本多忠勝 猛将伝 徳川四天王

本多忠勝


「戦国最強は誰か」戦国時代好きが四人、五人と集まれば、必ずと言っても良いほどこの話題が持ち上がるのではないだろうか。
数多いる強者の中で、著者には強く推したい人物が一人居る。
徳川家康に仕え、生涯57回戦場に赴き、かすり傷一つ負わなかったという猛将を皆様はご存知だろうか。
そう、徳川四天王の一人、本多忠勝(ほんだ-ただかつ)だ。
幼少期から歴史史料を読み漁る事が日課だった著者が初めて彼に出会ったのはもう思い出せないくらい遥か昔である。
それでも、本多忠勝に初めて出会った日の心の奮えは今でも鮮明に思い出す事ができる。姉川単騎駆け、一言坂の奮戦、小牧長久手の豪胆、関ヶ原の冷静。
語り始めれば、本多忠勝の武勇譚は枚挙にいとまがない。
本多忠勝が最強? 違うだろ、戦国最強は上杉謙信だ、いやいや、島津義弘だよ、いーや、立花宗茂だ、などなど、反論は多々ある事だろうが、本記事では本多忠勝の生涯と魅力を存分に語らせて頂く。
一人でも多くの読者諸氏があの日の著者のように、忠勝の勇姿に魅了されて頂ければこの上なく幸せだ。

<1>

天文17年(1548年)3月17日、三河国西蔵前で本多忠高、小夜(松平家臣、植村氏義の娘)の間に第一子が誕生した。
名を鍋之助。後の本多忠勝である。
本多忠高は松平清康、広忠、松平二代に仕えた忠臣で、槍の名手として知られていた。
忠高の父、つまり鍋之助の祖父にあたる忠豊も槍の名手として名高く、戦場に立てばとてつもなく強かった。
後年の、鍋之助の活躍を思えば、祖父と父の血を色濃く受け継いでいたと言えよう。
鍋之助が生まれた日の2日後、天文17年3月19日、尾張の織田信秀が三河国に侵攻してきた。
今川家の太原雪斎と松平広忠はそれぞれの手勢を率いて、三河国小豆坂で織田軍を迎え撃った。
子が生まれたばかりで発奮したのか、忠高はこの戦で第一の功をあげている。
いつか、鍋之助と馬を並べて戦場を駆け回りたい。
この時、忠高の胸にはそんな夢が拡がっていた事だろう。だが、忠高の夢は儚くも散る事になる。


小豆坂の戦いの1年後、天文18年(1549年)3月19日、今川、松平両家と織田家との間で勃発した安城城を巡る戦いで忠高は戦死してしまう。
単騎で敵中に躍り込み、散々敵兵を討ち取った直後、全身に矢を受けて果てるという壮絶な最期だった。
薄れゆく意識の中、忠高の脳裏をよぎったもの、それは、鍋之助の笑顔だったのかもしれない。鍋之助の泣き顔だったのかもしれない。もしくは、立派な武士に成長した鍋之助の姿だったのかもしれない。
本多忠高、享年22歳。松平家きっての勇士に突然訪れた早すぎる死であった。
妻、小夜は忠高の遺体と対面した時、一切泣かなかった。
忠高の弟、忠真が、「我慢せず、泣いてもよろしいのですよ、義姉上」というと、小夜はゆっくりと首を横に振り、「鍋之助を強い男に育てなければなりません。泣いている暇などないのです」と、応えた。
後に、小夜は本多の女傑と呼ばれるようになる。
父、忠高の死後、鍋之助は叔父、忠真の元で養育される事となった。

