河村城の畝堀(障子堀)~河村城の訪問記


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ねん河村城(かわむらじょう)は、標高約225mにある山城で、酒匂川との比高は約130mとなり「河村城址歴史公園」として整備されています。

平安時代末期に、藤原秀郷の一族である波多野遠義の子・河村秀高が、河村城を築いたと考えられており、戸張城・猫山城とも呼ばれます。
源頼朝石橋山の戦いの際に、河村秀高の子・河村義秀は、平家に味方したため、領地を没収されましたが、その後、鎌倉・流鏑馬にて妙技を見せて許されると、本領河村郷に復帰したとされます。

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太平記などによると、南北朝時代には、河村秀国、河村秀経が、南朝方の新田義興・脇屋義治らと河村城で籠城し、1352年から2年間、北朝方の畠山国清らと攻防戦を繰り広げたようです。
しかし、1353年8月、河村城から東南東に約1.6kmの場所(南原古墳群の解説板辺り)にて「南原の戦い」となると、河村秀国、河村秀経ら河村一族はことごとく討死し、河村城は落城します。
新田義興は支城の中川城を経て、犬越路(二本杉峠か?)を越えると甲斐へ逃れました。

その後は畠山国清や関東管領・上杉憲実、小田原城主・大森憲頼の持城となったようですが、大森憲頼は河村城の対岸に春日山城を築き、1437年に河村城を手に入れた模様です。

河村城

戦国時代に入り、1495年、韮山城主・北条早雲(北條早雲)が小田原城を手に入れると、河村城も北条家の支配下となりますが、1569年12月に、足柄城深沢城・大仏城山・湯ノ沢城・中川城などと一緒に武田勢の前に落城した模様です。
※落城したかどうかは諸説あり
しかし、1570年1月に北条氏康が奪還し、1573年まで改修工事が行われました。

河村城の縄張り図

1590年、豊臣秀吉小田原攻めにおいて、落城した山中城・足柄城・深沢城と異なり、河村城にて戦闘があったのかは不明ですが開城し、徳川家康が関東に入ると、河村城は廃城となりました。

河村城の縄張図

さて、今回は、北側の「盛翁寺」の先から登りました。上記の現在地からで、下記がその登り口の写真です。
ここから本丸まで約15分の登坂です。

河村城の盛翁寺からの登り口

息を切らしながら、せっとと登って行くと、まずは、本郭脇の小郭と茶臼郭が見えてきて、その間の堀は「畝堀」(障子堀)となっています。
山中城と同じく、スゴイ規模で、堀は特に急斜面になっています。

河村城の畝堀(障子堀)

下記は「お姫井戸」と呼ばれており、落城した城主の姫が身を投じたという哀話が伝えられています。
しかし、現在は水深は浅いものであり、小郭と茶臼郭の間に水が湧いている湧水のようで、井戸跡も確認されていないことから、お姫様の話は落城したと言う事実からの作り話と言えるでしょう。

お姫井戸

下記は茶臼郭から見た畝堀(障子堀)です。

河村城の茶臼郭から見た畝堀(障子堀)

茶臼郭の反対側へ降りて行くと、そちらの畝堀も水を湛えていましたので、その低い地層で湧水があるのでしょう。

茶臼郭の反対側の階段を降りた先にも道がありそうだったのですが、整備された道は途切れていました。
戻るにもまた階段を上がるのかと思うと、憂うつになりましたが、隣の小郭によじ登った足跡を見つけ、小生も登って反対側へ出て見ようと考えました。
しかし、これは間違えでした。
一応トレッキングポール(ストック)を持参していましたので、急な斜面をなんとか登り小郭の上にでました。
しかし、小郭は独立しており、今度は降りる道がぜんぜん見当たりません。
と言う事で、少しでも緩やかな斜面を見つけては、今度は本丸下の堀へと急な斜面を下る事に・・。

河村城の小郭より

まるで、当時の雑兵のようによじ登って、こわごわと下りましたが、昔はこれを「わらじ」で上り下りしたと思うと、本当に大変だったと思います。
しかも、城攻めの戦闘中ともなれば、なおさらですね。
皆様はマネをしないようにお願い申し上げます。
下記写真は、右が小郭で左が本丸です。

河村城の堀

そして、階段を登ると河村城の本丸(本城郭)にでます。
下記のようにちょっとした柵があるだけで、城の雰囲気が出ますので、小生はこのような柵は大歓迎です。

河村城

河村城の本丸も、なかなか広かったです。
ただ、夏だと暑そうですね。
河村城はジメジメした箇所もありますので、虫除けスプレーも必要でしょう。

河村城の本丸

下記は河村城碑です。
写真ではわかりませんが、富士山がちょっとだけ見えました。
なお、トイレが隠れるように本丸の下にある曲輪にあります。

河村城碑

本城郭西側には馬出郭から3本の堀切で区画された西郭と北郭があります。
ただ、周囲の馬出曲輪、蔵曲輪などは山林化していて、遺構がよくわかりません。

河村城の馬出郭

西郭の方面にも行ってみようと思いましたが、ヤブになっていそうだったので、戻ります。
なお、この先を進むと、酒匂川に降りられるようにハイキングコースにもなっているそうです。

