菊池城と菊池武経や菊池義武~隈府城と隈部親永ら菊池一族の争い

菊池神社

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菊池城(きくちじょう)は別名を隈府城(わいふじょう)とも言う菊池氏の本城(居城)で標高110m、比高40mの山城です。
菊池城と書籍などで紹介されることよりは、隈府城と言う名称で出てくる場合の方が多いような気もします。

菊池氏の第16代当主・菊池武政(きくち-たけまさ)が正平年間(1346年~1370年)に菊池城(隈部城)を築いたとされ、守山城、雲上城とも言います。

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菊池氏は太宰府官・藤原政則の子孫と言われ、1070年ごろ大宰権帥・藤原則隆のときに肥後に下向して土着し、菊の池城を本拠としたと言います。

平家に与すものの源頼朝に寝返り、元寇でも活躍。
建武の新政のあと、楠木正成の推薦もあって13代・菊池武重は肥後守となり、足利尊氏が建武の新政から離脱し反旗を翻すと、菊池武重は南朝・後醍醐天皇に仕えて関東にも出陣しました。

下記は、南朝方として室町幕府と戦い、一時は九州を平定するなど活躍した第15代当主・菊池武光の騎馬像で、背後の丘が菊池城となります。

菊池武光の騎馬像

しかし、南北朝時代の1377年に、17代・菊池武朝が肥前蜷打の戦いで大敗し、1381年には菊池城を奪われ、征西大将軍・良成親王(後醍醐天皇の皇子)を奉じて宇土城を頼って逃亡。
1386年には宇土から名和顕興の八代城へと逃れています。
1392年、室町幕府3代将軍・足利義満によって南北朝が統一されると、菊池武朝は和睦して肥後守護代に任じられ菊池城に戻ったと推定されます。

菊池神社(きくちじんじゃ)は九州における南朝の主力として奮戦した、菊池武時(第12代)、菊池武重(第13代)、菊池武光(第15代)を主祭神に祀る他、菊池一族26柱を配祀する神社です。

菊池神社

下記は菊池神社境内にある菊池武時の銅像です。

菊池武時の銅像

この菊池神社は菊池城の本丸跡(隈部城跡)にあります。
神社の創建は慶応4年(1868年・明治元年)で、熊本藩から新政府参与となった長岡護美が政府に進言したことによります。
下記は摂社の城山神社で、2度の元寇(文永の役、弘安の役)に出陣し「蒙古襲来絵詞」にも描かれている10代菊池武房と、21代菊池重朝が祀られています。

菊池城の本丸跡(隈部城跡)

菊池持朝が1431年、父・菊池兼朝を追放して19代当主に着くと、以後は菊池家の一族にて家督をめぐる争いとなります。

第22代・菊池能運(きくち-よしゆき)が僅か12歳で当主となると、一族(大叔父)である宇土為光が反乱を起します。
この反乱は収めましたが、家中は動揺し離反も相次いだため、身の危険を感じた菊池武運は隈府城を離れました。

隈部城

しかし、1498年、菊池武運(菊池能運)は挙兵して豊福城を攻略し、相良勢の奪われていた八代城も奪還します。
ただし、1501年、宇土為光が再び反旗を翻し、留守の隈府城は陥落。
奪還を試みますが、大敗北した菊池武運(菊池能運)は日之江城主・有馬晴純を頼りました。

1503年、相良長毎の協力を取り付けた菊池能運は高瀬の戦いにて宇土為光を撃破し、宇土城を攻略し、隈部城に凱旋しますが、この戦傷がもとて1504年2月15日に23歳の若さで死去しました。
子がいなかったため、菊池本家の血筋は途絶えることになりますが、遺言により高瀬の戦いで討死した一族・菊池重安(菊池肥前守重安)の遺児・菊池政隆(14歳)が養子となって菊池家の跡を継いでいます。

菊池神社

しかし、またしても若年の当主であったため、1505年には城氏・赤星氏・隈部氏ら菊池氏重臣22名が、阿蘇神社大宮司・阿蘇惟長(後の菊池武経)を擁立して謀反を起こします。

1507年、菊池家の家臣84名の支持を得た阿蘇惟長(あそ-これなが)は、菊池政隆を菊池城(隈部城)から追放して菊池武経(きくち-たけつね)と改名し、阿蘇神社大宮司職は弟・阿蘇惟豊に譲りました。
追われた菊池政隆は、相良長毎の八代城へと逃れたあと筑後に落ち延びます。
そして、1509年、菊池政隆は再起を掛けて久米原の戦いにて阿蘇惟長(菊池武経)と決しますが敗れ、久米・安国寺に籠ったところを囲まれたため、閏8月17日に自刃しました。享年19。
菊池氏の事実上の滅亡です。