<2>

鍋之助は13歳で元服し、名を本多忠勝と改めた。烏帽子親は5歳年上の主君、松平元康だった。
早くから槍の天稟を見せていた忠勝の将来に誰もが夢を馳せていた。
永禄3年(1560年)5月12日、松平元康の主筋である今川義元は尾張に兵を進めた。
今川家と織田家の尾張を巡る戦で松平元康を始めとした三河武士たちは尖兵として前線に送り込まれる。
永禄3年(1560年)5月18日、松平元康は今川義元の命令で三河国大高城に兵糧を入れる事になる。
この時、大高城に隣接する丸根砦と鷲津砦は織田方に占領されていた。
忠勝の叔父、忠真率いる本多隊は敵から丸根砦を奪い返す役割を担っていた。本多忠勝の初陣である。
皆の期待に応えようと勇んで戦場に臨んだ忠勝だったが、13歳の小僧が簡単に手柄を挙げられるほど戦は甘いものではなかった。
思うような手柄を立てられぬまま、無慈悲に刻だけが過ぎてゆく。
やがて、丸根砦を守っていた織田方の将、佐久間盛重が討ち死にし、味方の勝利で忠勝の初陣は終わろうとしていた。
この時、強い功名心が若い忠勝を衝き動かしたのだと著者は想像する。戦が終息に向かう丸根砦を背に残し、忠勝はまだ交戦中だった隣の鷲津砦へ走ったのだ。
手柄を挙げようと鷲津砦に斬り込んだ忠勝だったが、はやる想いは空回りを繰り返すばかりであった。忠勝は織田軍の将、山崎多十郎に馬から落とされ、殺されそうになる。山崎多十郎の槍が忠勝の体に届く寸で、どこからか槍が飛んできた。槍は山崎多十郎の体を貫き、忠勝は危ういところで命を拾った。叔父、忠真が投げた槍だった。
味方は丸根、鷲津両砦を奪取し、大高城の兵糧入れは成功したが、忠勝にとっては、ほろ苦い初陣となった。
この翌日、今川軍は田楽狭間で小休止していたところを織田軍に急襲され、今川義元は戦死した。
これをきっかけに元康は今川からの独立を決意するのだった。

<3>

今川家の城代が放棄した岡崎城に入り、元康は独立を宣言した。小さいながら、戦国大名、松平元康の誕生である。
その2年後の永禄5年(1562年)1月15日、元康は織田信長と同盟を結ぶべく尾張、清洲城へ赴く。
清洲訪問の際、忠勝は元康に供奉している。ちなみにこの時、供奉衆の中に榊原小平太という名の男が混じっていた。
この男は忠勝と同年で徳川四天王の一人、後の榊原康政である。忠勝と康政は親友同士であったと伝えられている。さて、清洲の城下町に入った松平一行。
織田信長は油断ならぬ人物、と考えていた忠勝は常に元康の前を歩き、彼を護衛した。
かくして、織田信長、松平元康両者の間に、同盟は成った。この頃、織田信長は美濃の斎藤義龍との対決機運が高まっていた為、今川家が尾張に進攻してこぬよう、松平家を東の蓋にと考えていたのかもしれない。
三河に地盤を築かんと、元康はかつては主筋である今川家との対決を本格的に開始する。
そして、忠勝にも初陣の雪辱をそそぐ機会が訪れた。
永禄5年4月8日、松平軍は三河国鳥屋根城を攻めた。


実に、初陣から2年という歳月が流れていたが、忠勝は未だ手柄首を挙げていなかった。この頃の忠勝はもどかしい想いを抱きながら悶々とした日々を送っていたことだろう。
そんな忠勝を心配していたのであろう叔父の忠真は鳥屋根攻めの開戦早々、自らの槍で串刺しにした敵の侍大将を忠勝の傍に寄せ、「この首を刎ねてお前の手柄にせよ」と言った。
この言葉を受けて忠勝は、「人に譲られた手柄にどれほどの価値があろうか」と叫ぶや、敵中に躍り込み、別の侍大将の首級を取って忠真の元へ戻ってきた。
その忠勝の姿を見た忠真は、「将来、必ずやお家の為になれる人物だ」と感嘆を漏らした。
この時、本多忠勝15歳。猛将伝説の始まりだった。
三河を巡る今川との戦で数々の武功をたてた忠勝に元康から与力50騎が与えられた。麾下を持った事で忠勝の戦い方は幅が拡がり、手柄は更に増えていった。
翌、永禄6年(1563年)、松平元康は名を家康と改名する。『元』という字は今川家の通字である。それを捨てるというのは完全に今川家と手を切り、独り、自らの足で戦国に立つという家康の強い決意が籠められていた。
本多忠勝の奮闘もあり、松平家は今川家に連戦連勝を重ねる。家康の三河支配は順調に進んでいった。しかし、この頃、三河では不穏な動きを見せ始めている勢力があった。
三河一向宗である。

