徳川家康 武将情報データ 中高生でもわかりやすく解説

徳川家康




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徳川家康(とくがわ-いえやす)は、戦国時代の武将・戦国大名です。
徳川家康の武将能力データとして、学校の社会や日本史の試験などにもよく出る徳川家康を、よりわかりやすく・詳しく迫ってみたいと思います。

生まれから元服まで

徳川家康が生まれたのは1543年12月26日で、朝4時頃に、三河・岡崎城にて誕生したとされています。
父は三河の大名・松平広忠で、母は水野忠政の娘・於大の方となり、嫡男として生まれました。
徳川家康の幼名としては「竹千代」(たけちよ)と名付けられました。

この戦国時代の当時、三河には東から今川義元の圧迫もあり、松平家は今川家に従っていました。
ところが、於大の方の実家である水野信元が、尾張の織田信秀に鞍替えしたため、竹千代が3歳の頃、母は離縁となって実家の水野家に戻されました。

松平家の立場

6歳になった竹千代は、1547年に今川義元への人質として駿府へ送られる途中、三河・田原城の戸田康光が裏切り、尾張の織田信秀のもとに送られたと言われています。
この時、織田信長とも面識を得たものと推測されます。

死因には諸説ありますが、父・松平広忠が1549年に死去し、竹千代が後継者となります。
しかし、人質の立場は変わらず、更には、今川家に捕縛されていた織田信秀の庶長子・織田信広と、竹千代の人質交換が行われました。
こうして、竹千代は駿府に移され、太原雪斎のもとで教育を受けることになります。
なお、源応尼(げんおうに、於大の方の母)も、駿府に赴き、実質的に祖母・子が、今川家の人質として暮らしたと考えられています。

天文24年(1555年)、15歳の時、今川氏のもとで元服し、松平元信(松平次郎三郎元信)と称しました。
そして、関口親永の娘・瀬名(築山殿)を正室に迎えています。
しかし、岡崎城は、今川家が実行支配しており、松平元信は三河・松平家の軍事力をまとめる役割に過ぎなかったようです。

織田家に臣従

1560年、今川義元は大軍を発して、尾張の織田信長を攻めます。
このとき、松平元信も今川勢として出陣していましたが、今川義元が討死したため、岡崎城に入り防備を固めました。
そして、新たに今川家の当主・今川氏真からは距離を置くようになり、三河の平定を進めるようになります。

徳川家康の甲冑

1561年には、母の兄である水野信元の仲介も受けて、織田信長と「清洲同盟」を結んで、今川氏と断交しました。
以後、徳川家康は、織田信長には臣従を貫き、織田家の要となって活躍して行きました。
1564年、三河一向一揆が勃発し、家臣らも割れましたが、石川数正酒井忠次らの活躍もあり、1566年には平定しています。
1566年、朝廷から従五位下・三河守に叙任され、その頃、徳川家康と称するように変わっています。
そして、武田信玄と一時同盟を結び、今川勢の曳馬城を攻略しました。
武田信玄が駿府へ侵攻すると、今川氏真は本拠地を捨てて、掛川城に逃げ込みます。
徳川家康はただちに掛川城を包囲して降伏させています。

1567年、嫡男・松平信康が、織田信長の娘・徳姫と結婚しています。


1570年、徳川家康は、本拠地を浜松城に移して城下町を整備開始する一方で、織田信長の金ヶ崎の戦い姉川の戦いにも参陣しました。
1572年、ついに武田信玄が動くと、二俣城の戦いで敗れ、更には、1573年に入り、三方ヶ原の戦いとなっています。
この合戦では、織田勢の援軍も十分ではなく、鳥居忠広、成瀬正義ら多くの家臣を失いました。
長篠城や三河・野田城も攻略されましたが、武田信玄の病状が悪化し、運よく武田勢を退かせています。

