今川義元は領国経営に優れた優秀な戦国大名だった

今川義元

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今川義元(いまがわ-よしもと)は、1519年、駿河・遠江守護の今川氏親の5男として生まれた。幼名は芳菊丸/龍王丸。
母は、父の正室である寿桂尼(権大納言・中御門宣胤の娘)。

1523年に京都の建仁寺から太原雪斎が招かれて龍王丸(今川義元)は養育を受けたが、5男であり、同じ正室が産んだ兄・今川氏輝が家督を継ぐ予定であった為、芳菊丸/龍王丸(今川義元)は、1525年、6歳で仏門に出され、臨済宗の善徳寺(駿河富士郡瀬古)に預けられた。
善徳寺では、栴岳承芳(せんがくしょうほう、ばいがくしょうほうとも?)と称している。
太原雪斎と共に京都にも上り、五山にて学ぶ、学識を深め、何度も京都と駿府とを往復したと言い、京との人脈も増えた。

1526年に父が亡くなったあと、家督を継いでいた今川氏輝は、三河を放棄して甲斐侵攻を計画する。
その命を受けて、龍王丸(今川義元)と太原雪斎は京都より駿河に戻ったが、その直後、1536年3月17日に兄・今川氏輝が急死した。享年24。
公卿・冷泉為和や、武田家臣・駒井政武の日記によると、次の後継者と目された兄・今川彦五郎まも、同じ日に死亡。
2人の突然死には諸説があり不明だが、毒殺説・自殺説などが疑われている。

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いずれにせよ、このような経緯で今川義元に継承権がまわってきた。
寿桂尼や太原雪斎、今川家重臣は栴岳承芳(今川義元)を還俗させ、京の将軍・足利義晴から偏諱を賜り、今川義元と改名させた。
さらに甲斐の武田信虎と和睦を成立させて、今川義元に家督を継がせようとした。

しかし、今川家の有力被官で、遠江、甲斐方面の外交や軍事を司っていた福島越前守(福島正成と同一人物?)が反対。
福島氏は今川氏親の側室・福嶋助春の娘が外戚にあたり、その子の玄広恵探を擁立して対抗した。(花倉の乱)

福島越前守らは今川館に攻め寄せる攻勢をみせたが、太原雪斎・岡部親綱らが奮戦。
加えて今川義元が、相模の北条氏綱からの支援を得ることに成功し、花倉城が陥落すると玄広恵探は自害した。享年20。

こうして、今川義元は、今川家第11代当主となり、寄親・寄子制度を設けての合理的な軍事改革を行い、領国経営や外交面でも才覚を発揮し、忠義を示した家臣を重用して支配体制を整えた。

1537年2月10日、甲斐国の守護・武田信虎の娘(定恵院)を正室に迎えて、武田家と同盟した(甲駿同盟)。今川義元も定恵院も共に18歳だった。
しかし、駿相同盟の北条氏綱の怒りを買い、1537年2月下旬、北条勢は駿河国富士郡吉原に侵攻(第一次河東一乱)し、北条氏綱は富士川以東の地域(河東)を占拠した。
北条氏綱は、遠江の堀越氏(北條氏綱の娘が堀越貞基の正室)、井伊氏などと手を結び、今川義元を挟み撃ちした。

1538年、嫡男・今川氏真が誕生。

尾張の織田信秀が1540年に三河国に侵攻を開始。
今川義元は三河の諸将と連合して1542年に一大決戦を臨むが、織田信秀の猛攻の前に敗れたとされている(第一次小豆坂の戦い)。

1541年、相模・北条氏綱が死去すると、北条氏康が家督を継いだが、同じく1541年6月、武田信虎は娘夫婦と会うために駿河を訪問した際、武田晴信によって帰国を拒絶され、武田信虎は今川家に預けられた。
しかし、家督を相続した武田晴信(武田信玄)とは同盟関係を続け、1545年5月の高遠合戦では要請に答えて武田勢に援軍を派遣している。

1545年、今川義元は、北条氏康に対抗する為、山内・上杉憲政と同盟を結び、挟み撃ちした(第二次河東一乱)。
1545年8月22日、武田晴信の援軍を得て河東方面に侵攻すると、同じく関東では上杉憲政・上杉朝定が古河公方・足利晴氏らと連合した8万の大軍で河越城を包囲。
窮地に立たされた北條氏康は、武田晴信に仲介を頼んで、河東を今川家に返還するという条件で今川義元と和睦した。
これにより、北条氏康は関東方面に戦力を集中させることができ、河越城の戦いにおいて大勝利を収めている。