<4>

本多忠勝の代名詞の一つに、蜻蛉切という長槍がある。天下三名槍の一つで、その名の由来は羽を休めようと槍の刃身に止まった蜻蛉が真っ二つに裂けた事に由来する。
蜻蛉切は笹穂形の刃身で、全長は六メートルに及んだという。当時、一般的な槍の長さは二メートルから三メートル超と言われていたので、蜻蛉切がいかに大きな槍だったかがよくわかる。
忠勝が蜻蛉切を遣い始めたのは三河一向一揆が勃発した、永禄6年頃からではないかと思われる。
一向宗側の将兵たちに『大槍の平八郎』とあだ名され、恐れられていたという記録が残っているのだ。
三ヶ寺守護使不入の禁を松平家の者が破ったからなど、三河一向一揆が勃発した理由は諸説あるが、要は家康の折り合いのつけ方が悪かったのだ。今川からの独立を宣言し、家康は早く地盤が欲しくて一向宗にまで気が回らなかったというのが真の理由ではないだろうか。
忠勝の本多家は代々一向宗を信仰していた。
本多正信など多くの身内が一向宗側に付く中、忠勝は家康への忠義を貫く事を決意する。忠勝は母、小夜の前で頭を床板に付け、改宗を申し入れた。
この時代、先祖代々の信仰仏を捨てるというのは生家を捨てるのと同じくらいの重さがあった。
この時、忠勝は母との別れをも覚悟していたのかもしれない。
忠勝の想いを聞いた小夜は、「家よりも主君への忠義を選ぶ。それこそ真の武士じゃ」と、大いに喜び、一向宗から浄土宗への改宗を決意した。
母からの承認を得た忠勝は戦場で暴れ回った。
『死なば極楽』そんな旗を掲げ、本来死を恐れない筈の一向宗が忠勝の姿を見れば、一斉に逃げ回り始めたというから、その奮戦ぶりは相当のものであったと想像できる。
そんな忠勝の姿を見た三河の人々は『蜻蛉が走れば蜂の子散らすなり』と囃し、賞賛した。
家康は一向宗との戦いの中で何度も命を落としそうになるが、忠勝たち家臣に護られながら、勝利を重ねてゆく。そして、永禄7年1月15日、一向宗側から申し込まれた和議を受け入れ、家康はこの大乱を治めた。

<5>

永禄9年(1566年)三河を統一した松平軍の中に新たな軍事機構が設けられた。旗本先手役である。
この部隊は戦になれば、常に本陣の傍に配置され、家康の命を護ることを主命とする最精鋭部隊である。
この旗本先手役の一人に19歳の本多忠勝が抜擢された。ちなみに同年の榊原康政も旗本先手役に選抜されている。
今川や一向宗との戦役で数多の戦功を挙げ続けた忠勝は名実ともに松平家の中枢にのし上がってゆくのであった。
この頃、忠勝は妻を娶っている。松平家の家臣、松下弥一の娘、乙女である。
乙女は両親を早くに亡くし、三河国の妙源寺に預けられ、養育されていた。
妙源寺は本多家の菩提寺で、忠勝の祖父と父の墓がある。
四、五歳の頃、忠勝は孫子の兵法を学ぶ為、妙源寺で暮らした事があった。
忠勝が乙女と初めて出会ったのはこの頃であったのではないかと考えられる。


この乙女という女性は後に、忠勝の第一子となる女児、小松を産んでいる。
公私共に充実してきた忠勝。武士として更なる磨きがかかってゆく。
永禄9年12月29日、家康は松平から徳川に改姓し、三河守護の地位に就く。
そして、家康の今川家への攻撃は激化していくのだった。
遠江を徳川、駿河を武田、同時に攻め込まれた今川氏真は領土を放棄し、相模の北条家に落ち延びていく。
南北朝の頃から名門でならした今川家の実質的な滅亡だった。

