「情報」が戦闘の勝ち負けを決める


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 戦(イクサ)と言うものは「情報」が命だと私は考えます。

 そうです。敵を良く知ることが、勝負の分かれ目となります。

 敵が動員できる戦力はどの程度か?
 敵が得意とする戦法があるのか?
 軍を指揮する敵の武将の能力はあるのか?

 これらが分かって、初めて、自分の軍はどの程度の人数で戦えば勝てるか? などの判断が下せます。

 例えば、武田信玄に簡単に負けた、小笠原長時は、自分の軍勢の人数すら、情報を得ておらず、恐らく敵より多いだろう的な憶測で、出陣したと言われています。

 自分の戦力は、苦労して情報を得ずとも、比較的、容易に把握できます。
 しかし、敵の戦力に関しては、調査を行わないと、わかりません。

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 そうです。戦国時代であれば、旅の僧侶に扮した「忍者」などが、敵国の情勢を探っていました。
 更には

 敵の位置は、いまどこなのか?
 そこで、何をしているのか?

 桶狭間の戦いの際、織田信長の軍勢は、今川義元の軍と比較すると、人数こそ負けていましたが、この「情報収集能力」は、織田信長の方が格段に上で、逐一、今川義元の行動を把握していたからこそ、奇襲攻撃を実行に移せて、イチかバチかの成功を納めたのです。
 桶狭間の戦いで織田信長は、情報を報告した簗田政綱を、一番の手柄として褒めている事からも、織田信長が「情報収集」を最大の武器として考えていたことに間違いありません。

 負ける側の要因としては、主に2つあると思います。

 (1) 負けないと過信している (思い込んでいる、慢心している)
 (2) 情報不足

 神風が吹いて負けないと過信したり、敵は弱いと、正確な情報を得られていないと言う、まさに、太平洋戦争で負けた日本みたいな要因です。
 常に負けるかも?と考えていれば、無謀な作戦を取ったりしません。
 真珠湾攻撃が成功したのは、事前にハワイのアメリカ海軍についてそれだけの情報収集を行っていたからです。

 織田信長も、戦力が乏しい最初の頃こそ、賭けみたいなように、死ぬ覚悟で戦っています。
 でみ、戦力で劣っていても、情報収集だけはしっかりと行っていたのです。
 その為、織田信長の領土拡大してからの戦いは、情報を得ているからこそ、その敵に負けないよう思い込まず、常に敵よりも多くの軍を動員することができて、勝利しているのです。
 これも、的確に敵の戦力を分析できるだけの情報があって、初めて成しえる技です。

 しかし、明智光秀の謀反(本能寺の変)だけは、織田信長も事前に察知する事はできませんでした。それだけ、信頼はしていたのでしょうが、負ける時の要因として
 
 明智光秀が謀反を起こさないと過信していた。そして、明智光秀に対して、何か不穏な動きをしないかなどの情報収集も行っていなかった。

 と言う「ミス」を犯したのです。
 

 武田信玄もしかりです。
 
 武田信玄も百足衆など忍者を多用しており、出陣においても敵の様子を随時確認させ、情報収集していました。
 その為、敵国に出陣するにしても、かなり慎重な行動を取っています。
 それゆえに、戦で負けることがほとんど無かったのです。逆に、勝てない戦には無理をしないで、引き分けで引き上げていることが多いのです。
 要するに、情報収集に力を注ぎ、負けない戦をしていたと言う点においては、武田信玄も織田信長も同じです。
 
 のちに天下を取った徳川家康も、忍者を活用していることは、皆様、よくご承知の通りです。
 どれだけ正確な情報を多く入手できるかが、有能な武将なのかどうかと言う「命運」を分けるのです。

 
 
 現代の日本も過去に学ばなくてはなりません。

 仮想敵国よりも、情報収集にて勝らないと、いざ、戦争になった場合に勝てません。
 そういった意味では、国家戦略としてスパイを多数活用している中国や北朝鮮の方が、有利なのは言うまでもありません。
 いくら能力の高い軍を所有していても、敵の行動に対して、的確な情報を元に、作戦を立てられないと、戦闘力を発揮できません。
 いくら日本が戦争はしたくないと思っていても、敵国は情報収集の末、自分の方が勝てると判断したら、攻撃に出る可能性が有ります。
 今は的確に情報収集を行い、勝てないと確信しているから、攻撃まではしてこないだけです。
 スパイを送り込めとまでは申しませんが、偵察衛星の画像解像度を高くする、最新のレーダー網を整備する、サイバー攻撃に対しての備えを万全にするなど、日本の技術力でできることは、今すぐにでも行う必要はあるのではないでしょうか?

 

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