犬居城の歴史と武田流の見事な縄張り~天野景貫とは


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犬居城(いぬいじょう)は、信長の野望と言うゲームをしていると、必ず登場する駿河の山の中の拠点でして、ずっと興味があったのですが、ようやく訪問する事ができました。

行者山の頂きにある犬居城は、こんな山の中ですが、遠江から甲斐への交通路(塩の道)でありました。
犬居城へ通じる登山道は「東海道自然歩道」でもあるため、予算があるのか良く整備されて道の幅も広く、歩きやすかったです。
ただし、ほとんどが斜面と言う道で、階段状にはなっておらず、砂利が浮いていますので、多少、下りでは足元が滑りやすいかと存じます。
登り口にも無料貸し出しの竹の棒がありますが、トレッキングポールがあると帰りはラクでしょう。

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当初は、ちょっと離れたところから、遠景だけ撮影する予定だったのですが、麓の登城口に行きますと、犬居城ま徒歩25分とあると記載されているではないですか?

犬居城への登城口

25分と言う事は、経験上15分くらいで登れるな?と言う事で、予定外にも、急きょ登ることに致しました。

犬居城への登山道

大手から登って行くと、途中折り返して、三の曲輪の下を抜けて尾根に到達する形となります。

犬居城の三の丸下

すなわち、攻め手は大手から入ったとたん、本丸に至るまでの間、常に高所から迎撃を受けると言う防御が優れた大変合理的な構造です。
しかも、尾根に到達すると今度は、180℃また方向転換する形で、今度は挟撃を受けると言う、何段にも構える敵の攻撃に、常にさらされると言うことになります。
下記は堀と土塁、そして写真左奥へと曲がって行く虎口となっています。

犬居城の虎口

更に尾根から本丸へ入る箇所は、虎口となっておりますが、更に堀と土塁で囲んでおり、これらの防御態勢は見事な縄張りでした。
三の曲輪とも馬出曲輪とも言われていますが、規模のある空堀と土塁によって、U字型になっているのは、武田流築城術です。

犬居城

この三の曲輪付近は、きちんと堀や土塁も復元して整備したら、結構、いい感じの山城になると思います。

犬居城

下記の挟まれたところを抜けると、本曲輪です。

犬居城

犬居城と言えば天野氏ですが、天野氏はもともと伊豆・田方郡天野郷が発祥です。
藤原南家工藤氏の一族・藤原景光が伊豆・天野に住んで、天野藤内と名乗りました。
源頼朝が挙兵した際には、天野遠景が協力し、平家討伐でも武功をあげたことから、1185年には九州の御家人を統制する初代・鎮西奉行(ちんぜいぶぎょう)にも任じられています。

犬居城

その後南北朝時代に天野景政が、遠江・犬居に領地を与えられ、犬居城を築いたとされています。
天野氏は秋葉山城の天野氏と、ここ犬居城の天野氏に別れており、南北朝時代にはそれぞれ北朝・南朝に別れて争いましたが、戦国時代には共に今川義元に従っていました。
しかし、桶狭間の戦いにて今川義元が討死したあと、犬居城主・天野景泰(天野安芸守景泰)と天野元景の親子が1563年12月に、今川氏真から離反したため、一族で篠ヶ嶺城主の天野藤秀の子・天野景貫が犬居城主となっています。
宗家が裏切ると知った天野藤秀と天野景貫が、犬居城の宗家を攻撃し、宗家が徳川家康を頼って逃げたとも言われています。

ただし、その天野景貫(天野宮内右衛門景貫)も今川家が衰退したことで、1569年頃には徳川家康に臣従しています。

犬居城

その後、武田信玄が遠江に侵攻すると天野景貫は武田家に降伏し、天野景貫の子・天野景直が武功を挙げ蒲原城代にも抜擢されています。
また、武田信玄高天神城を落とせなかった帰りには、犬居城に寄ってから甲斐へと戻っています。

そして、犬居城は武田家の支援を受けて改修されました。

犬居城

1572年からの西上作戦では、武田勢の先鋒として二俣城の戦い、三方ヶ原の戦い、そして長篠城野田城へと導きましたが、武田信玄が死去します。

すると、徳川家康は反撃に出て遠江北部の諸城を攻略し、武田の援軍が望めない中、犬居城にて籠城した天野景貫は、悪天候も味方して退却する徳川勢を奇襲します。(犬居城の戦い)
私が小谷城の本丸から転げ落ちたように、攻城の際には大久保忠世も崖下に落ちたとの話もありますが、撤退時には殿軍を務めた大久保忠世、榊原康政らが奮戦して防いだようです。
この天野氏の活躍を受けて、武田勝頼は高天神城を攻略しました。

1575年、長篠の戦いで武田勢が大敗北を喫すると二俣城も落ち、2回目の犬居城の戦いでは天野景貫もついに甲斐へと逃亡し、武田勝頼を頼りました。
武田滅亡後は、北条氏直のもとに出仕すると、八王子城主・北条氏照の配下に加わり、子の天野景直(天野左衛門)とともに北条氏照の軍勢として佐竹家などと戦っています。

ただし、天野景貫は1584年頃に死去したと推測されています。
小田原城の北条家が滅亡すると、子の天野景直(天野小四郎景直)は、武田時代に庵原郡を任せれた際に、創建した秋葉神社(現在の秋葉山本坊・峰本院)を頼って、清水・草ヶ谷にて暮らしたともあり、天野氏一族はそれぞれ帰農したようです。

犬居城

上記と下記は、物見曲輪と言う最高部に建つ、現在の展望台です。

犬居城

よく資料に記載されている標高は、昔に測定されたためか?、実際に計ってみると異なる事が多いので、最近は自分で調べています。
自分で調べると申しましても、スマートフォンの標高測定アプリを使用しています。
気圧計を用いる方法だと天気により誤差がありますので、GPSにて実際の地点を割り出し、それを地図にて照合し国土地理院のシステムより標高を取得するものです。

そうしますと、犬居城の資料では標高255mとありますが、実測で最高所は265mでした。
登城口の標高は実測143mですので、比高は実測で122mでしたが、資料では140mとあります。
ちなみに、麓を流れる気田川の水面とだと、実測で比高156mでした。

犬居城からの展望

その登城口には、いきなり幅もある土橋になっていますが、その土橋の上に贅沢にも2台ほど駐車できるスペースとなっています。

犬居城の登城口・駐車スペース

犬居城へのアクセスですが、下記の地図ポイント地点がその大手口(登城口)の場所となります。

地図は縮尺を変えてご確認願います。
国道から直接入れません。
一旦、春野の堀之内集落の方に入って、途中、北へと曲がり、国道の上に掛かる橋を渡って行くことになりますので、地図を良く見てお出かけ願います。

麓や登山道にもトイレはありませんでしたので、事前に春野ふれあい公園にて済ませておくと良いでしょう。
見学所要時間は、私の場合で登山口から約40分でした。
夏場は熱中症対策も忘れずに。

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