<6>

永禄10年(1567年)、6月頃、家康は本拠地を三河の岡崎城から遠江の浜松城に移した。忠勝の住居も同地に移り、浜松城城区内に屋敷を設けた。
この頃から忠勝は巨大な数珠を右肩から袈裟にして、戦場に臨むようになった。
忠勝は、討ち取った敵を弔う気持ちをいつも忘れたくなかったのだ。
血生臭さ漂う戦の中に生きながらも、忠勝はどこまでも人であろうとした。
数多の武勇伝を持ちながら、忠勝には荒んだところがひとつも見当たらない。大数珠の逸話もそうだし、教練の時、不器用に槍を遣い、わざと部下に負けて自信をつけさせてやったなんて話も伝わっている。
娘、小松に対しても甘過ぎるくらいに甘く、一度も叱る事をしなかった。その結果、小松はかなりのじゃじゃ馬に育つのだが、その話はまた後の章で語らせて頂く。
彼は朴訥で優しい男だったのだ。
それでもやはり、戦になれば鋭く、誰よりも強かった。
そんな本多忠勝の名を畿内初め、日の本に広く知らしめたのは元亀元年(1570年)4月12日、近江国で起きた姉川の戦いだろう。
足利義昭を伴い、入京した織田信長は破竹の勢いをもってして、天下統一に向かっていた。
信長は命令に従わない越前の朝倉家を攻めた。この頃、徳川家康は信長の軍事行動に随行していたという話だから、忠勝も越前攻めの陣中に身を置いていたのだろう。
織田、徳川連合軍は越前、金ヶ崎で朝倉軍を押しに圧した。優勢に戦を運び、勝利目前の織田、徳川連合軍だったが、撤退せざる負えない事態が起きる。
信長の妹婿、近江の浅井長政が裏切り、背後を衝いてきたのだ。
織田、徳川連合軍と浅井、朝倉連合軍は近江国姉川を挟んで対峙する。浅井軍が三田村、朝倉軍が野村という場所に布陣した。
徳川軍は朝倉軍に当たることになった。
この戦いで、本多忠勝が大いに躍動する。
「敵陣を縦に伸ばしたい。誰ぞ策はないか」
家康がこう言うと、前に出てきた人物が居た。忠勝だった。
「我にお任せを。朝倉軍を引き回してご覧にいれます」
言うや、忠勝は馬に飛び乗り、馬首を姉川の向こう、朝倉軍の方向へ向け、駆け出した。
朝倉軍1万の中を忠勝は単騎で駆け回った。蜻蛉切が車輪のように回転する。強者の首級を挙げんと朝倉兵が忠勝に殺到する。
まるで触れてはならぬものに触れたかのように、朝倉兵たちは次々と中空に舞い上がった。
屍の道を作る忠勝を巨影が包む。忠勝の行く手に一人、大柄の男が立ちはだかった。
朝倉家の猛将、真柄直隆だった。
直隆の愛刀は太郎太刀という大太刀で、刃長だけで一メートル八十センチ以上あった。
本多忠勝、真柄直隆。両者名乗り合い、一騎打ちを始める。
名槍蜻蛉切と名刀太郎太刀がぶつかり合う様は大迫力であったに違いない。二人の闘いは忠勝有利の形で、直隆が馬を離した。
伸びきってしまった軍の横っ腹に徳川軍の榊原康政率いる一隊が突っ込んできて朝倉軍は総崩れになってしまったのだ。この救援に向かわざるおえず、直隆は忠勝との一騎打ちを放棄した。
強者に出逢うは武士の誉れ。この時、直隆は後ろ髪を引かれる思いであったに違いない。この戦の終盤に直隆は徳川軍の向坂三兄弟の手により討ち取られている。
姉川の戦いは織田、徳川連合軍の勝利に終わった。戦後、信長は緒将が居並ぶ前で「花も実もある男である」と、忠勝の戦いぶりを褒め称えた。信長が他家の家臣を褒めるのは珍しいことだった。