河村城

本丸から蔵郭の堀切の上には橋が渡されていました。

河村城

橋の下も結構な堀切となっています。

河村城

蔵郭から近藤郭には、近代的なカーブの絶対に壊れないコンクリ橋が築かれています。
これだけはちょっと残念です。他の方法はなかったのでしょうか?
恐らく、車椅子で公園を訪れる方のため、バリアフリーを優先してしまったのだと思います。
このように整備をする際には、有識者の意見も聞いた上で、設計をして頂きたいものです。

河村城

ともあれ、キレイなアスファルトの歩道を歩いて行くと、一番西の大庭郭に到着します。
近藤郭と言い、大庭郭と言い、どの近藤さんと大庭さんの武将が守将だったのでろうか?

河村城の大庭郭

途中、小田原の市街地方面の展望もよかったです。
恐らく、小田原評定の際には、九鬼嘉隆の軍船が海を覆い尽くした様子が、河村城からも見えていたと思います。
夏は暑いですが、1年通じて訪問できる整備された山城です。
登城所要時間は往復で約40分といったところです。

河村城から相模湾を望む

今後、未整備区画や藪に覆われている曲輪などがどのようになるのか?
きちんと、戦国時代の城として整備すれば、山北町さんにとって貴重な観光資源になるはずですが、ちょっと心配になる河村城でした。

相模・河村城へのアクセス・行き方

今回、河村城へ登ったスタート地点は下記の地図ポイントの場所となります。
約10台くらいは車が止められる無料駐車場になっており、トイレも完備されています。
JR御殿場線の山北駅を降り立った場合にも、ここを目指せばよく、徒歩10分です。
地図は縮尺を変えてご覧願います。
※他の駐車場も続いてご紹介致します。

上記の場所は標高145m位なので、ここからだと、階段などを約80mの高低差、登って行かなくてはなりません。
登山道は、河村城址歴史公園として整備されており、公園のように歩きやいすが、さすがに坂はきついです。
ただ、それでも津久井城の登坂の半分以下であるため、良い運動にはなります。

あと、坂など気にせず、河村城の大手口付近まで、車で登っていく事もできるのに、登って気が付きました。
下記がその終点付近で、車を止めるスペースがあり、すぐ先が大庭郭になっています。

河村城の駐車場

上記写真の場所は、地図ポイント地点でして、そこまで登り坂の道路も新しくできたのか?、道も広くて走行しやすいです。

岸幼稚園の北側から浅間山方面に入って行き、下記写真のところで右折し、あとは道なりに登って行けば良いです

河村城へは右折する

ゴール地点は下記の地図を参照願います。

河村館跡(土佐屋敷跡)

北条家の時代の河村城がある神奈川県山北町の浅間山麓に河村館として「土佐屋敷跡」があります。

河村古城図にも「土佐屋敷」の記載があり、1993年頃に行われた発掘調査では、土佐屋敷周辺から東西250m、南北150mの方形居館址が確認されました。
出土した遺物からは、戦国時代の頃に使われていたと推定されており、河村城主の館がここにあったとも考えられます。

河村館跡(土佐屋敷跡)

なお、ここから南方200m下方にある堀の内には、河村秀高の4男・河村秀清屋敷の伝承もあります。

土佐屋敷の主である「土佐守」と言う武将は、河村家の者なのか?、大森家の家臣、または北条家の家臣なのかなど、誰なのかは特定できていません。
実際に調べてみたが、北条家の家臣に「土佐」と称した武将は複数おり、河村城との接点も確認できていませんが、可能性のある武将として小田原旧記に、北条家の家臣として浮役寄合衆に「大森土佐守」と言う名が見受けられます。
この大森土佐守は恐らく、北条早雲が小田原城に入った際の旧領主・大森氏の一族であると推測できるため、その大森一族の大森土佐守の屋敷がここにあったのかも知れません。

河村館跡(土佐屋敷跡)の看板がある地点は下記の地図ポイントの場所となります。

深沢城の戦いと北条家【深沢城の訪問記】
河村城の近くにある酒水の滝も有名です
小田原城の訪問記はこちら
城郭関連カテゴリからもどうぞ
訪問しておきたい神奈川県の城郭・寺院・古戦場など一覧リスト

 

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