尼子経久・尼子晴久・尼子義久~月山富田城と尼子盛衰記

月山富田城

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月山富田城(がっさんとだじょう)は標高197mの月山に築かれた複郭式山城で、日本100名城、国の史跡に指定されています。
約170年間、戦国大名・尼子氏の本拠となった難攻不落の月山城ですが、どんな雰囲気のところか?、実際に訪問してみましたので、尼子経久尼子晴久と共にレポートを記載したいと存じます。

まず、月山富田城の歴史ですが、さすが有名な山城だけあって、文献も比較的残っているようで結構、詳しくわかります。
最初は平景清(藤原景清)と言う、壇ノ浦の戦いで敗れた平家の武将が、与えられていたのが富田荘で、築城したと言う伝承があります。
鎌倉時代になると、源頼朝挙兵の際に、大庭景親が討伐軍を発すると報告した佐々木秀義と、渋谷重国の娘の間に生まれた佐々木義清が、承久の乱の功により、1221年、出雲・隠岐の守護として出雲源氏の祖として月山富田城に入っています。
南北朝時代となると山名氏、その後、京極氏と守護が代わりますが、尼子経久と言う戦国武将が出てきます。

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尼子経久(あまご-つねひさ)は、出雲守護代・尼子清定の嫡男として1458年に生まれました。
この「守護代」と言うのは、守護に任命された武将が、その地に赴任しない場合に、代理として派遣された武将(管理官)と言う事になります。
要するに尼子氏は、出雲守護を務める京極政経の代わりに、1479年、月山富田城に入った訳です。

月山富田城

もっとも、尼子氏の先祖は、出雲・隠岐・飛騨・北近江を領有する京極高秀の次男と言う事ですので、信頼もされた京極一族と言う事になり、出雲で争っていた山名氏をうまく抑えていたとも言えます。

月山富田城

尼子経久は次第に出雲の国人と関係を強固にして、室町幕府の言う事も聞かなくなり、京極氏の家臣・塩冶掃部介を滅ぼして、京極家の寺社領も自分のものにするなど独立心を強めていきます。
主家・京極政経が亡くなったあとは、その子・京極材宗が家督を継いだのですが、ほどなく行方不明となっており、北条早雲と並ぶ下剋上の典型として、実質的に尼子経久が統治するに至り、出雲大社の造営も行いました。

尼子経久の正室は吉川経基の娘・吉川夫人ですが、これは応仁の乱で尼子経久と共に戦った吉川経基が、文武両道である尼子経久の才能を見込んで長女を嫁がせたと言う事です。

月山富田城

そして、父に劣らず武勇に優れた長男・尼子政久の活躍もあり、出雲を統一しますが、1518年、その尼子政久は、磨石城の戦いで流れ矢にあたり討死しています。享年26。

月山富田城

しかし、1521年に、尼子経久は、山陰・山陽の11ヶ国を制圧することに成功して、尼子家は有力な戦国大名となるのです。
重臣・亀井秀綱が主導して安芸・毛利氏の家督相続にも介入しますが、2年後に、吉田郡山城では毛利元就が家督を継いで失敗し、尼子家に臣従していた毛利家はやがて離反して大内義興に接近します。

月山富田城

これにより、備後国や安芸国への支配力が弱まり、1530年には3男・塩冶興久が父である尼子経久に対して反乱を起こして「塩冶興久の乱」となりますが、大内家の陶興房らに支援を要請し、1534年に鎮圧しました。
そして、1537年に尼子経久は隠居すると、家督を亡き長男の子である尼子晴久に譲っています。

月山富田城

尼子晴久(あまご-はるひさ)はこのとき、24歳で、母は山名幸松の娘、正室は尼子経久の次男・尼子国久の娘となります。

月山富田城

尼子晴久は播磨の置塩城主・赤松晴政に大勝するなど更に勢力を伸ばしますが、将軍・足利義晴が尼子氏の播磨進出を警戒して大内義隆に攻撃要請したため、大内家との同盟は破たんします。
そして、播磨・三木城の別所就治を攻めるも失敗。
勢力を拡大していた毛利元就の吉田郡山城攻めも、厳島神社にて戦勝祈願をした陶隆房率いる大内軍の抵抗にあって敗走し、尼子氏を頼りにしていた安芸武田氏の佐東銀山城・武田信重は毛利元就に攻められて滅亡しました。