<7>

本多忠勝の名声は畿内に広く知られ、誰もが彼を尊敬するようになっていた。本多忠勝24歳。脂が乗りきり、武将としての絶頂期を迎えていた。
その頃、京では信長と足利義昭の対立が深まり、両者の溝はもはや修復できない所まで来ていた。そして、義昭は全国に密勅を発布した。信長を討て、と。
先の姉川で辛酸を嘗めさせられた浅井、朝倉を初め、各地の武将たちはこぞって、これに呼応した。
周囲を敵に囲まれ、信長はたちまち窮地に陥る。
同じく、家康にも危機が迫っていた。遠江の東で虎が動き始めていたのだ。甲斐の武田信玄である。
当初、相模の北条氏康の対応に負われていた信玄は義昭の密勅が届いても信長包囲網参加に乗り気ではなかった。
そんな中、元亀2年(1571年)10月2日に事態は急変する。北条氏康が病死し、武田と北条の間に甲相同盟が復活したのだ。
これにより、信玄は北条への備えを解除できる状態となった。信玄の眼は真っ直ぐ西に向く。
かつて武田信玄は京へ登り天下に号令を発する事を夢見ていた。東の憂いが消えた事で信玄の心に上洛熱が再燃したのだった。
元亀3年(1572年)9月12日、武田軍2万2千は青崩峠を越えて遠江の北へ侵攻した。
この報を受けた家康は、本多忠勝と大久保忠佐を伴い、天竜川を越えて偵察に出た。北遠の向城を破り、信玄が天竜川の手前に迫ってくるまで早ければあと2、3日というところか。
天竜川を越えられれば、浜松城はもう目と鼻の先である。徳川側としては何としても武田軍を天竜川の手前で食い止めたかった。
陣を張るのはどこが最適か。兵を埋伏させる場所は。家康は一言坂や磐田原台地の地形を調べに調べた。
しかし、この時、武田軍は家康の想像を上回る速度で進軍してきていた。
家康が偵察に赴いたこの日、武田軍はこの場所に辿り着いてきたのだった。
武田軍が北遠への攻撃を開始したのは10月16日。家康が偵察に出掛けたのは10月17日である。
武田軍は僅か1日で北遠のほとんどを平らげ、天竜川の手前、磐田原台地にまで迫ってきたのだ。
この尋常ならざる神速の行軍は遠江国人衆が家康の元で一枚岩になっていなかった事が原因であると考えられる。
犬居城天野景貫を初め、ほとんどの城がまともな交戦をせず、武田軍に道を開けてしまったのだ。
そこに居る筈のない武田軍の出現は徳川軍を大いに動揺させた。
陣形もままならぬまま、徳川軍は磐田原台地の下、一言坂で武田軍とぶつかった。
右往左往する徳川軍の中で怯むことなく武田軍に突撃する騎馬武者の姿があった。忠勝である。この時、忠勝は鹿角兜に黒威糸の甲冑を着けていた。
忠勝は殿軍となり、家康が天竜川を渡るまでの刻を稼いだ。
忠勝が布陣した場所は一言坂の下だった。対して、坂の上に布陣する武田軍の先鋒は歴戦の名将馬場信春である。兵数は忠勝隊5百ほど、馬場隊は5千であった。
10倍の兵数を擁する敵、坂の下の不利、どちらも、忠勝にとっては絶望的な状況である。
ここで忠勝は鬼神の戦いを見せる。一言坂の両側に点在する民家に火をつけ、煙幕を作った後、坂の下から武田軍を押し返したのだ。


