安芸国虎と安芸城~土居廓中武家屋敷と安芸氏の菩提寺である浄貞寺も

安芸城

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安芸国虎(あき-くにとら)は、土佐安芸郡の領主・安芸元泰の子として1530年に生まれました。
母は不詳ですが土与松女とする説もあります。
また、安芸国虎の生年に関しても1541年など諸説あります。

この安芸国虎と居城であった安芸城(あきじょう)中心にご紹介してみたいと存じます。

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安芸氏の祖先は飛鳥時代の蘇我馬子の系統とされますが、土佐は古来より罪人などが流される地と言う事で、この説が正しい場合には、恐らくは蘇我赤兄が流刑になって土佐に赴いたものと推測されます。
平家物語に出て来る安芸太郎・安芸次郎もいます。

安芸国虎の父・安芸元泰は1544年に死去したようで、兄・安芸泰親も早世していたため、母・土与松、一門の安芸元盛が政務を担った模様です。
※下記の右が安芸元泰の墓、左が安芸泰親の墓で、浄貞寺にある。

安芸元泰の墓と安芸泰親の墓

1557年頃に安芸国虎は当主となったようで、室町幕府管領・細川高国より「国」の一字を賜り、国虎と名乗るようになり、戦国初期には土佐七雄(とさしちゆう)のひとりと称されました。
正室は中村御所の一条房基の娘・峰子です。
1557年に嫡男・千寿丸(安芸弘恒)が誕生しています。
下記は安芸城の全景です。

安芸城の全景

安芸国虎は安芸郡西部を領していた和食氏を滅ぼし、安芸郡5000貫を掌中に収め、更には香美郡南部の香宗我部親秀を攻めて圧倒しました。
そのため、香宗我部親秀は安芸氏の脅威から家を守るため、後継者であった弟・香宗我部秀通を暗殺までして、長宗我部国親の3男・親泰(16歳)を養子として香宗我部親泰を送り、香宗我部家を長曽我部家の傘下に取り込みました。
これにより、安芸氏と長曽我部氏(3000貫)は国境を接するようになり、香美郡夜須の領有権を巡って、長宗我部元親の家臣・吉田重俊と争うこととなります。

1563年には、土佐七雄のひとりである本山城主・本山茂辰を長宗我部元親が攻めます。
下記は本山城です。

土佐・本山城

その隙に、義兄・一条兼定から3000の援軍を得て、合計5000にて安芸国虎は留守の岡豊城(下記)を攻めました。

岡豊城

しかし、福留親政ら「留の荒切り」と言う活躍を受けて敗戦しています。

その後も、安芸国虎や長宗我部元親は抗争をしようとしたため、一条兼定(1万6000貫)が仲介して永禄7年(1564年)に和睦しました。
長宗我部元親は父・長宗我部国親が一条氏に助けられたことがあったので、あまり一条氏に逆らうことは出来なかったのです。
さて、ここからは土佐・安芸城の写真も交えて参ります。

土佐・安芸城

1569年4月初旬、長宗我部元親は岡豊城に安芸国虎を招待して、友好を深めようとしますが、安芸国虎は降伏に等しい行為だとして使者を追い返してしまいます。

重臣・黒岩越前らが反対するなか、安芸国虎は一条兼定と、再び長曽我部家を攻略しようと企んだため、1569年7月、長曽我部元親は一領具足ら7000を率いて安芸に侵攻し和食(わじき)に陣を張ります。

土佐湾

安芸国虎は5000にて、安芸城、新荘城、穴内城などの防備を固めました。

土佐・安芸城からの展望

黒岩越前は500にて金岡城に籠もりますが、長宗我部親吉と比江山親興の2000に攻められ、三日三晩の戦ったあと、金岡城が落ち、八流の砦へ籠ったと言います。
そして「八流の戦い」(やながれのたたかい)となります。
その後、漢字が変わっていますが、下記の矢流古戦場跡がその激戦地となった場所です。

矢流古戦場跡

海沿いを進んだ福留親政ら5000と、黒岩越前ら2000が激突し、合戦となりましたが、長曽我部勢の吉田孝俊が近くの漁船を集めて、海上から貝鐘を鳴らし、時の声を挙げたので、安芸勢は背後を突かれると動揺し、大敗北を喫しました。
一条家からの援軍も来ず、小谷四郎右衛門などの裏切りも発生した安芸国虎は、安芸城で籠城します。(安芸城の戦い)

安芸城

しかし、食糧も尽き、横山民部が井戸に毒を入れて、籠城も困難となります。
下記が書道美術館入口前に残る毒井戸跡です。

安芸城・毒井戸跡

万策尽きた安芸国虎は、長宗我部元親に領民・家臣らの助命を願い出て降伏し、8月11日に自害して果てました。

安芸城

この時、妻や娘の安野姫を助けてほしいと重臣の黒岩越前に託し、安芸国虎は家老の有沢重貞を連れて城から出て、菩提寺・浄貞寺にて自刃したとされています。

浄貞寺

有沢重貞(有沢石見守重貞)も、介錯のあと殉死しています。

有沢重貞の墓

黒岩越前守は武勇ある武将であったため、安芸国虎の正室や娘を佐竹義之に託して一条家に送り届けた後、長宗我部元親からの仕官の話を受けます。
しかし、断ると、8月18日、安芸国虎の墓前にて手を合わせ、あとを追って、浄貞寺にて殉死しました。

