丸尾城と島原・本光寺~深溝松平家ゆかりの地も展示物が大変貴重





丸尾城(まるおじょう)は、有馬氏の一族と考えられる島原氏の本拠地・浜の城(浜城)の支城として傷かれた模様ですが、築城年代は不明です。

1577年、佐賀城主・龍造寺隆信が島原半島へ攻め込むと、島原純豊は有馬晴信から離反し龍造寺家に味方しました。
近くで合戦となった1584年5月4日の沖田畷の戦いで、島原純豊は龍造寺勢として浜の城に籠って、有馬家に対しています。



丸尾城には、有馬家の援軍である島津勢・猿亘信光(猿亘越中守)が入り、龍造寺勢として山手方面を進軍してきた鍋島直茂が丸尾城を攻撃したようです。
激しい攻撃を受けたようで、猿亘信光の長男・猿亘弥次郎が討死し、落城寸前になったようですが、沖田畷にて龍造寺隆信が討死し、鍋島直茂は撤退しました。

丸尾城

龍造寺隆信が討死したため、浜の城は有馬晴信と島津家久に包囲され、島原純豊は降伏しています。

のちの島原の乱では、キリシタンらが島原城を攻撃した際、廃城になっていた丸尾城を司令部のひとつとして活用したようです。

丸尾城

その後、島原藩主となった高力忠房が、この丸尾城跡に禅林寺を建立しました。

そして、1669年に松平忠房が65900石で島原藩主となると、浄林寺は松平家の菩提寺・深溝本光寺と改名し、整備されました。
松平忠房は、十八松平のひとつである深溝松平家で、徳川家康が1590年に江戸城へ入った際には、武蔵・忍城主となった松平家忠の家系です。

本光寺

上記写真にある本光寺境内の井戸は、丸尾城の水手であったと伝わります。

ちなみに、戦国時代の松平家忠は、関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いにて、鳥居元忠の副将格として伏見城で玉砕しました。
その後、深溝(ふこうず)松平家は、領地替えになるたびに本光寺も移したようです。

島原・本光寺の山門(トップ写真)は、創建当時のもので、島原では最古の建築物となります。

なお、丸尾城の本丸跡と推定される最高所は、現在、深溝松平家の墓所となっています。

深溝松平家の墓所

33の墓と、灯籠14基が幻想な雰囲気を演出しています。

松平家墓所

しかし、11月近いと言うのに「蚊」がスゴくてゆっくりお参りする事はできませんでした。
非常にジメジメしているところで、虫除けが必要です。

深溝松平家は、ずっと島原を幕末まで治めた訳ではないのに、墓の数が多いな?と思いました。
上記の写真以外にもあちこちに松平家の墓所が点在しています。
調べて見ますと、深溝松平家の歴代当主は、死去したあと必ず発祥の地である深溝に埋葬するという方針を取っていたそうです。
そのため、初代から歴代の墓(供養塔)がすべてココにあるため、多いとの事ですので、珍しいケースとと言えるでしょう。

また、境内(丸尾城側)には江戸時代の1739年に造られた十六羅漢像があります。

十六羅漢像

内部は下記のような感じですが、十六羅漢像は、当時の実山和尚が、伊吹山の石材を運び、領内の石匠に刻ませたものです。

十六羅漢像

その他、島原の乱の時に、キリスト教徒が首を破壊した首なし地蔵が、本堂の裏手にあります。

首なし地蔵

下記は戊辰戦争の際に官軍として参加した島原藩士戦没者の供養碑です。

戊辰戦争の供養碑

他にもシーボルトの弟子の墓などもあるようですが、蚊がすごいので断念しました。

写真撮影が禁止ですので、写真でご紹介はできませんが、有料の常盤歴史資料館で見学が可能な、島原城の建物を移築した常盤御殿(部屋)は大変見どころです。
京都御所の修復を担当したのが松平家であったと言う事で、天井画などは古いものを持ち帰ったとも言われています。
他にも唯一の伏見城の攻之図や、民間としては大変貴重「混一疆理歴代国都之図」などが展示・公開されています。

地方のお寺さんに併設されている、いわゆるB級資料館は、たいして期待できないことがあるのですが、本光寺の資料館はA級並の貴重な展示が多かったです。
展示されている書状に至っては、織田信長佐久間信盛上杉謙信、河田長親、石田三成穴山信君木曾義昌北条氏規北条氏政、徳川家康など早々たるメンバーです。
ルソン壺もありました。

以上、島原を再訪した際にはまた訪れたい常盤歴史資料館がある本光寺でした。

さて、丸尾城・本光寺への行き方・アクセスですが、下記の地図ポイント地点が、境内駐車場の場所となります。

大人300円の資料館は年中無休で、朝9時~17時となっています。
本光寺から車で5分ほど所には、薬園の遺構となる島原藩薬園跡もあります。
島原城を訪問した際には、この本光寺もセットで訪れたいものです。

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