三浦道寸と相模・岡崎城の遺構~岡崎四郎義実の墓


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相模岡崎城(おかざきじょう)は、相模の名門・三浦義明の弟である三浦四郎義実が、鎌倉幕府の樹立前に岡崎に移って岡崎義実(岡崎四郎義実)と称して築城したのが始まりとされています。
岡崎義実は「悪四郎」とも呼ばれた猛勇な坂東武者です。

その後、1455年頃には三崎城(新井城)主・三浦時高(三浦介)が相模・岡崎城奪います。
これは、分倍河原の戦いの隙をついたようです。

三浦時高(三浦介)には嫡子がおらず扇谷・上杉持朝の次男である上杉高救の子を養子に迎えて、1462年に家督を継がせました。
この上杉高救の子は三浦道寸(みうら-どうすん)と呼ぶ方が有名だと思いますがこれし出家後の名で、三浦義同(みうら-よしあつ)と言います。
※先に父・上杉高救が三浦時高の養子となったする説もあります。
これにより、実質的に、三浦時高が扇谷上杉家に従い、相模国主を認めてもらったと考えて良いでしょう。
上杉高救(三浦道寸)は、小田原城主・大森氏頼と三浦時高の姉妹の間に生まれた娘と結婚しました。

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その後、鎌倉公方(のちの古河公方)となった足利成氏関東管領・上杉憲忠が争った享徳の乱を経て、韮山には鎌倉に入れなかった堀越公方も誕生しますが、1486年、扇谷上杉家の上杉定正が太田道灌を暗殺する事件が起こります。
これが起因なのかはよくわかりませんが、三浦義同(三浦道寸)・三浦高救と、岡崎城の養祖父である三浦時高とは不和となります。
三浦義同(三浦道寸)と三浦高救はついに追放され、山内上杉家の上杉顕定、そして、小田原城の大森氏頼を頼り、三浦義同は出家して三浦道寸と称するようになりました。
※三浦時高に実子である三浦高教が生まれた為、不和になったと言う説もあります。
いずれにせよ、三浦家の家中も2つに分裂したようです。

1494年9月になると、三浦道寸は、大森家の家督を継いだばかり?の大森藤頼の支援を受けて、三浦家の本拠地である三崎城や新井城を攻撃し、養父だった三浦時高と、その子・三浦高教を自刃に追い込み、三浦家を掌握しました。
その後、三浦道寸は実子の荒次郎(三浦義意)に家督を譲り新井城(三崎城とも?)に入れると実父・三浦高救が補佐し、三浦道寸自らは岡崎城主となっています。

しかし、1495年頃と推定されていますが、韮山城主の伊勢宗瑞(北条早雲)が、大森藤頼の小田原城を奪取します。
※年代は諸説あり。
そのため、三浦道寸は大森藤頼を岡崎城に迎え入れて保護し、更に勢力拡大を狙う伊勢宗瑞(北条早雲)と対立するようになりました。

ちなみに、1498年に伊勢宗瑞(北条早雲)は、上杉朝良・三浦道寸と同盟を一時結び、上杉顕定の伊豆に関して、北条早雲が伊豆半島をもらい、三浦道寸が伊豆諸島を領有しました。
しかし、立河原の戦いにて、北条早雲と上杉朝良が上杉顕定を破ると、扇谷上杉家傘下の三浦道寸は再び対立し、1510年には小田原城を攻め、また北条早雲も岡崎城を攻めています。

ただし、岡崎城は「要害」だったとの文献もあり、約17年間に渡り北条家から岡崎城を守り抜きましたが、1512年、ついに岡崎城は北条早雲により陥落しました。
1512年8月、古河公方家と山内上杉家の内紛の乗じて、北条早雲は和睦を破棄し、相模の最大勢力であった岡崎城を急襲したのです。

三浦道寸は住吉城(逗子市)へ撤退し弟・三浦道香を頼りましたが、三浦道香も討死すると、新井城へ退却し、扇谷上杉家へ援軍を要請しました。
しかし、北条早雲は玉縄城を築城し、援軍の太田資康を蹴散らして討ち取り、三浦道寸は新井城にて籠城を続けます。
約3年に渡る過酷な籠城だったと推測できますが、海からは舟で補給もできていた模様です。
しかし、1516年に総攻撃を受けて、三浦道寸は家臣らと共に壮絶な最後を遂げ、三浦氏は滅び、北条早雲は相模を平定しました。
「北条五代記」には十字状に切腹をしたと記されております。
子の三浦義意(みうら-よしおき)は、父の切腹を見届けたあと、敵中に突撃しました。

この時の新井城の戦いで、港一面が血で染まって油を流したようになったことから、現在ヨットなどが停泊している湾は「油壷」と呼ばれるようになっています。

また、三浦市三崎町には三浦道寸の墓があります。

相模・岡崎城

相模・岡崎城の位置は、相模のほぼ中央にあり、国を統治するのには最適と思われる場所です。
岡崎の丘陵は最高地点が標高36mです。
その南側の麓の道路が標高10mですので、比高は26mとなります。
このように平野に突き出た小高い丘陵のほぼ先端部にありますが、北側とは比高20mほどであり、付近の地形を見る限りでは、とても要害とは思えません。

相模・岡崎城

しかし、古文書では「要害」との記述があり、確かに南側から道路を進んで行くと、ちょっとした坂道となっています。

もっもと、南・東・北の底地には大きな湿地帯があったそうですので、西側の守りを強化すればよく、関東特有の攻めにくさはあったものと推測致します。

相模・岡崎城

上記の「無量寺」の辺りが本丸と推定されているようで、岡崎城碑も境内にあります。

相模・岡崎城

無量寺の場所ですが、下記の地図ポイント地点となります。

なお、近くに岡崎義実の墓(岡崎四郎義実の墓)があると言う事で、そちらもお参りしてみました。

無量寺から北へと坂道を下る途中、左側に「岡崎四郎義実の墓」と言う案内板がありました。

岡崎四郎義実の墓

それを辿って、畑の中の道を進んで行きます。
その辺りは、どうも「空堀」のような跡地もあります。

相模・岡崎城

そして、ずっと歩いて行きましたが、あちこちに技巧的な曲輪跡のような形状も見受けられました。
ほとんどが畑になっていますので、後世に土地改良したのか、戦国初期の状態のままなのかは分かりません。
しかし、見る限り、かなり無量寺の本丸付近を中心に、周辺までかなりの防衛体制があった規模もある城域だった可能性もあるのかな?と感じました。
ただし、小田原の北条氏による戦国時代の改良まではされなかったと言う印象ですが、色々と想像を掻き立てられる、なかなか興味深い岡崎城でした。

さて、岡崎義実の墓(岡崎四郎義実の墓)がある場所ですが、下記の写真地点から入ります。

岡崎義実の墓

ちょっと分かりにくいので、下記にて改めて地図ポイントしておきます。
地図の南側から畑の中にあるこんもりと茂った斜面に入って行く感じです。

下記がその岡崎義実の墓(岡崎四郎義実の墓)となります。

岡崎四郎義実の墓

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