こうして菊池家の権力を掌握した菊池武経(阿蘇惟長)でしたが、横暴にして国政も顧みず傲慢であったようで、やがて家臣らの反感をかいます。
そのため、命を狙われるようになった菊池武経(阿蘇惟長)は、1511年に隈府城から退去して阿蘇の矢部(上益城郡)に帰郷し「阿蘇惟長」と名を戻すと萬休斎と号しました。
弟・阿蘇惟豊に譲っていた阿蘇神社大宮司を取り戻そうとしますが、計画が露見した阿蘇惟長は薩摩の島津家を頼って逃亡。
そして、1513年3月、島津家の支援を受けると、弟・阿蘇惟豊に勝利します。
阿蘇惟長は嫡男・阿蘇惟前を大宮司職に据え、阿蘇家の実権を回復しました。

しかし、1517年には、甲斐宗運の父である甲斐親宣が、追われていた弟・阿蘇惟豊を助けて阿蘇に侵攻。
阿蘇惟長・阿蘇惟前の父子は薩摩へ再び逃亡し、1523年に益城の堅志田城(かたしだじょう)を落として城主となりますが、1537年、阿蘇惟長は死去しました。享年58。
ちなみに、子の阿蘇惟前(あそ-これさき)は、1533年4月15日に相良義滋(相良長唯)の長女を正室にもらい受けるなど相良家との連携を得ていましたが、1543年に阿蘇惟豊の攻撃を受けて八代に逃れ、1560年に再起を図りますが撃退されてからは消息不明です。

さて、空白となっていた菊池家当主の座は、菊池重臣の隈部親氏(隈部上総介親氏)・長野運貞(長野備前守運貞)・内古閑重載(内空閑重載)らが、詫摩武安の子・菊池武包(きくち-たけかね)を奉じて、菊池家の第25代に据えます。

しかし、家臣の一部が従ったに過ぎなかったので勢力は振るわず、豊後の大友義鑑から菊池家の家臣らは圧力を受けます。
ついに、1520年、大友義長の次男・大友重治(大友義鑑の弟)が元服したのを機に、菊池武包は暗愚であるとされ家督を譲ります。
こうして大友重治は菊池義宗(菊池義武)と称して第25代当主となりました。

菊池武包は旧臣らと玉名に移っていますが、1523年に筒ヶ嶽城にて挙兵し、菊池家の当主であると主張します。
このとき、大友家と同盟していた阿蘇惟豊は甲斐親宣を派遣してため、敗れた菊池武包は肥前の高来へと逃れました。
その後、天文元年(1532年)2月13日に菊池武包は病没し、菊池家は滅亡しています。

なお、大友家からやってきた菊池義宗(菊池義武)は、大友家臣を重臣にし、城氏・赤星氏・隈部氏と言った菊池氏庶流を兄・大友義鑑の言うとおりに遠ざけています。
しかし、理由は良くわかっていませんが、1534年、突如、菊池義武は大内義隆・相良義滋の支援を受けて、兄に反抗して独立します。

兄・大友義鑑は、山下長就・吉岡長増・田北親員らを討伐に向かわせる一方、室町幕府の仲介を得て大内義隆と和睦したため、大友家の後ろ盾を失った菊池義武は肥前・高来を経て、相良家に身を寄せました。
菊池義武は何度か隈本や隈庄を制圧して、木山城へ攻め込んでいますが、勢力回復とまではいかなかったようです。

天文19年(1550年)2月、兄・大友義鑑が二階崩れの変で死去して、大友義鎮(大友宗麟)が大友家の家督を継ぎます。
すると、3月14日に隈本城主の鹿子木鎮国(かのこぎ-あきくに)や、菊池氏の旧臣・田島重実(たじま-しげさね)と謀って、菊池家再興の旗印を挙げました。
菊池義武はこの機に乗じて隈本城に入り、相良家の家督を継いでいた相良晴広も支援しています。
相良晴広は、大友義鎮(大友宗麟)からの協力要請も断り、菊池義武と名和行興との同盟の仲介もしました。

こうして、菊池義武は国人衆と連合して肥後の制圧を目指しましたが、大友宗麟が小原鑑元と佐伯惟教ら大軍を派遣します。

1550年7月11日、菊池義武は合志原の戦いで敗れ、隈本城(熊本城)に籠城しますが、包囲されたため100騎余を率いて金峰山に籠ります。
しかし、金峰山も大友勢に攻められ、菊池義武は一族と共に天草の河内浦城に逃れ、さらには島原へ渡りました。

