山中鹿之助 (山中鹿助、山中幸盛)~尼子家再興に忠義を尽くした名将


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 山中鹿之助、山中幸盛、山中鹿助、山中鹿介幸盛(やまなかしかのすけゆきもり)は月山(島根県能義郡広瀬町)の麓・新宮谷にて、1545年8月15日生まれとされるが、真田幸村の家臣・相木森之介が父親だとする説など諸説ある。幼名は甚次郎(じんじろう)。

 父は4000貫白鹿城城主・山中満幸(山中久幸、山中三河守満幸、山中兵部大夫)、母は立原綱重の娘で、なみで、兄に山中幸高(山中久盛)がいる。

 父・山中満幸は、尼子晴久の家老で、智勇に優れた武将であり、山中鹿之助が生まれた1年後の1546年9月20日に27歳の若さで死去したと伝わるが、没年に関しては1544年8月?とする説もある。

 兄・山中幸高(山中久盛)は、 病弱なうえ武将に向いていなかったとされ、1560年に弟の甚次郎(山中鹿之助、山中幸盛)に家督を譲り、山中家に代々伝わる三日月の前立と鹿の角の脇立のある冑を譲り渡すと、出家して仏門に入り、月山富田城下の万松寺で僧となり、円念と名乗ったとされるが、病死したとも、山中鹿之助と共に尼子家再興戦に参加して討死したとの諸説ある。

 いずれにせよ、父・山中満幸(山中久幸)が早世した為、母・なみに育てられたが、生まれて数ヶ月で4~5歳の子供に見え、2~3歳頃には武勇と智略が優れ遊戯も普通の子供と異なり、幼少の頃より尼子晴氏に仕えた。
 8歳の時に病弱な兄をいじめる鎌次郎という乱暴者をねじ伏せるなど正義感があり武勇に優れた子供に育つと、10歳の頃から弓馬や軍法に励み、13歳のとき敵の首を捕って手柄を立てたと言うが、この頃の尼子氏は、軍事集団であった新宮党を謀反の疑いで討ち、毛利元就の居城・吉田郡山城への攻撃失敗などで、軍事力が低下していた。
 
 1560年12月、16歳の時、主君・尼子晴久が急死し、20歳の尼子義久が家督を継ぐと、毛利元就が石見に侵攻。
 尼子義久に従って山名氏の支城・伯耆尾高城(鳥取県米子市)の攻略に向かい、初陣を果たしたが、この時は因伯にその名が轟く豪傑・菊池音八を一騎討ちで討ち取ったと言う。
 山中鹿之助は次男であったため、尼子家重臣の亀井家の養子となっていたが、後に兄・山中幸高(山中甚太郎)に替わって、山中家の家督を継いだ。早く手柄を立てて出世し主家を支えたいと、三日月に「我に七難八苦を与えたまえ」と願ったと言う。

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 尼子義久は新宮党の静粛もあった事から、有力な一族(親族衆)がほとんどいない状態で、毛利元就と室町幕府の仲介で和睦を進め、石見に関しては尼子は関与しないとの条件を了承してしまい、本城常光、牛尾久清、多胡辰敬、温泉英永などの尼子家臣が不利な立場に立たされ、尼子勢力の崩壊に繋がった。

 大友宗麟と和議を結び、尼子攻略に全力を傾ける事になった毛利元就は、1562年6月、石見の尼子勢力を調略し、多胡辰敬らを自刃に追い込むと、石見を勢力下に入れ尼子氏を滅ぼすため一方的に和睦を破棄し、1562年7月3日、出雲に進軍。
 尼子義久は、難攻不落の名城・月山富田城に籠城し、尼子十旗の支城と共に毛利勢を迎え撃った。
 1563年8月13日、毛利元就が、尼子十旗の最重要拠点である白鹿城を攻撃すると、白鹿城を救援の為、尼子倫久を大将とした軍勢に山中鹿之助も加わったが、尼子勢は敗退。
 山中鹿之助は約200で殿を務め、追撃する吉川元春小早川隆景の両軍を7度にわたって撃退し、毛利勢の首7つを討ち取った。
 10月に白鹿城が陥落し、月山富田城はついに完全包囲され、兵糧攻めされたが、月山富田城は何度が討って出ており1564年、杉原盛重率いる尼子勢に山中鹿之助も加わり、毛利勢と美保関で戦った他、1565年4月17日には、山中鹿之助が塩谷口で吉川元春らと戦い、高野監物を一騎討ちで討ち取った他、9月にも品川将員を一騎討ちで討ち取っている。
 毛利家では毛利隆元が食中毒?で急死すると言う不運に見舞われたが、無理な攻城はせず、尼子内部の崩壊を誘う調略を行うと、尼子氏累代の重臣亀井・河本・佐世・湯・牛尾氏が毛利軍に降伏。
 疑心暗鬼になった尼子義久は、重臣・宇山久兼を自らの手で殺害するなどして信頼を失い、兵糧が欠乏しているところに、毛利勢は食事を用意して城内の兵の降伏を誘ったので、投降者が続出し、城の兵はついに300名にまで減ったと言う。
 尼子勢は籠城を継続できなくなり、1566年11月に降伏。
 毛利元就は、尼子義久らの命は助け、安芸円明寺に幽閉し、尼子氏は滅亡。山中鹿之助は随従を願い出たが許されず、出雲大社で主君と別れた。