月山富田城

ちなみに、この武田信重の子が、のち毛利の外交僧として活躍する安国寺恵瓊だともされており、家臣に連れられて広島の安国寺に入って出家したとも言われています。
更に、1541年に尼子経久が死去、享年84。

月山富田城

その翌年には、大内義隆が毛利元就、小早川正平、益田藤兼らも従えて、45000もの大軍にて月山富田城を攻撃した、第1次・月山富田城の戦いとなります。
この時、なかなか落ちない月山富田城に対して大内勢から三刀屋久扶、三沢為清、本城常光、吉川興経らが寝返って、月山富田城に入るなどし、味方を信じられなくなった大内義隆が撤退開始したところを、尼子勢は追撃して小早川正平を討ち取るなど大内勢を敗走されました。
なお、毛利元就と毛利隆元も、自刃を覚悟したと言われ、家臣・渡辺通の身代わりでなんとか徹底に成功したと言われています。

月山富田城

以後、尼子晴久は奪われていた石見銀山を再び奪回するなど、勢力回復に努めます。
また、1551年には、陶晴賢の反乱により大内義隆が討たれ、翌年に山陰山陽8ヶ国(出雲・隠岐・伯耆・因幡・美作・備前・備中・備後)の守護及び幕府相伴衆に任ぜられた尼子晴久は、中国地方を支配する大義名分も手に入れています。

月山富田城

1554年には、離反を狙っていた一族の尼子国久と尼子誠久を謀殺(新宮党の変)し、尼子氏の権力基盤は強化され、出雲一国は尼子晴久の直轄地となりましたが、戦力的には低下を招いています。

月山富田城の三の丸

1555年、厳島の戦いで、陶晴賢が毛利元就に敗れて自刃し、1557年には追い詰められた大内義長も自害して、大内領の大半が毛利家の支配となります。
石見銀山を巡って毛利家と勢力争いする中、1561年に尼子晴久は死去しました。享年47。

月山富田城

家督は、嫡男の尼子義久が継ぎますが、毛利家との抗争のさなかであったため、尼子晴久の死は伏せられ、月山富田城の中で密葬されたと言います。
月山富田城ですが、下記の階段を登ると本丸かと思いきや、隣の二の丸でした。

月山富田城

あとを継いだ尼子義久(あまご-よしひさ)は、このとき22歳で、正室は京極氏の娘とあります。

月山富田城の二の丸

尼子晴久が亡くなったとの情報が伝わると、毛利元就は毛利隆元・吉川元春小早川隆景の3軍を侵攻させます。
1562年に、尼子義久は毛利家と「雲芸和議」を結んで和議としますが、石見銀山の毛利家のものとなり、尼子家に従っていた出雲西部・南部国人衆の多くは毛利へと離反しました。

下記は二の丸からみた本丸で堀切になっています。

月山富田城の本丸

1563年には、毛利隆元が佐々部にて急逝しますが、1564年、月山富田城は再び毛利勢に包囲されます。
この時は、毛利水軍により海上も封鎖され、補給路も絶たれました。

月山富田城の本丸

そして、1566年4月17日、毛利勢は月山富田城への総攻撃を開始します。(第2次・月山富田城の戦い)
下記は本丸からみた二の丸です。

月山富田城の二の丸

月山富田城には本丸に続く道が3箇所あります。
そのうち、正面の御子守口(おこもりぐち)は毛利元就、南側の塩谷口(しおだにぐち)は吉川元春、北側の菅谷口(すがたにぐち)は小早川隆景の軍勢が攻めました。
これに対して、尼子勢は、御子守口を尼子義久、塩谷口は尼子倫久と山中鹿之助(山中幸盛)、菅谷口は尼子秀久が守りました。

月山富田城の本丸

ちなみに、毛利家としては、毛利輝元吉川元長が初陣を飾っています。
この4月の攻撃は防いだ尼子勢でしたが、9月に再び月山富田城を包囲されると、やがて城内の兵糧が尽き始め、脱走する兵も出てきたと言います。
しかし、毛利勢は、降伏を一切許さず、投降した者は処刑したため、月山富田城は補給の無い中で、約10000の兵が耐えることとなりました。

月山富田城の本丸

そのため、ついに1566年11月21日、尼子晴久は降伏して開城し、大名としての尼子氏は滅亡しました。

月山富田城の本丸

なお、尼子義久の命は許され、宇山誠明・本田家吉らと幽閉先に入っています。
のち、1589年になると、毛利輝元より安芸・志道に居館を与えられています。

月山富田城からの展望

また、立原久綱・秋上宗信・山中幸盛(山中鹿之助)など、地位の低かった旧臣らは、東福寺の僧になっていた尼子勝久を立てると、尼子再興軍を起こして尼子氏の復権を目指すことになったのです。
山頂付近も、きちんと木も伐採しているので、展望は360℃で、遠くには中海も見えます。