天文23年(1554年)2月、菊池義武は島津貴久を頼ろうと薩摩へ赴きますが、出水で入国を拒否されたために、3月、相良晴広を頼って水俣から人吉城に入ると永国寺で剃髪しました。
この時も、相良晴広は菊池義武を丁重に保護し、相良氏と大友氏の和議は成立してからも、菊池義武の身柄引き渡し要請を何度も断っています。

11月、大友宗麟は菊池義武に熊本の川尻を与えると誘い出すと、次男・菊池則直と娘・辰若、妻を相良晴広に預けて、菊池義武は嫡男・菊池高鑑と共に11月15日に八代を発ちました。
そして、豊後に赴く途中の1554年11月20日、直入郡木原にて、大友宗麟の家臣・立花道雪、由布惟信、安東家忠、安東連忠、小野信幸の軍勢に包囲され、自害を余儀無くされたました。享年50。
菊池義武の死により、肥後の名門・菊池氏は名実共に完全に滅亡しました。

なお、難を逃れた次男・菊池則直の子孫は、人吉藩・相良家の重臣となっています。

なお、菊池氏の庶流には西郷氏がいます。
将軍・徳川秀忠の生母である西郷局、会津藩家老・西郷頼母、薩摩藩下級藩士・西郷隆盛はこの菊池一族とされています。
増永城主は代々西郷を名乗っており、26代・西郷九兵衛昌隆の時に薩摩に移り住んだとも言われています。

菊池城(隈府城)のほうは、菊池氏の一族で菊池三家老の赤星親家が城主を務めましたが、同じ菊池三家老の隈部親永(くまべ-ちかなが)に圧迫されます。
1578年(天正6年)、龍造寺隆信と結んだ隈部親永が、長坂城の赤星統家を攻めて赤星統家の叔父・合志親賢(合志城主)の救援も破っています。
1581年(天正9年)、龍造寺政家が赤星家の本拠・菊池城(隈府城)を攻略すると、永野城の隈部親永に与えられました。
隈部親永は菊池旧臣と婚姻関係を結び、基盤を強化し、新たに築きなおした城郭が隈府城となるようです。
菊池神社の北側に巨大な空堀と高土塁が残されています。
1584年3月、沖田畷の戦いで龍造寺隆信が討死すると、以後は北上する島津家に人質を出して臣従し、所領を安堵されました。
1587年、豊臣秀吉の九州攻めでは所領を大幅に減らされ、佐々成政の検地に反旗を翻して、隈部親永7月から隈府城に籠城します。
下記は隈府城跡からの眺めです。

隈府城跡からの眺め

8月6日、佐々成政が自ら6000にて隈府城を攻めると、山鹿重安・有働兼元らと共に城村城へ移りました。
その後、安国寺恵瓊の説得を受けて城村城を開け渡しますが、立花宗茂に預けられたあと、側近と共に柳川城にて切腹となっています。

下記は菊池神社にある加藤清正が植えた屋久杉の根元です。

加藤清正が植えた屋久杉の根元

菊池城(隈府城)は分類上は山城ですが、標高が高い場所に日田街道(387号)があり、その街道の抑えである丘の先端にある城とも言えます。
そのため、麓からせっせと登って見学しなくてはならない山城ではありません。
また、山頂付近は「菊池公園」となっており、総合体育館の駐車場も利用可能ですが、菊池公園の方は、菊池本城と分類される場合があります。

菊池本城の他にも、菊池18外城と呼ばれる城郭群となっており、菊の城(菊の池城、菊池古城)、染土城(鷹取城)、亀尾城(丸城、板井古城)、城林城(上林、木葉、城村、城山)、茂藤里城(元居城)、出田城(古池城)、馬渡城、正光寺城、増永城、台城(水嶋城、水島城)、神尾城、葛原城、五社尾城、掛幕城、市成城、黄金塚城、戸崎城、打越城で18城となります。

今回は、熊本空港に戻る途中、急きょ立ち寄った関係で、隈府城跡となる菊池神社を中心にしか見れなかったため、また行きたいところでございます。
菊池城(隈府城)・菊池神社の駐車場がある場所などは、下記のオリジナルGoogleマップの「熊本」にてご紹介させて頂いております。

鹿児島の戦国時代や幕末の史跡を周るのに便利なオリジナルGoogleマップ
合志親為(合志親賢)と合志城~竹迫城の攻防戦と合志家の命運
相良頼房と深水宗方・犬童頼兄~人吉城の相良家物語
有馬晴信と日野江城~沖田畷の戦いでは南蛮防衛での最新兵器を駆使か?
立花道雪とは~戸次鑑連が雷神と呼ばれる由縁とその魅力
大友宗麟(大友義鎮)~国崩し・豊後の王
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