場景政、甘利晴吉が、松本から現在の平湯温泉まで、道なき道を切り開き、大木を倒して橋を掛け、安房峠の南側の大峠から北アルプスを越えて、飛騨に侵攻。飛騨出身の都竹五郎左衛門の説得により、飛騨神岡の江馬氏が武田に降伏し、江馬氏は知行地の安堵。武田軍はこの際、平湯温泉を発見したと言われている。
1561年5月にも、飯富源四郎は江馬氏を扇動して、飛騨統一をもくろんでいた三木氏を攻撃するため、飛騨攻めしている。
1563年、飯富源四郎を改め、飯富三郎兵衛と改名する。
1564年の飛騨攻めでは主将を任じられ、安房峠を越えて、飛騨・尾崎城塩屋秋貞などを攻略している。
1564年、武田信玄の嫡男・武田義信が武田信玄暗殺を企てる。飯富三郎兵衛の兄とされる飯富虎昌は武田義信の傅役と言う立場上、この謀反に加担せざるを得ず、甲陽軍鑑によると飯富虎昌と武田義信側近の長坂昌国(長坂源五郎)、曽根周防守らが武田信玄暗殺の密談をした。
飯富虎昌は飯富三郎兵衛にわざと聞こえるように画策し「いかに兄と言えども御大将に弓を引く謀反の企ては許せない」と武田信玄に訴えたことによって事件が発覚し、武田義信や飯富虎昌、穴山信邦らは捕らえられたと言われている。
その後、飯富虎昌は事件の責任を取る形で、1565年10月19日切腹。(62歳)
なお、この義信謀反にはその理由・経過・結果には諸説あり、よくわかっていない。家臣団を2つに割った義信事件は武田信玄死後の武田家に大きな影響を及ぼすことになった。

武田信玄は、謀反の責めを負った飯富姓のままであると飯富三郎兵衛も肩身が狭い、そして恩賞と言う形で。武田信虎の代に重臣・山県虎清が武田信虎に断絶させられていた、武田とも縁が深い山県姓を飯富三郎兵衛に与え、飯富三郎兵衛は山県昌景と名を改め、譜代家老衆に加えた。
また、兄・飯富虎昌の同心50騎を含めた500騎持ちと武田家中最大規模の侍大将となり、飯富虎昌の赤備えも引き継いだとされている。


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1567年5月には武田信玄自ら安房峠を越えて飛騨に入っているので、恐らく、山県昌景も同行したであろう。
1569年には、三増峠の戦いにも従軍。
1571年、駿河にて得た江尻城の最初の城主に山県昌景が就任し、駿河方面を統括。

1572年12月22日、山県昌景は三方ヶ原の戦いにて、秋山信友と共に徳川家康に正面攻撃を仕掛け、徳川本陣に迫った。徳川家康は脱糞して命からがら浜松城に退却し「さても恐ろしきは山県なり」と言ったという。そして徳川家臣・本多信俊の子の名を「山県」と称すようにしたとも言われている。
この戦のあと山県昌景は馬場信春が作った江尻城主に任じられ40000石となり、武田に帰属した駿河先方衆が相備衆として加わり、馬場信春と共に老臣筆頭となった。
武田信玄はこの時最重要であった駿河の支配を山県昌景に任され、井伊直虎井伊谷城などを攻撃している。
1573年03月、武田信玄西上に際しては別働隊5000を率いて三河東部へ侵入。長篠城を経由して浜松方面へ進軍し、柿本城井平城・段嶺城・奈倉城など6つの城を落とす。
甲陽軍鑑によると武田信玄の臨終の際には枕元へ呼ばれ「明日は瀬田に旗を立てよ」と遺命されたと言うが、武田勝頼が武田を継いでからは仲が悪かったとも言われる。
この頃には相備え衆として、朝比奈駿河守150騎、松尾100騎、大熊備前守30騎、相木市兵衛80騎、奥平美作守150騎、菅沼新三郎40騎、長篠30騎、三浦右馬助40騎、三浦兵部20騎、孕石主水2騎などの名があり、同心・被官合計980騎を持つ。1騎あたり3~5人程度の農兵が加わっていたので総動員すると約5000の兵力である。