月山富田城からの展望

600本のソメイヨシノがあり、桜の名所として知られる太鼓壇公園には、哀愁を感じる山中鹿之助の銅像がありますが、今回は工事中で断念しました。

毛利家の支配となった月山富田城には、最初、重臣の福原貞俊と口羽通良が城代として入りました。
その翌年には天野隆重が城代となりましたが、のち毛利元就の五男・毛利元秋が城主となっています。

月山富田城

1569年(永禄12年)と1570年には、尼子再興軍の山中幸盛らが月山富田城を攻撃しましたが、毛利勢は防いでいます。

1590年、小田原攻めのあと、豊臣秀吉吉川広家に東出雲、隠岐、西伯耆12万石を与え、末次元康の居城であった月山富田城に入るよう命じています。

月山富田城

1600年、関ケ原の戦いで、毛利家は領土を大幅に削られると、堀尾吉晴が月山富田城に入りました。
しかし、松江城を新築したため、1611年に、月山富田城は役目を終えています。

続いて麓の巌倉寺に行ってみました。

巌倉寺

有事の際には当然、曲輪のひとつとして防御体制が取られたのだと存じます。

巌倉寺

巌倉寺がある御茶庫台(おちゃこだい)には、堀尾吉晴の墓とされる立派な五輪塔があります。

堀尾吉晴の墓

また、堀尾吉晴の墓の左奥には、堀尾吉晴の妻が建立したと言う山中幸盛(山中鹿之助)の慰霊碑があります。

山中幸盛(山中鹿之助)の慰霊碑

さて、現在の月山富田城ですが、下記の写真でお分かりいただけますかね?
全部ではありませんが、登城路(登り)の斜面の木々は、戦国時代と同様に、木を切って山肌が露出しています。

月山富田城

環境破壊の議論はあるかと存じますが、ここまで、昔の状態に近いように復元している「山城」は、めったにない訳でして、地元の皆様の意気込みを感じました。
山頂(本丸)への登る遊歩道も、見てください。

月山富田城

きちんと舗装して安全に登れるようにしているだけでなく、わざわざ「茶色」に塗装して、目立ちにくくしています。
念のため、トレッキングポールを持っていったのですが、不要でした。
急な階段を20分程度登ると本丸に入れますが、階段の段差が低くなっているので、足を大きく上げる必要が無く、予想よりも楽に登れました。
靴もスニーカーで十分です。
木は伐採して登りやすい遊歩道も整備すると言う完璧な状態でして、他の山城もぜひ見習って頂きたいところです。

ただ、整備を進めているお陰で、工事中のところも多く、今回、わざわざ訪れたのに、山中鹿之助の銅像がある場所と、尼子経久の墓があるところは、立入禁止(工事中)で訪問ができませんでした。
残念。

下記は、月山富田城の南側にある、尼子晴久の墓とされるものです。

尼子晴久の墓

尼子晴久の墓の場所も含めて、月山富田城付近の史跡がある場所は駐車場も含めて、オリジナルGoogleマップにて正確な位置を示させて頂いております。
クルマを止められる場所も明記してありますので、よければ、ご参考頂けますと幸いです。

山陰地方の史跡・城跡のオリジナルGoogleマップ

JR山陰本線・安来駅より安来市広域生活バス(イエローバス)観光ループ線・月山入口下車(本数僅少)です。
クルマの場合、山陰道の安来ICより県道45号線経由11㎞です。
月山富田城がある飯梨川沿いに資料館があり、大きな駐車場があります。
ただし、月山富田城に登る場合には、もう少し登ったところにある無料駐車場の方が便利ですので、付け加えさせて頂きます。

月山富田城の比高は161mですが、上記で触れた中腹の駐車場まで行けば、比高は140mほどまで軽減されます。
観光所要時間ですが、月山富田城に登って帰ってくるだけでしたら、麓から登った駐車場からで往復50分ほどです。
しかし、周辺には見どころがたくさんあり、それらを回ると、プラス1時間~2時間程度必要となります。

日本庭園が世界一と評価されている足立美術館も近いですのでセットでどうぞ。

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