松井康之と本能寺の変 細川家重臣

松井神社

2020年「麒麟くる」明智光秀公を主人公とした大河ドラマが決定し、前回は細川ガラシャの義理の妹、細川伊也姫について綴らせて頂きましたが、今回も細川家と本能寺の変に纏わる人物について、わたくし個人の見解の元、綴らせて頂きたく思います。
松井康之(まつい-やすゆき)という人物をご存知でしょうか?
上杉景勝には直江兼続伊達政宗には片倉小十郎、細川家には松井康之とまでいわれる人物です。

天文19年(1550年)室町幕府幕臣の松井正之公の次男として、京都郊外の松井城に生まれた武将です。

第13代将軍、足利義輝公に仕えていましたが、永禄の変において義輝公と自身の兄である松井勝之公が、三好三人衆らによって暗殺されます。

その後、兄に代わり家督を継ぎ、幕臣の細川藤孝公(幽斎)と行動を共にし、後に織田信長公の家臣となりました。
ですが実際には、細川藤孝公の家臣であったと云われております。

細川藤孝

天正9年(1581年)羽柴秀吉公が鳥取城攻めを行なった際に、水軍衆を率いて参戦。
秀吉方の付城に兵糧を入れる一方、鳥取城に兵糧を運ぼうとしていた毛利水軍を撃退し、毛利氏家臣・鹿足元忠公を討ち、その勢いで伯耆・泊城を攻めるなど活躍します。
この功績を信長公から賞賛されたと云われております。

その後、藤孝公が丹後国の領主となり、康之公は丹後松倉城(久美浜城)を任せられます。

松倉城跡

天正10年(1582年)の本能寺の変後、藤孝公が出家すると、息子の忠興公に仕えます。

慶長17年(1612年)に死去。享年63歳。
大変頭がキレる人物であり、何度も細川家の危機を救いました。死去するまで細川家に忠義を尽くし、細川の為に機転を利かし働きます。

ではこの松井康之という人物が、本能寺の変とどのような関係があるのか?
それについて綴らせて頂きます。

本能寺の変が起こった際、中国地方にいた羽柴秀吉公が、どのようにして織田信長公の死を知ったのか?

現在伝えられている仮説の一つに、明智光秀公からの毛利へ向けての使者を、羽柴の兵が偶然捕まえ、秀吉公が信長公の死を知ったとする説があります。
ただこれは現実味が薄すぎて、後の創作としか思えません。
そして中国大返しの現実離れしたスピード…

ならば予め、本能寺の変の計画と信長公の死を、秀吉公に知らせる役割を担った者が居たと考えられないでしょうか?

織田信長公は中国攻めをしている羽柴秀吉公からの要請で、自ら中国へ向け出陣する決意でおりました。
その際に細川忠興公は、明智光秀公らと共に「先陣として出陣せよ」と、信長公より命を受けておりました。

この時の細川家は、明智家の与力、または組下とされており、細川家からすると明智光秀公は、軍事上の上司にあたる関係だったと云われております。

その明智軍が丹波亀山城を出立し、6月2日の未明に本能寺を襲撃しているにも関わらず、6月3日の時点で細川父子は、京から遠く離れた丹後宮津にいたとされております。

これは、怠慢を理由に織田家老であった佐久間信盛公を、高野山へ追放した信長公の命に対し、頭の良い藤孝公らしからぬあまりにも怠慢な態度であり、かなり危険な行為と思われます。

本来ならば、信長公の命に従い、京へ出陣していてもおかしくないはず。本能寺の変が起こることを知らなかったのならば、京の近くで謀反の知らせを聞いていたのではないでしょうか?

そもそも明智光秀公は、元は細川藤孝公の家臣だったと云われております。

頭が良く、文学にも長け、歌も詠む光秀公を藤孝公が気に入り、色んな場所へ共として連れて行っていたとも伝えられております。

また明智光秀公の娘の玉子姫(後のガラシャ)と、細川藤孝公の嫡男、忠興公は婚姻関係でもあります。

そしてこの時の細川家は、明智家の与力、または組下。
更に丹後は光秀公の領地の後背に位置つくわけであり、娘の舅親である藤孝公の同意なしに、光秀公が本能寺襲撃を決起するとは考えにくいのでは…

ならば、細川藤孝公が明智光秀公より、織田信長公を討つ計画があるということを、事前に聞いていたとしても、おかしくないのかも知れません。
本能寺の変が起こることを知っていたからこその怠慢だとすれば、6月3日の時点で宮津にいたことも、納得がいく気が致します。

山崎の合戦後、羽柴秀吉公から細川藤孝、忠興親子に対し、自身の味方となってくれたことへの感謝の手紙が残っているだけでなく、光秀が治めていた土地が褒美として細川家に与えられ、禄も加増されているそうです。
また、細川藤孝公の筆頭家臣であった松井康之公に、加増分の1/3を与えるよう秀吉公からの指示もあったと…

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鳥取城攻めの際に康之公が秀吉軍と共に戦い、秀吉公の勝利に貢献したことがあります。二人は親しい間柄であったのかも知れません。
ただ、山崎の合戦後の褒美として秀吉公から直接、康之公へ褒美が与えられた点は、疑問が残ります。
当時の慣習として秀吉公から藤孝公へ褒美を与えることはあっても、藤孝公の部下の康之公に対し秀吉公が直接、褒美を与えるという行為はかなり異例のため、並々ならぬ理由があったということ示します。

並々ならぬ理由…それこそが、松井康之公が本能寺の変の際に、何か大きな役割を担っていたからなのでは?と、推測されないでしょうか?

本能寺の変後、細川藤孝、忠興親子は髷を落とし、織田信長公の喪に服し、玉子姫を幽閉し、中立の立場を守ります。
更に、細川藤孝、忠興父子へ向けて光秀公が送ったとされる「六月九日付けの光秀書状」は、書かれている内容や、筆跡、花押の状態、当時の藤孝公を示す「長岡兵部大輔」の記載がないこと等から、藤孝公が偽書を造ったのではないのか?と推測する方々も多いようです。

よくよく考えれば、織田信長、信忠父子の首が見つからなかったにも関わらず主君の喪に服すのはおかしな行為であり、むしろこの行為は、明智光秀公と密約が確立されていたか、羽柴秀吉公によって、やむを得ぬ事情が発生した為と観る方が理解ができます。

また、羽柴秀吉公は松井康之公を通じた細川藤孝公からの情報で、早い段階で中国大返しの準備をしたとも考えられます。
それならば、中国大返しのあのスピードも納得できます。

これらにより、細川藤孝公は自身の重臣である松井康之公を通じて、明智光秀公の動向を羽柴秀吉公に連絡させていたものと考えられ、その中で本能寺の変が起こることが伝えられていたと、推測されないでしょうか?

なんにせよ、松井康之公が本能寺の変の際に、何か大切な役割を担っていたのでは?と、私は思います。

戦国最大のミステリーと言われる本能寺の変のキーパーソンは、まさに松井康之公ではないでしょうか。

6月2日、法華宗大本山本能寺にて、毎年、信長公忌が行われます。


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大河ドラマ「麒麟がくる」では、松井康之公は登場するのでしょうか?描かれ方は?
それもまた、楽しみの一つです。

(寄稿)在原 叶

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