武田勝頼の代になると、美濃・明智城、遠江・高天神城も失い圧迫を受けましたが、1575、長篠の戦いで織田・徳川連合軍は大勝利を収め、諏訪原城などを回復させています。

1578年、遠江・横須賀城を築いて、高天神城の攻撃拠点とし、のち1581年に制圧しています。
しかし、正室・築山殿と嫡男・松平信康が、武田勝頼に内通の疑いがあると織田信長より指摘され、2人を殺害してまで、織田家への忠節を重んじました。
岩村城の戦いを経て、1582年、織田信忠の甲斐攻めが開始されると、武田家の一門筆頭である穴山梅雪を味方につけて、身延から甲斐へ侵攻しています。
そして、武田家が滅ぶと、穴山信君と一緒に、織田信長の安土城を訪問しました。

安土城跡の大手門口からの階段

その後、家臣らと堺の見物に移動しましたが、明智光秀本能寺の変を起こします。

豊臣秀吉との対立

堺にいた徳川家康(40歳)の一行は、少ない武力のまま伊賀越えを断行して、浜松城への帰還を果たしました。
そして、明智光秀が山崎の戦いで敗走して討たれたとしると、空っぽになった甲斐・信濃へ軍勢を送りました。
この時、小田原城北条氏直らも、甲斐・信濃へ侵攻したため、新府城に入った北条家と、若神子城にて対陣もしています。
そして、真田昌幸らを新たに味方につけ、北条氏と和睦すると、徳川家康の次女・督姫を、北条氏直の正室として、同盟を結んでいます。
こうして、徳川家康は、甲斐・信濃・駿河・遠江・三河を領した大大名になりました。

駿府天下泰平まつり

1583年、賤ヶ岳の戦い柴田勝家を破った羽柴秀吉が、織田家での実力者になると、織田信長の次男・織田信雄が徳川家康に接近します。
そして、1584年、羽柴勢と徳川勢は対立し、小牧・長久手の戦いとなりますが、野戦に強い徳川勢が勝利しました。
羽柴秀吉は関白となって豊臣秀吉と称するようになり、合戦で勝つのが難しい徳川家康には、上洛することで臣従させようとしました。
しかし、徳川家康は上洛要請にも応じなかったため、豊臣秀吉は妹・朝日姫(44歳)を、徳川家康(45歳)の継室に差し出しています。
それだけでなく、豊臣秀吉の母・大政所が、朝日姫を訪ねるという形で、徳川家の人質となったため、さすがに徳川家康も豊臣秀吉に臣従するしかなくなり、大坂城にて臣従することを表明しました。
その後、浜松城から拠点を駿府城に移しています。

豊臣家を支える最大の大名に

豊臣氏に従うと徳川家康は、今だ、豊臣家に挨拶しない、娘の嫁ぎ先である小田原城の北条氏直を説得もしますが、1590年、小田原攻めとなり、徳川勢も山中城の戦いなどに参加しています。
その小田原征伐が終ると、徳川家康は250万石として関東に移封を命じられ、江戸城と城下町の整備を進めました。


1592年からの朝鮮攻め(朝鮮出兵)において、徳川勢は渡航することはありませんでしたが、肥前・名護屋城に布陣し、豊臣秀吉を補佐しています。
死期を悟った豊臣秀吉は、子の豊臣秀頼の政権を安泰にするため、五大老・五奉行の制度を定めますが、徳川家康は五大老に選出され、主に伏見城にて政務をとることが多くなっています。

1598年、豊臣秀吉が死去すると、徳川家康は五大老筆頭と目されます。
そして、豊臣秀吉が禁じていた大名同士の結婚を独自に行うなどし、石田三成らとの対立を深めました。
また、豊臣一族とも言える、浅野長政を隠居させるなど、取り崩しも始め、石田三成を嫌う黒田長政らを徳川勢に引き込みました。
そして、石田三成をも、佐和山城にて謹慎へと追い込みましたが、1600年、石田三成らが挙兵して「関ヶ原の戦い」となります。