 山中鹿之助は、1567年、月山富田城で受けた傷の治療の為、有馬温泉で湯治などした後、1568年、尼子家の再興を図る山中幸盛(24歳)・立原久綱らは、京で東福寺の僧になっていた尼子誠久の五男・尼子勝久(新宮党の遺児)を還俗させて擁立。

 1569年、立原久綱・横道兵庫助・牛尾弾正忠・三刀屋蔵人・遠藤甚九郎ら530名の尼子遺臣団は、山名祐豊の家老・垣屋播磨守を頼って但馬を経由して、海賊・奈佐日本之介の手を借り隠岐の島に渡った。
 この頃、山中鹿之助は正室・千明(尼子家筆頭家老・亀井秀綱の長女、高松院)を迎えたようで、1571年には長男とされる山中幸元(鴻池直文)が誕生している。
 隠岐では豪族・隠岐為清の協力を得て、1569年に海浜の出雲忠山を占領し尼子再興を訴えた。すると出雲の旧臣などが加わり3000の軍勢となり、月山富田城を攻撃したが、天野隆重が守る堅城・月山富田城は落とせなかった。
 新山城を攻略し本拠とすると、原手合戦で毛利勢に勝利するなどしたが、家臣の統制維持が乱れ、1570年2月、布部山の戦いで毛利勢・吉川元春と戦って大敗北。
 1571年8月には最後の拠点であった新山城も落城し、尼子勝久は京都へ逃れ、山中鹿之助は吉川元春に捕らえられたが、宍戸隆家らの助命があり、米子の尾高城に幽閉された。

 しかし、山中鹿之助は、赤痢にかかったと一晩中に何度も厠に行き、監視を油断させて、便所の穴から脱走して因幡に逃亡。
 
 尼子遺臣団は尼子氏再興の志を捨てずに、山名豊国の軍勢に加わり、山名氏に謀叛した武田高信と闘い因幡国を転戦。甑山城での戦いで勝利し、鳥取城に5000で籠城した武田高信を、10000の軍勢で攻略した。この時、山中鹿之助は山名豊国の家臣に加わっていたとされるが、このまま山名家にいても尼子氏再興は叶わないと判断し、1572年の冬、山名家を辞し京都に上洛。
 京で叔父の立原久綱らと合流した山本鹿之助は、織田信長を頼る事にし、明智光秀の仲介で1573年4月に織田信長に謁見すると、中国攻めの先鋒として働くことを約束。
 1573年12月には、再び因幡へ攻め入り、3000の兵で10日の間に15城を攻略するなど、積極的に勢力を拡大し、1574年頃には因幡国の諸城を攻略し、織田勢・浦上宗景の助力もあって若桜鬼ヶ城・私都城を占領。東因幡一円を支配し、再び一時的に尼子氏を再興することに成功した。
 しかし、1575年3月、但馬の山名祐豊が、毛利輝元と「芸但和睦」を結び、浦上宗景が、宇喜多直家との天神山城の戦いに敗れ、居城・天神山城を奪われるなどして状況が悪化。
 山中鹿之助ら尼子勢は因幡で孤立し、1575年10月には吉川元春らが亀井茲矩の籠もる私都城を攻略。
 尼子遺臣の横道兄弟・森脇久仍・牛尾大炊助らが毛利氏に下り、ついに因幡の尼子再興軍の拠点は若桜鬼ヶ城のみとなったが、一時は毛利軍の撃退になんとか成功した。
 しかし、織田勢の支援を得ることができなくなり、1576年5月、山中鹿之助ら尼子再興軍は若桜鬼ヶ城から退去して因幡から撤退。
 山中鹿之助らは織田信長を頼って京都へ向い、以後は織田軍のもとで尼子氏再興を目指すことになった。