西三河の松平広忠が今川家に帰順すると、嫡男・竹千代(後の徳川家康)を人質に迎え入れる約束を交わし、尾張・織田家の妨害を受けつつも、着実に三河勢の従属化に努めていった。
しかし、竹千代(徳川家康)護送を務めたた三河・田原城主・戸田康光が裏切り、竹千代を敵方の織田氏に送り届けてるという事件が起こった。
これは前年に、今川義元が戸田一族の戸田宣成、戸田吉光を滅ぼしたためで、戸田宗家の当主であった戸田康光が反乱を起こしたもので、田原城に籠る戸田宗家を討ち取り、田原城に朝比奈氏を入れている。
 
1548年、織田信秀が三河に侵攻したが、今川義元の軍師・太原雪斎と譜代の重臣・朝比奈泰能らが織田勢を撃退し、織田家の勢力を事実上三河から駆逐した(第2次小豆坂の戦い)。
これにより、所領も駿河・遠江・三河の3ヶ国 69万石となった。

1549年、岡崎城主・松平広忠が死去すると、今川義元は領主不在の岡崎城を占領して、事実上、松平家の所領を領有し支配した。

岡崎城の天守閣

また、織田方の三河安祥城)を攻略し、織田信秀の庶長子にあたる安城主・織田信広を捕らえた。
織田信広と、織田家に捕えられていた竹千代(徳川家康)の人質交換を行って、竹千代を奪還すると、松平家の家臣らを味方につけ、尾張進出への足掛かりを着々と進めて行った。

1550年6月2日、正室・定恵院が死去。享年32。

1551年、織田信秀が死去すると尾張への攻勢を一段と加速させた。

1552年11月、甲駿同盟を維持するために、娘・嶺松院が、武田晴信(武田信玄)の嫡男・武田義信(15歳)の正室として嫁いだ。

1553年、亡父の定めた今川仮名目録に追加法(仮名目録追加21条)を加え、室町幕府が定めた守護使不入地の廃止を宣言。守護大名としての今川家と室町幕府との古い関係を完全に断ち切った。
1554年、嫡子・今川氏真に北条氏康の娘・早川殿を迎えて、武田信玄・北条氏康と互いに婚姻関係を結び甲相駿三国同盟を結成。これにより後顧の憂いを断った。

1555年、武田晴信と長尾景虎(上杉謙信)との第2次川中島の戦いでは、両者の仲介を行い和睦を成立させている。
また、駿河・遠江・三河で検地を実施。

1558年、松平元康(徳川家康)に、三河の寺部城主・鈴木重教を攻撃させているが、この頃、嫡男・今川氏真に家督を譲って、今川義元は隠居したものと考えられる。

しかし、今川義元は西上を計画していたようで、1560年5月12日、今川義元が自ら大軍を率いて駿府を発ち、尾張を目指して東海道を西進した。

桶狭間古戦場公園の銅像

1560年5月19日、尾張に侵攻した今川義元が桶狭間の戦い織田信長に討たれる。
桶狭間山で休息中に織田信長の攻撃を受け、松井宗信らと共に奮戦するも、織田家家臣・毛利良勝に愛刀・左文字の太刀ともども首級を奪われた。享年42。

今川義元の主な家臣

太原雪斎、朝比奈泰能、朝比奈泰朝、朝比奈元長、朝比奈元智、安部元真、天野景貫飯尾連竜、庵原元政(庵原之政)、鵜殿長持、鵜殿長照、鵜殿氏長、岡部元信岡部正綱、久能宗能、菅沼定盈、関口氏広、井伊直盛、松平元康(徳川家康)

今川義元にまつわる女性

玄広恵探の母(福島氏の娘)は、今川氏輝の死後、今川義元と家督争いとなった花倉の乱で敗れ、子の玄広恵探と共に自害した。
今川義元の正室・武田信虎の娘(定恵院)は32歳で病死した。
今川義元の継室・奥殿は「言継卿記」によると、今川義元と住んではおらず、寿桂尼の館に居住したようだ。
今川義元の側室・井伊直平の娘は、のちに関口氏広に再嫁した。今川義元の死後、娘である築山殿の夫・徳川家康が、今川家からの独立したため、責任を取る形で夫・関口氏広と共に自害した。
今川義元の側室・四宮氏の娘は、今川義元の死後、三浦義鎮に再嫁した。今川家が滅亡すると、高天神城の小笠原氏を頼って、実家である四宮屋敷に戻ったが、受け入れられず夫らと共に自害した。
今川義元の側室(名前不詳)は、婦人病を罹ったようで、暇を出されると静養地で自害した。
葛山綱治(葛山播磨守綱治)の妻・跡部氏の娘は、美しさゆえに、今川義元が手をつけようとしたため、夫と共に自害した。

実際の今川義元 もご覧頂けますと幸いです。
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