黒岩越前守の墓

介錯は横田三郎左衛門ですが、この武将は「介錯するものがいないと困るだろう」と察した、長宗我部元親がつけたともいわれています。

安芸国虎の墓

なお、黒岩越前守の子に黒岩種直(くろいわ-たねなお)と言う武将がいます。
黒岩種直は、長宗我部元親に仕えましたが、天正10年(1582年)8月28日、中富川の戦いにて十河存保と戦った際に討死しました。
子孫には、明治時代の文豪・黒岩涙香がいます。

下記は安芸城・本丸の土塁です。

安芸城・本丸の土塁

安芸国虎の嫡子・安芸千寿丸の逃亡先には諸説あり、一族の畑山元氏・畑山右京太夫と共に阿波矢野氏を頼って矢野備後守の養子になったとも、帰農したとも、一条兼定を頼って豊後に逃れたととも言われています。

安芸氏が滅亡したあとの安芸城主には、香宗我部親泰が入っています。

安芸城からの展望

安芸城への行き方・アクセスですが、安芸市歴史民俗資料館の東側道路沿いが駐車スペースになっています。

土佐・安芸城

関ケ原の戦いのあと、安芸城は山内一豊の重臣・五藤為重が1100石で入りました。
下記は安芸城の城内にある五藤神社で、その神社の手前左側から、安芸城の本丸へ登れる階段があります。

藤崎神社(安芸城内)

5分ほど登ると本丸ですので、そんなに句にはなりません。

安芸城の本丸

トレッキングポールも不要です。

土居廓中武家屋敷

山内一豊が高知城に入ると、重臣・五藤為重が1100石にて安喜郡を治め、安芸城(安喜城)を整備しました。
五藤為重の兄・五藤吉兵衛為浄は、賤ケ岳の戦いにて山内一豊が顔を矢に突かれた際に、救助したとされる山内家に古くから仕えた家来でした。

五藤吉兵衛為浄

元和元年(1615年)に一国一城令となると、安芸城(安喜城)は城ではなく「土居」と称して維持されたため、城郭は存在しました。

土佐・安芸城

土居廓中(どいかちゅう)としては、家臣の武家屋敷(土居廓中武家屋敷・野村家)など40棟が現存しています。

土居廓中武家屋敷

2012年5月に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。

野村家は、五藤家の与力・騎馬の家臣で、地元の財政、家臣の人事などの惣役(元締)をしていたとされます。

土居廓中武家屋敷・野村家

土居廓中武家屋敷・野村家は無料で見学が可能となっています。

土居廓中武家屋敷・野村家

場所が分かりにくいのまで、当方のオリジナルGoogleマップの「高知」をご確認いただけますと幸いです。

最後に、浄貞寺です。

浄貞寺

浄貞寺(じょうていじ)は、安芸城から南西に離れたところにあります。
安芸国虎の祖父・安芸備後守元親が創建しました。

境内に入って、左側の一段高いところに安芸氏の墓所があります。

安芸氏の墓所

下記は安芸国虎の墓です。
丁重にお参りさせて頂きました。

安芸国虎の墓

その安芸国虎の墓の両脇に、このページでもご紹介させて頂きました、有沢重貞(有沢石見守重貞)の墓と、黒岩越前守の墓もあります。
また、安芸国虎の近習の墓なるものもありましたので、恐らくは何名かともに殉死したのでしょう。

安芸国虎の近習の墓

下記は浄貞寺を建立した安芸元親の墓です。

安芸元親の墓

下記は、安芸国虎の正室・一条峰子の墓となります。

安芸国虎の正室の墓

一条房基の娘でしたので、墓も少し立派に見えます。

下記は、安芸国虎自害の際に、太刀を清めたとされる井戸です。

太刀洗いの井戸

浄貞寺へは県道29号からソレて入りますが、その県道は広い道ではないので、クルマの場合、走行にはご注意願います。
寺の手前に15台ほどの参拝用駐車場が完備されていますので、奥まで進んで大丈夫です。

さて、安芸城、土居廓中武家屋敷、浄貞寺、矢流古戦場跡などへのアクセスですが、今回の高知訪問をまとめて「オリジナルGoogleマップ」にしてあります。
駐車場の場所などは、そのGoogleマップをご参照賜りますと幸いです。

安芸には他にも「岩崎弥太郎の生家」もありますので、セットでどうぞ。

長宗我部元親~5分で分かる長曾我部元親と四国統一
長宗我部盛親~土佐再興に命を賭け大阪城に馳せ参じたが
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香宗我部親泰とは~香宗城跡と長宗我部氏との関係
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一領具足とは~浦戸城と吉良親貞の活躍、そして浦戸一揆
山内一豊とは~秀吉家臣として活躍し土佐・高知城主まで出世した戦国大名
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