 1576年から、山中鹿之助ら尼子再興軍は、当時丹波に出兵していた明智光秀の軍勢に加わり、但馬の八木城攻撃や、丹波の籾井城攻撃に参加。
 1577年10月には、織田信忠に従い松永久秀が篭城する信貴山城も攻略。このとき山中鹿之助は、河内片岡城にて松永久秀の家臣・河合将監を討ち取っている。

 織田信長の命令を受けて、羽柴秀吉が播磨国へ進軍を開始すると、尼子再興軍も竹中半兵衛黒田官兵衛らと共にその攻撃に参加する事になり、毛利方の拠点で上月景貞が守っていた上月城の攻略に参戦。
 羽柴秀吉は、尼子勝久・山中鹿之助ら尼子主従に上月城を与え、尼子勢は備前・美作・播磨の国境の守備と美作国方面の調略を開始した。

 しかし、1578年2月、三木城の別所長治が、織田信長に叛旗を翻すと、毛利軍は吉川元春・小早川隆景ら30000の軍勢で播磨に侵攻し、1578年4月に上月城を包囲。
 羽柴秀吉は、荒木村重らと上月城の救援に向かい、織田信忠を総大将として滝川一益佐久間信盛、明智光秀、丹羽長秀細川藤孝らも後詰したが、織田信長より別所長治が籠る三木城攻撃を優先するよう命じらた事や、高倉山合戦で毛利軍に敗北したこともあり、上月城救援を断念し、尼子勢は実質的に見放された。

 羽柴秀吉(豊臣秀吉)が見放したように見えるが、実際には豊臣秀吉の軍勢はこの時、毛利勢より少なく、羽柴秀吉は戦線を離れて、織田信長に会いに行き増援を願い出たが「三木城に専念すべし」と援軍を得られていない。
 また、尼子勢をなんとか救い出そうと、羽柴勢が毛利勢に攻撃するので、その隙に上月城からも討って出て脱出を試みよと、山中鹿之助に書状も送っている。
 しかし、それでは兵の損害が大きいと、山中鹿之助は断ったようだ。

 尼子勝久・山中鹿之助ら3000が籠る上月城は孤立して兵糧も底を突き、また城から脱走する兵も後を絶たなくなったため、1578年7月5日に毛利勢に降伏(上月城の戦い)。
 
 降伏に際し、尼子勝久の助命を再三にわたり吉川元春・小早川隆景に申し立てたが、尼子勝久・尼子氏久・尼子通久、そして勝久の嫡男である尼子豊若丸らが切腹。
 本来であれば山中鹿之助も切腹となるところ、備後国鞆の浦に陣取る毛利輝元の元へ護送されることになったが、その理由はよくわかっていない。
 しかし、1578年7月17日、その護送途中の備中国合(阿井)の渡(現在の岡山県高梁市)で、毛利家の河村新左衛門・福間彦右衛門らに謀殺された。

 山中鹿之助は34歳の生涯で66以上の首を挙げた猛将であり、最後まで尼子家再興を願った忠義者でもあった。

 長男とされる山中幸元(鴻池新六)は山中家の本家にあたる別所長治の家臣・黒田幸隆に預けられていたが、別所氏も滅亡し、父・山中鹿之助も亡くなった為、9歳で放浪の身ととなったようだ。その後、大伯父である山中信直をたよって伊丹に行き、武士を辞めて摂津国川辺郡鴻池村(現・兵庫県伊丹市)で酒造業を始めた。
 その後、日本で初めて清酒を本格開発して財をなし、のちに大坂に移住して、江戸時代における日本最大の財閥「鴻池財閥」の始祖となった。
 大阪では両替商の事業も開始したが、これが三和銀行の元となり、現在の、三菱UFJフィナンシャルの一員となっている。

相木森之介の子だとする説の検証はこちら
山中鹿之助の「娘」の墓がある広島・海蔵寺を訪ねて
大山祇神社(大三島)~山中鹿之助も太刀を奉納

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