関ケ原の戦い

関ヶ原合戦では、当初、西軍(豊臣勢)のほうが兵力が多く、東軍(徳川勢)は不利でした。
しかし、小早川秀秋を東軍に寝返らせるなど攻略を行っており、戦場にて寝返らせると、さらに脇坂安治朽木元綱赤座直保小川祐忠らも東軍に寝返り、大谷吉継を全滅させました。
これにより、石田三成らの西軍は総崩れとなり、天下の大一番で徳川家康は大勝利を収めています。

1601年、徳川家康は大坂城・西の丸から、伏見城に入って政務を執り、西軍の大名らを改易・減封などし、万全な体制を整えました。
そして、源氏に系図を変えて、1603年、徳川家康(61歳)は征夷大将軍となり、江戸幕府を開きます。
しかし、1605年には、将軍の座を三男・徳川秀忠に譲り、1607年には駿府城に入ると、大御所として政治を行っています。

駿府城

1614年、徳川家康(72歳)は、豊臣秀頼の大坂城を攻撃しました。(大坂冬の陣)
一度和睦して、大坂城の外堀を埋めると、翌年には、大坂夏の陣にて、豊臣家を滅ぼしました。
そして、武家諸法度と禁中並公家諸法度などを公布し、徳川政権を盤石なものとしています。

1616年、駿河・田中城にて、夕食にタイの天ぷらを食べ、体調を崩します。
そして、1616年4月17日、駿府城にて死去。享年73。
遺骸は久能山に埋葬されました。

徳川家康の墓

徳川家康の死因

最後に、徳川家康の死因に触れさせて頂きます。
一般的に、徳川家康は、てんぷらの食あたりで、命を落としたとされています。

具体的には、鯛(たい)を、かやの油で揚げたものに、すった韮をかけた、天ぷらによる食中毒説が長く一般的な説とされてきました。
ただし、最近の研究では違う説も注目されてきています。

徳川家康は、年老いても健康維持(運動)のため、鷹狩りをしていました。
鯛の天ぷらを食べたのは、鷹狩の夕食時とされ、この鷹狩の日にちが、最近になって1616年1月21日とわかりました。
しかし、実際に死去したのは、それから約3ヶ月後の4月17日朝10時頃となります。
となりますと、食中毒で倒れて3ヶ月間も闘病したとは考えにくいです。


違って、徳川家康の新しい死因として注目されているのは「胃がん」です。
徳川実紀に、徳川家康の病状の記述があり、それによると「見る間に痩せていき、吐血と黒い便、腹にできた大きなシコリは、手で触って確認できるくらいだった」とあります。
お腹にしこりがあるのと、吐血・黒い便と言う特徴から、胃癌などが疑われる次第です。

大河ドラマ・映画などで徳川家康を演じた主な俳優さん

※敬称略・順不同

津川雅彦『葵 徳川三代』(2000年、NHK大河ドラマ)
丹波哲郎『春日局』(1989年、NHK大河ドラマ)
山村聡『春の坂道』(1971年、NHL大河ドラマ)
松方弘樹『天地人』(2009年、NHK大河ドラマ)
松方弘樹『徳川家康』(1988年、TBS大型時代劇スペシャル)
松平健『徳川家康と三人の女』(2008年、テレビ朝日)
北大路欣也『江〜姫たちの戦国〜』(2011年、NHK大河ドラマ)
内野聖陽『真田丸』(2016年、NHK大河ドラマ)
役所広司『関ヶ原』(2017年公開映画・東宝)
阿部サダヲ『おんな城主 直虎』(2017年、NHK大河ドラマ)
風間俊介『麒麟がくる』(2020年、NHK大河ドラマ)

徳川家康の詳細年表・徳川家康の生涯はこちら
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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査・研究している歴史人物研究家です。
自慢できるものはありませんが、資格は史跡訪問のための国内旅行地理検定2級、水軍研究のための小型船舶操縦士1級など。

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