湯浅五助と藤堂高刑~関ヶ原の戦いで大谷吉継から介錯を任された忠臣とその思いを守った敵将


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湯浅五助(ゆあさ-ごすけ)は、大谷吉継の家臣で正式な名前は湯浅隆貞(たかさだ)とされます。

湯浅五助の出自や戦歴などは不明であり、大谷吉継の側近と言う事しか分かりませんが、1600年の関ヶ原の戦いにて湯浅五助の名が世の中に知られるようになりました。

関ヶ原の戦いで、小早川秀秋が裏切ると、大谷吉継勢は側面からも攻撃を受けて、壊滅的被害となります。
その時、石田三成ら西軍の敗戦を悟った大谷吉継は切腹する判断し、湯浅五助に介錯を頼みました。

ハンセン病を患っていた大谷吉継は、湯浅五助に「病み崩れた醜い顔を敵に晒すな」と言い、首を敵に渡すなと命じます。

湯浅五助は主君の命を受けて、大谷吉継の首を関ヶ原町と旧春日村の境付近に埋めました。
その埋め終わった時に、東軍の藤堂高虎の一族である藤堂高刑に捕捉されてしまいました。

藤堂高刑

藤堂高刑(とうどう-たかのり)は、元々、鈴木仁右衛門と言う1577年生まれの武将ですので、関ヶ原の時は24歳前後であったと推測できます。
父は鈴木弥右衛門で、母が藤堂虎高の娘(藤堂高虎の姉)でした。

1591年に増田長盛を烏帽子親として元服。
正室は織田信清の娘(藤堂高虎の養女)です。
このように藤堂高虎に仕え、1592年の朝鮮出兵にて初陣を果たすと、敵の船を奪うなどの戦功をあげています。
そして、藤堂姓を名乗る事を許され、鈴木高刑から藤堂高刑に改名したのです。

関ヶ原の戦いでは、上記のとおり大谷吉継の家臣・湯浅五助を発見しました。

何か埋めたように見える地面から藤堂高刑に悟られたのでしょう。
湯浅五助は「私の首を差し上げる代わりに、主君の首をここに埋めたことを秘して欲しい」と藤堂高刑に頼みます。
藤堂高刑は、それを受け入れて湯浅五助の首を討ち取りました。

大谷吉継の側近である湯浅五助の首を、甥の藤堂高刑が討ち取ったことを喜んだ藤堂高虎は、さっそく、徳川家康の本陣に報告します。

徳川家康は藤堂高刑の功績を褒めますが、大谷吉継の首が埋められた場所も分かっているはずと問い詰めました。
しかし、徳川家康の命令よりも、藤堂高刑は湯浅五助の主君への思いを重んじ、討ち取った場所を明らかにしませんでした。
詰問まで受けても「知らない事はないが、五助と他弁をしないと誓って首を取ったので、このことはどなた様にも言えませぬ。どうぞ、私を御処分くだされ」と、頑として場所を言わなかったのです。
もし、大谷吉継の首が埋められている場所を言えば、更なる大手柄でもありましたが、そんな武士の情けを貫く藤堂高刑に徳川家康は感心し、槍と刀を与えたと平尾氏箚記に記されています。

関ヶ原町にある大谷吉継の墓は、関ヶ原のあと藤堂家によって建立されました。
その大谷吉継の墓の隣には湯浅五助の墓があります。
湯浅家のご子孫により1916年(大正4年)に建立されたものです。

その後、藤堂高刑は1615年の大坂夏の陣にも参戦し、徳川勢の先鋒に加わって活躍します。

しかし、1615年5月6日、八尾・若江の戦いにて、長宗我部盛親の猛攻撃を浴びて藤堂高虎の部隊は壊滅的被害を受け、死傷者は約600名にも及びました。
この時に討死した一族の藤堂良勝、藤堂氏勝、桑名吉成ら重臣の中に、藤堂高刑の名も見られます。
藤堂高刑は享年39でした。

藤堂高刑の墓は大阪府八尾市本町の常光寺にあると言います。
藤堂高刑の子孫は、伊勢津藩の藤堂仁右衛門家として代々、城代家老を務めたました。

自らの死をもって主君の首を守った湯浅五助、そして武将としてその約束を守の抜いた藤堂高刑、その若者の心意気を最後には褒めて終わらすと言う器量の徳川家康と言い、まさに戦国武将として単に敵同士で戦うだけではない「武将としての気品」を感じずにはいられません。
「自分のことよりも相手を思いやる気持ち」・・。
忘れがちになってしまう現代の私たちも、大切に心掛けて行きたいものです。

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