吉田又助(吉田重成)~黒田長政に命じられ中津城で宇都宮鎮房に酒を・・

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 吉田長利(吉田六郎太夫)の次男・吉田又助(吉田重成)は、1571年に姫路で生まれた。
 本名は吉田重成で、後に吉田七左衛門と名乗り、晩年は吉田壱岐と名乗っているが、父・吉田長利も吉田壱岐と名乗っているので混同しないよう注意が必要だ。
 母の名は三木四郎兵衛入道善界の娘か?

 父・吉田長利(吉田六郎太夫)は、播磨出身の古参で、始め黒田職隆に仕え、その後、黒田官兵衛黒田長政に仕えた。吉田長利(吉田六郎太夫)は足が速かったので、単身で乗り込み、首を下げて帰ってくることも多く、播磨の豪族・別所家との「青山の戦い」などで数々の武功を揚げた。
 1623年に亡くなるまでに、負傷したのは1回だけなのに黒田家で第3位となる計50個の首を取ったと言い、黒田二十四騎に名を連ねる。

 兄・吉田与次は19歳までに9つの首を挙げる活躍を見せたが、別所長治との戦いの際に鉄砲で討たれて深手を負い討死した。

 吉田又助(吉田重成)は、1587年、豊臣秀吉による九州征伐の際にに、父と共に従軍し、日向で行われた耳川の戦いで初陣を果たた。
 この時、膝を切られて負傷しながらも、薩摩兵の1人を討ち取っている。


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 その後、黒田家が豊前6郡(京都、仲津、築城、上毛、下毛、宇佐)12万石となると、本領安堵の約束を受けていた宇都宮鎮房が蜂起。

 黒田長政が独断で攻撃し大敗するも、その後、宇都宮鎮房(城井鎮房)が、娘・お鶴(鶴姫)を人質に出し降伏した。

 しかし、降伏した宇都宮鎮房(城井鎮房)は、居城・城井谷城に籠もったままで、黒田家に対して正月の挨拶にも来なかったと言う。

 黒田官兵衛が肥後へ行き、中津城を留守にした間に、城井谷城主・宇都宮鎮房(城井鎮房)は挨拶を口実に、手勢200人を率いて黒田長政が留守を守る中津城を訪問した。
 この訪問は、黒田官兵衛の策略とも、黒田長政の謀略とも言われている。

 中津城の黒田長政は「本当に挨拶なら、日時を打ち合わせて、父上が居る時に来るはず。父上の留守に案内もなく押しかけてくるとは、ますます無礼である」と言い、・宇都宮鎮房(城井鎮房)を暗殺する作戦を練り、足を負傷していた吉田又助(吉田重成)に酌を命じ、野村太郎兵に城井鎮房の殺害を命じた。

 吉田又助(吉田重成)は「晩酌を仰せつかるのは誠に嬉しい限りですが、昨年、日向で左の膝口を切られ、命は助かったものの、陣中で止血も出来なかったため、体が弱っております。今は少々の歩行は出来ますが、すねにも力が入らず、手にも力が入りません。大事な仕事を辞退するのは残念ですが、体の達者な者に仰せつけください」と辞退を申し出た。
 しかし、黒田長政は「汝の力が未だに戻らないのは目の前の事である。今夜の酌に手足の強さは必要ない。ただ心を静かにして動かざる事をよしとする。吉田又助に酌を任せること、辞退には及ばない」と言い、吉田又助に酌を命じた。

 こうして、宇都宮鎮房(城井鎮房)に吉田又助(吉田重成)が酌をして、わざと酒をこぼして油断させたところを、野村太郎兵衛祐勝が斬り掛けたと言う。
 その後の掃討戦で、吉田又助は宇都宮鎮房(城井鎮房)の家臣2人を討ち取る活躍を見せている。

 吉田又助(吉田重成)の最初の妻は、後藤又兵衛の妹(または姉)とされる。

 第1次朝鮮出兵のとき、吉田長利(吉田六郎太夫)46歳と、吉田又助(吉田重成)22歳の親子は黒田長政に従って朝鮮半島へ渡航した。
 父・吉田長利(吉田六郎太夫)は足軽隊を率いて先発部隊として朝鮮に渡り、日本勢が無事に朝鮮半島に上陸できるように備えを固めて上陸を支援した。

 朝鮮には、日本にはないほど大きな平安川という大河があった為、黒田長政は諸将に平安川の川幅を見積もらせた。
 諸将の調査結果は7町(763m)から13町(1.4km)までとバラバラで、黒田長政は実際の広さが分からなかったと言う。

 そこで、黒田長政は、吉田長利(吉田六郎太夫)と吉田又助(吉田重成)の親子に「今後の為に記録しておかなければならない。なんとしても実際の川幅を知りたい」と命じた。

 翌朝、吉田又助(吉田重成)が平安川へ行くと、対岸に朝鮮兵3人がこちらの様子を偵察していた。
 そこで、吉田又助は、朝鮮人と背の高さが同じくらい大きい家臣・小柳権七を呼び寄せ、小柳権七に日本勢が占領している土手を走らせて、小柳権七が対岸に居る朝鮮人と同じ大きさに見える地点で合図を送って止まらせた。
 こうして、吉田又助(吉田重成)は、小柳権七が走った距離を測り、平安川の川幅を8町5段(84m)と計算して黒田長政に報告したと言う。

 黒田長政はこれに喜び、以後、吉田親子に川の広さの見積もりを命じるようになった。このため、吉田親子は「川の見積もり上手」と呼ばれるようになった。

 吉田又助(吉田重成)は嫡子・吉田右馬太夫と共に「島原の乱」の鎮圧に従軍した。

 1638年2月21日夜、天草四郎らが籠る原城への夜襲が行われ、吉田又助(吉田重成)が敵を討ち取った。
 その際、敵2人を討ち取った嫡子・吉田右馬太夫が誇らしげに首2個を持ち、駆け寄ってきた為、吉田又助(吉田重成)が見ようした際に、敵の鉄砲に右の腰を打たれて負傷した。

 島原の乱は鎮圧され、吉田又助(吉田重成)は筑前に戻ったが、鉄砲で撃たれた傷が深く、討たれた日から30日後の1638年3月21日に死去。享年68歳だった。

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