十分の一しか数がいない敵に坂の下から押され、百戦錬磨の馬場信春も、さぞ眼を丸くした事だろう。信春が坂の上の有利を忘れてしまうほど、忠勝の奮戦は凄まじいものだった。
激戦の最中、武田軍の小杉左近が手勢を率いて忠勝の更に下に回り込み、鉄砲を撃ちかけた。
腹背をとられ、最早これまでと忠勝は覚悟を決め、天竜川を見た。浜松方面の陸に家康が渡ったのを確認し、忠勝は馬首を回す。
大滝が流れ落ちるが如く、忠勝は小杉左近の部隊に突撃した。
我は最早死に兵。一人でも多くの敵を道連れにする。忠勝はそれだけを考えていた。
ぶつかる刹那、小杉左近は兵を左右に分けて、忠勝に道を開けた。
小杉左近は忠勝の見事な戦いぶりを目の当たりにし、殺す事が惜しくなっていたのだ。
「本多平八郎忠勝と申す。武士の情けをご存知のお方とお見受けする。名をお聞かせくだされ」
忠勝が言うと、小杉左近は「小杉左近と申す乱心者。ささ、本多殿、私の気が変わらぬうちに早よう行きなされ」と、応えた。
忠勝は馬上で一礼してから駆け去った。
その後、一言坂の道脇に小杉左近が書いた立て札が上げられた。
立て札にはこんな文面が躍っていた。
『家康に過ぎたもの二つ。唐のかしらに本多平八』
忠勝の戦いぶりは敵すらも魅了してしまったのだった。
この時の忠勝の戦いぶりを家康は「忠勝の姿が八幡神に見えた」と言って称賛した。

<8>

一言坂で徳川軍を蹴散らした武田軍は家康の本拠浜松城ではなく、二俣城に兵を向けた。二俣城は徳川領のちょうど真ん中、臍の位置にあった。
これを抑えれば兵站はどこへでも繋がり、遠江攻防戦は武田軍有利へと、大きく傾く。
家康は本拠である浜松城の守備にばかり気が行き、二俣城は手薄にしていた。
一方、信玄は最初から二俣城が肝であると考えていた。
このあたりに、信玄と家康の戦略的力量の差が垣間見える。
元亀3年12月19日、二俣城は武田軍の手に落ちた。
これにより、浜松城は裸同然の状態で武田軍を迎え撃つことになった。
家康が選択した策は籠城だった。
武田軍は2万2千、一方、徳川軍は織田からの援軍を合わせても1万を少し超える程度の兵数だった。双方には倍以上の兵力差があったのだ。家康が籠城策を選択したのは当然であったと言えよう。
しかし、最終的に徳川軍は城から撃って出る事になる。
武田軍は浜松城の手前で突如進路を変え、三方ヶ原台地に向かい始めたのだ。
この報告を受けた家康は信玄が浜松城ではなく、まずは三河を攻めようと企てていると考えた。ならば、武田軍が祝田の坂を下るところで背後を衝けば痛撃を与えられるのではないか。
家康の内心には、これ以上信玄にやられてばかりでは家臣たちの心が離れていってしまうのではないかという焦りがあった。
数人の家臣が止めるのも聞かず、家康は全軍引き連れて浜松城から撃って出たのだった。
陣形は鶴翼。この時、本多忠勝は本陣の右備えに配置されていた。
徳川軍は三方ヶ原台地を駆け上がり、祝田の坂に近づいた。いくら武田軍が精強でも背後を衝かれれば総崩れになる事は必至。
この家康の思惑は見事に外れた。祝田の坂の手前、武田軍は徳川軍の方を向き、魚鱗の陣を組んでいた。家康は信玄の誘引の計にまんまと嵌まったのだった。
忠勝の正面、つまり武田の左備えは見渡す限り真っ赤な軍装の兵が揃っていた。
この当時、日の本最強の野戦部隊と呼び声高かった赤備えが忠勝の真正面に布陣していたのだ。
最精鋭部隊と対峙し、忠勝の心は奮えた。
先の一言坂でぶつかった馬場信春もそうであったが、赤備えを率いる山県昌景も武田軍にその人ありと恐れられた名将である。
忠勝の全身が総毛立つ。蜻蛉切の柄をしごき、忠勝は眼前、真っ赤な人溜まりを睨みつけた。
一方の山県昌景も好敵が我が前に来たりと喜んでいた。
先の一言坂の戦いの折り昌景は奥三河から遠江への移動の途上であった為、実際には見てはいないが、徳川軍の中に本多忠勝という活きの良い若武者が居たという話は馬場信春や小杉左近から聞いていた。
鹿角兜、黒縅糸の甲冑、天を衝かんばかりの大槍。眼前の男の軍装は信春に聞いていた姿とぴたり符合する。
昌景は嬉々として、馬腹を蹴った。いくさ人はいつ何時も強者との出会いを喜ぶものである。
開戦早々、三方ヶ原台地は徳川軍の兵の屍体で埋め尽くされる。徳川軍は次々と武田軍に撃破されていった。
兵数、士気、どちらに於いても武田軍は徳川軍を凌駕していた。もはや、徳川軍は瓦解寸前だった。そんな中、本多忠勝率いる一隊だけが意地を見せる。日の本最強と言われる山県昌景の赤備えを潰走させたのだ。
忠勝は昌景の首を取る寸前まで行ったが、本陣の危機を知り、そちらの救援に向かった。
家康の居る本陣は武田軍の厳しい追撃に晒されていた。
そして、忠勝の背後にも武田軍が迫っていた。
「ここはわしが食い止める。忠勝、お前は早く殿の傍へ行け」
そう言って、殿軍に下がったのは忠勝の叔父、忠真だった。
忠真は自らの両側に旗指し物を立て、「これより後ろには一歩も下がらぬ」と吼え、武田軍を迎え撃った。
宣言通り忠真は旗指し物より一歩も下がらず、武田軍を相手に槍を振るい続けた。
やがて力尽き、忠真は前のめりに倒れる。この時、霞む彼の視界には先に死んだ兄、本多忠高が見えていたのかもしれない。
忠真が兄、忠高に語りたい事、それはきっと、本多忠勝という見事な武士になった鍋之助の話であったに違いない。
本多忠真、三方ヶ原にて散る。享年39歳。猛将、本多忠勝の基礎を作った男は父や兄と同じく、見事な最期を遂げたのだった。

