歴戦の戦士を法で破った徳川秀忠

徳川秀忠




武家諸法度といえば、大坂の役の後徳川家康徳川秀忠の命令という形式で発布した、諸大名統制のための全13ヶ条の法律。
この法律が、戦国時代の終わりを示すような事態を起こします。
今回は、武家諸法度の示した新時代の一つを見ていきます。

徳川秀忠について

武家諸法度を発した人物である徳川秀忠は1579年生まれであり、織田信長が勢力を広げていたもののまだ戦国時代は収まっていない時代です。
秀忠の実際に戦闘を伴った初陣は、1603年の関ケ原の戦いです。


上田城を攻めたものの落城させるには至らず、関ケ原の戦いに遅参したことで有名です。
それ以外にも、現在のところ有名な武功はなく、武人としてはパッとしない印象です。

福島正則について

武人としてパッとしない徳川秀忠に対して、武功で出世したのが福島正則です。
秀吉とは血縁であることをきっかに仕えて200石から始まって、山崎の戦い賤ヶ岳の戦い小牧・長久手の戦い、根来攻め、四国征伐と秀吉の戦に従軍して、領地の加増や褒美を与えられています。そして、九州平定後ついに11万石を越える大名にまで出世します。

その後もまた、関ケ原の戦いや毛利輝元からの大坂城接収等で功績をあげ、広島城を拠点に49万石を越える日本列島トップクラスの大大名にまで上り詰めます。

広島城の修繕を巡る福島正則と徳川秀忠の対立

「どの戦いのどんな場面で活躍した」、「戦闘力の高さから外様大名との国境線の防備を任された」などなど、戦国時代にあっては武功で出世することは不思議なことではありません。また、武力によって国境も変更する時代、武人の存在は戦場だけでなく、政治的にも重要な存在です。


ですが、関ケ原の戦いは終わり東軍に従った者たちが優位になり日本列島は安定し、さらに豊臣氏の滅亡によって反徳川勢力の結集も起こりそうにない時代になると、武人の活躍する場はなくなっていきます。

そんな時代の中、台風の水害により広島城は一部壊れてしまいます。武家諸法度には居城の修補には、江戸幕府に届け出をせねばならないと定めています。
福島正則は、届け出をしたが許可が下りず、結局許可の出ないまま広島城を修繕します。

これに対して幕府は、福島正則の行動を武家諸法度違反だと咎めます。
幕府は本丸の修築部分の破却を指示しますが、福島正則は幕府の指示と違う場所を破却する等幕府と折り合えません。
さらに、江戸への人質の出発の遅れ等もあり、徳川秀忠は激怒。
結局、領地の安芸・備後の50万石は没収、信濃国4万5000石へ大幅に領地を減らされます。

こうして福島正則は、戦で負けて領地をとられるのでなく、法によって領地を没収されることになったのです。

戦国時代の真っただ中は、大名は武力さえあれば国境を変更できていました。
そんな時代から大きく変わり、大名の姿は江戸幕府の作った法によって決められる時代になりました。


武功で出世した大大名福島正則も法の例外ではないことを示したことは、江戸幕府の作った法の威力を世に示す意味でも大きいでしょう。

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コメント

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  • コメント (2)

    • 戦国好き
    • 2019年 9月 04日

    いつも楽しく拝見しております。

    • 稲岡 良仁
    • 2019年 9月 16日

    @戦国好き
    ありがとうございます。月1本ほどのペースで書いてまいりますので、今後ともよろしくお願いします。

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