明智光秀が愛し、また愛された城、福知山城

桜と福知山城

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2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」主人公、明智光秀公。
光秀公を語る際に「福知山城」というワードを耳にされる方も多いかと思います。
光秀公と福知山城には、どのような縁があるのでしょうか?
此度は明智光秀公と福知山城について、綴らせていただきたく思います。

福知山城

明智光秀公は織田信長公の命をうけ、1575年から1579年にかけて丹波攻めを行っております。
かなり時間がかかっているように思えすが、この時の光秀公は丹波攻めだけに取りかかっていたのではありませんでした。


1576年には天王寺の戦い、1577年には紀州攻めと信貴山城の戦い。
1578年には神吉城攻略戦と、有岡城の戦いなど…光秀公は休む暇もなく戦場を往来し、丹波攻めに集中出来る状況ではありませんでした。
いわば明智軍は必要に応じて駆り出される「遊撃軍団」だったと思われます。

明智光秀

そしてその丹波攻めの際に光秀公を大変苦しませた武将に、丹波の赤鬼と呼ばれる赤井直正公(通称、悪右衛門)。そして波多野秀治公などがおりました。

赤井直正

光秀公は丹波へ侵攻した際、金山城を築いております。
この城は、波多野秀治公の居城である八上城と、赤井直正公の居城である黒井城の連携を断つため築かれたと云われております。

波多野秀治公は当初は明智光秀公の軍勢に加わり、丹波国で織田に対抗する豪族の討伐を担当しておりました。ですが裏側では綿密に丹波国の豪族達へ協力の意思を通達しており、天正4年(1576年)1月、突如として叛旗を翻します。
赤井・波多野連合軍は「赤井の呼び込み軍法」と呼ばれる戦術で一度は明智軍を見事撃退したのでした。

波多野秀治

ですが、天正6年(1578年)3月9日、赤井直正公が病死してしまいます。
天正7年(1579年)6月1日には、波多野秀治公の居城である八上城が落城。次いで8月9日には、赤井直正公の居城であった黒井城も落城いたします。

勢いに乗った明智軍は同年8月、塩見家が籠る横山城を攻めます。塩見信房公と弟の信勝公は果敢に防戦しましたが、ついに自刃。
これを期に国人衆は皆、明智光秀公に降伏し丹波国平定が成りました。


横山城を攻略した光秀公は、中世に造られた横山城に近世的な城郭を築き、城名もこの時、明智の「智」を用いて「福智山城」と改めたと云われております。
こうして丹波を平定した光秀公は、福智(知)山の城下の基礎を作ります。
そして福智(知)山城の城代には、重臣であり娘婿の明智秀満公を置きました。

明智秀満

天守の一部は、再建時の発掘調査の成果や石垣の特徴から、光秀公の時代に造られたことが確認されているのですが、天守台から本丸にかけて残る石垣には、多くの五輪塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)等の転用がみられます。

転用石 石垣

丹波平定後、光秀公は福智(知)山城の縄張りを行い、治政に反抗的な近隣社寺を打ち壊し、石塔類を天守台の石垣に利用したと伝えられております。ただ一方ではこれらの石塔は、城のお守りとされていたのではとも云われております。

転用石 説明

天正10年(1582年)6月2日、戦国最大のミステリー、本能寺の変が起こります。

本能寺の変

明智光秀公は織田信長公を討ち、明智秀満公も武功を立てますが、その後、中国地方より急激な速さで戻ってきた(中国大返し)羽柴秀吉公との山崎の戦いで敗れ、近江坂本城へと退去します。

明智秀満

光秀公も坂本城へ退去し再起を図ろうとしましたが、坂本への撤退中、小栗栖の竹藪にて討たれてしまいます。

小栗栖 明智薮

一方、福智(知)山城では秀満公の父が留守居役として在城しておりましたが、押し寄せてきた羽柴軍により落城。
秀満公の父は捕えられ、京都の粟田口で処刑されてしまいます。
明智光秀公没後は、羽柴秀長公の家臣が管理していたとも云われております。
その後の福知山城の城主は、杉原・田中・小野木・有馬・岡部・稲葉・松平・朽木だと伝わっております。


ただ、こうして福知山城を築いた明智光秀公ですが、福知山の治世はわずか3年たらずでありました。
ですが光秀公はこの福知山において、様々な善政を行います。
福知山を流れる由良川が土師川と合流する地点はたびたび氾濫を起こし、災害をもたらしていました。
そこで光秀公は福智(知)山城の城下町建設に伴い、河川の氾濫を防ぐために由良川の流れを大きく北に付け替えるという大規模な治水工事を施しました。その際に築かれた堤防が、明智藪。

福知山城天守から見た明智薮

この功績により、光秀公は民衆に慕われる事となります。また、丹波の地に対して地子銭(土地税・住宅税などの税金)を永代免除するという政策を敷き、商家を育てたとも伝えられております。

光秀公が福知山を治地した期間は短いものでした。ですが光秀公は強く人々の記憶に刻まれ、城下町の鎮守である御霊神社にて神として祀られております。

御霊神社

「明智光秀丹波を広め、広め丹波の福知山」と福知山音頭に今も謡われるなど、明智光秀公は今もなお広く永く市民に愛され親しまれております。

御霊神社石碑

民が愛した明智光秀公、そしてその明智光秀公が愛したであろう福智(知)山城は、昭和61年に市民の熱い想いで天守閣が再建されます。
そして2017年には日本城郭協会が認定する、続日本100名城(158番)に選定されました。

細川ガラシャと福知山城

そして、明智光秀公と福知山城を愛する皆様のお気持ちから生まれたお祭り「第32回 福知山お城まつり」が今年も開催されます!

福知山お城まつり

福知山お城まつり

【日程】2019年4月14日(日)

【時間】10時~17時
【光秀行列】13時~

【ステージPR】13:30~14:00(御霊公園)

毎年参加させていただいておりますが、乙訓戦国つつじも今年も参陣させて頂きます。
今年はステージにてPRもさせて頂きます!


明智光秀公が愛し、また愛された町、福知山。
福知山お城まつりへ是非足をお運び下さり、明智光秀公の息吹を感じて頂きたいです。

明智光秀と福知山城

(寄稿)在原 叶

在原 叶のシリーズはこちら
明智光秀公顕正会 30周年記念フォーラム参加レポート
明智光秀とは?数奇なその生涯~本能寺の変と最後の地

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在原 叶乙訓戦国つつじ副代表・NHK大河ドラマ誘致キャラバン隊「細川ガラシャ」役・紅桜剣舞会関西支部・春うらら組・役者・歌手・詩吟・MC・モデル・殺陣演者・ライター・ナレーター等

投稿者プロフィール

タレント、リポーターを経て、現在は甲冑劇やおもてなし活動を通し、歴史の観点から地域を盛り上げる活動を行う団体「乙訓戦国つつじ」の副代表として活動。
甲冑劇や幕末劇に出演し、NHK大河ドラマ誘致キャラバン隊の細川ガラシャ役、本能寺おもてなし隊の濃姫役、新選組おもてなし隊の沖田総司と市村鉄之助役や、ライターだけでなく、役者、イベントMC、歌手、吟者、モデル、ナレーターとしても活動中。
その他、殺陣団体「紅桜剣舞会関西支部」では、殺陣演者としても活動中。
兵庫県立明石城では春うらら組としても公演を行い、詩吟「摂楠流」門下でもあります。

HP→ https://www.facebook.com/kamokamo04

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