<9>

運も実力のうち、という言葉があるが、家康は尋常ならざる強運の持ち主であったと言える。
三方ヶ原の大敗により徳川軍敗色濃厚となっあ、遠江攻防戦。元亀4年(1573年)正月、勝利目前で武田軍は信濃への撤退を開始する。
理由は信玄の病状が悪化したことだった。
信玄は西上作戦以前から病に罹患していた。胃癌であったと伝わっている。
信濃への帰路、武田信玄は死んだ。徳川軍にとってはまさに僥倖だった。こういった、強運の積み重なりが後に家康を天下人に押し上げたのかもしれない。
武田軍撤退後、徳川軍は奪われていた三河の長篠城奪還に成功している。
その二年後の天正3年(1575年)5月21日、この長篠城を巡る戦いが徳川家康と信玄の後継者武田勝頼の間で勃発した。
この戦には徳川の同盟相手である織田も参戦している。
織田徳川連合軍と武田軍は長篠城の近くにある設楽ヶ原にて対峙した。
この時、本多忠勝は胸を躍らせていた。
武田の見事な男たちとまた槍を合わせる事ができる。やはり、いくさ人は敵であろうと味方であろうと強い者を愛する傾向があるのだ。
忠勝はこの戦の前、同年の榊原康政に首級の数を競い合おうと持ち掛けている。戦う前から忠勝は心技体、すべてが充実していた。
しかし、この戦は忠勝が望むような槍をぶつけ合う戦いにはならなかった。


織田軍が持ち込んだ一万挺の鉄砲が一斉に火を噴いたのだ。さらに、用意された多くの馬防冊に騎馬は阻まれ、武田軍は持ち前の機動力を全く生かす事ができなかった。
武田の騎馬武者たちは次々と鉄砲の弾に体を撃ち抜かれ、落馬していく。まさに、鉄砲という新時代の武器の見本市のような状況となっていた。
この戦で忠勝が戦場の真ん中に出ていってに槍を振るうような場面はほとんどなかった。
そんな中、武田の古強者、内藤昌豊が徳川の本陣に侵入してくる。これを忠勝は康政と協力して討ち取っている。
三方ヶ原で忠勝と名勝負を繰り広げた山県昌景、一言坂でぶつかり合った馬場信春、次々と名将たちが被弾し、死んでいく。
そんな様を眺め忠勝は嘆いた。
「お味方の勝利は目前です。何を嘆かれておりますか?」
傍らの部下に訊かれて忠勝は、「武田の見事な男たちが次々と死んでゆく。もう我が心が戦で奮える事は一生涯あるまい」と応えた。この戦から数日間、忠勝は元気を無くしていたという。
戦は織田徳川連合軍の大勝で幕を下ろし、勝頼は命からがら信濃へ逃げた。
この7年後、天正10年2月、織田徳川連合軍の甲州征伐が始まる。設楽ヶ原以後、勢いを失っていた勝頼は連戦連敗を重ね、とうとう天目山に追い詰められる。
同年3月11日、勝頼は自刃し、山中にてその生涯に幕を下ろした。これにより、名門武田家は滅亡し、歴史からその名を消した。
最大の敵、武田家を滅ぼし、いよいよ天下の覇権は織田信長が握る。誰もがそう思っていた。