1575年05月06日、長篠の戦いにおいて武田勢は長篠城を包囲。山県昌景隊300騎と高坂隊300騎は遊軍として有海村に集結した。
長篠の戦いでは、総攻撃開始に先立って偵察した結果を馬場信春や内藤昌豊と協議し、攻撃する側が不利である為、退却を武田勝頼に進言するが聞き入れられなかった。
1575年5月21日、武田が大敗する結果となった設楽ヶ原の戦いで山県昌景は武田信豊の指揮下に入り、左翼隊の主力として戦った。
小笠原隊・甘利隊・跡部隊と共に徳川勢・大久保忠正隊を攻撃。敵の鉄砲隊が交代する隙を計り敵陣に突入したが、全身に被弾した。銃丸に当たる事17ケ所とね言われている。しかし、被弾しても馬から落ちず、采配を咥えたまま絶命したと言う。
別の有力文献では徳川勢の鉄砲の名手・大坂新助が山県昌景を狙い1発撃ったが倒せなかったので2発目を撃ったところ、弾丸は山県昌景の兜の眉に命中し、山県昌景は落馬して討死したとある。(落命時の状況などには諸説有)享年47。
信長公記」によると長篠の戦いで、討ち取った武田勢の名前に山県昌景の名が一番目として記載されており、織田信長から見て、武田の重臣の中でも筆頭の重要武将であったことがわかる。
山県昌景討ち取りの報を聞いて、もっとも惜しみ、悲しんだのは徳川家康であった。以後、徳川家康の重臣・井伊直政真田昌幸の次男・真田信繁(のちの真田幸村)らも赤備えを採用している。
このように、合戦、戦略、外交、治安、内政など万能に秀でた武将として敵武将からも評価され、武田家四臣の一人として称えられている。

山県昌景の墓

設楽原の戦いの地にある山県昌景の墓

山県昌景の嫡男・山県昌次

山県昌次は父・山県昌景と共に長篠の戦にて織田・徳川勢と戦っていた。山県昌景討死の報が山県昌次に届くと、直ちに刀を取り馬から降りて父・山県昌景の側に向かったが名取又左衛門道忠手と言う者が山県昌景の首を抱いて立ち去っていた。
気が付くと周りは敵だらけになっており、山県昌次は父討死の地で割腹し殉死したと言われている。27歳前後と考えられている。

山県昌満

父・兄が長篠の戦いで討死した為、山県家の跡は山県昌景の次男である山県昌満が継いだがまだ幼少だった為、身寄りで同心頭・足軽大将の小菅五郎兵衛がしばらく助けて陣代を努めていた。小菅五郎兵衛は長篠の戦いで大久保忠世・大久保忠佐・大久保忠教と槍を合わせ奮戦したとも伝わる。
元服後、山県昌満は遠江・諏訪原城主にもなっていたようだ。
1582年3月7日、武田勝頼が討死する4日前、山県昌満は兵を率いて武田勝頼を守ろうとしたが、武田勝頼は異心あると疑った為、甲府に留まっていたところを武田竜宝・武田信綱・武田信堯・一条信就・朝比奈信直・諏方頼豊らと共に織田・徳川勢に殺害されたと言われている。
この時、小菅五郎兵衛も武田勝頼を裏切ったとされ徳川信忠に殺害されたようだ。
別説では山県昌満は武田滅亡後、上杉景勝に仕えたがのちに須賀川に流されたともある。

山県昌久・山県定昌・山県昌重・山県太郎右衛門・山県信継

3男・山県昌久は長篠の戦いあと、母方の実家がある尾張で暮らし上村源四郎と称したようだ。その子・上村昌時が越前松平家 (結城秀康) に仕えて家老として第2位までなり3600石を領している。10代後に山県性に復帰し現在も子孫が残る。
4男?とされている山県定昌は源八郎?とも呼ばれ、萩原豊前の子で山県昌景の養子になったようだ。武田滅亡後は上杉氏に出仕したのか?不明な点が多い。
5男・山県昌重は、山県三郎右衛門とも言い、大坂の陣では塙団右衛門の家老であった。1614年5月6日、浅野勢・上田宗固の兵に討ち取られる。山県昌景・江尻城主時代の子供とも言われている。
6男・山県太郎右衛門は野沢豊後の子で、山県昌景の養子になった。子孫は山県大弐と言う江戸中期の学者になっている。
7男・山県信継は三郎兵衛と言い徳川家に仕えた。山梨県川浦村に500石を知行し、川浦口留守番を命じられる。現在、ご子孫が三富・川浦温泉「山県館」と言う旅館を経営しており、武田家旧温会会長も努めている。


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この他、山県昌景の娘が数名(いずれも名前不明)いた事がわかっており、初めは山県善右衛門と名乗っていた三枝守友の娘婿に、もう1人は相木市兵衛が娶り山県昌景の娘婿となっている。また、横田尹松に山県昌景の娘が嫁いでいる。
このように山県昌景には養子や娘婿が多いことから、武田家臣から大変注目を浴びていた人物であったことが伺える。

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