<10>

天正10年5月、家康は信長に招かれて近江安土城に赴いている。
甲州征伐における徳川軍の活躍に対し、信長は謝意を込めて家康を一行を豪華な料理などで存分にもてなした。
この一行にもちろん、忠勝も随行していた。
他に、酒井忠次大久保忠世、榊原康政、井伊万千代、服部半蔵など、そうそうたる面子が顔を揃えていた。
武田という大敵を除き、この時ばかりは忠勝も肩の力を抜いていた。が、しかし、驚天動地の事件が起きる。
「信長、京、本能寺にて明智光秀に討たれる」
この急報が届いた時、家康一行はゆるりと堺見物をしていた。
信長を討った光秀は当然、同盟者である家康のことも亡き者にせんと考える。この時、三河に続く街道各所は明智軍の兵で溢れ返っていた。
この時、家康は忠勝たち剛の者を連れていたが、兵は連れてきていなかった。明智軍と遭遇すれば、勝ち目はなかった。
「京に登り、松平家ゆかりの知恩院で自害する」
そんな事を叫びながら取り乱す家康を宥めたのは忠勝だった。
忠勝は、「伊賀を越え、船で海を渡り岡崎に帰る経路を辿りましょう」と家康に進言した。それでも狼狽が治まらず、弱気な言葉ばかりを口にする家康を忠勝は励まし続けた。
これより遡ること4年前に天正伊賀の乱が勃発していて、決して伊賀は安全な地とは言えなかったが、そこは伊賀忍者である服部半蔵がうまく縁故のものを懐柔しながら一行は無事に、かの地を越えた。
そして、船で海を渡り、家康一行は岡崎に帰りついた。
家康は忠勝に「お前がわしを説得してくれなければ、こうして再び岡崎の地を踏む事はなかった」と言って感謝した。

<11>

信長の死後、誰よりも迅速に動いたのは羽柴秀吉だった。
秀吉は常軌を逸した速さで中国から畿内にもどり、山崎の地で明智光秀を討ち取ってしまったのだ。
その後、秀吉は賤ヶ岳で柴田勝家を打ち破り、信長の後継者の地位を確固たるものにしていった。
秀吉が信長の地盤を掌握する事に大いなる不満を抱く人物が居た。信長の次男、信雄である。
秀吉の謀略によって安土城を追い出された信雄は浜松に密使を送り、家康と結んだ。
家康は信雄を支援する事を快諾する。天正12年(1584年)3月16日、尾張の地にて、秀吉と家康は血を流し合う事になった。
歴史上、最初で最後となる両雄の戦いは争闘が繰り広げられた地名から小牧長久手の戦いという名称がつき、現代に伝わっている。


この戦いの序盤、徳川陣営で輝きを見せたのは年若い井伊直政だった。直政は井伊の赤備えと呼ばれる精鋭部隊を率いて織田軍の将、池田恒興を討ち取る大活躍を見せている。
戦の始まり、忠勝の蜻蛉切はおとなしかった。が、しかし、さすがは東の猛将である。忠勝はちゃんと見せ場をつくっている。
迫りくる羽柴軍20万の前に忠勝は僅か5百騎を率いて進み出た。何か奇策か、と秀吉は進軍を止めた。
この時、家康は小牧城に退却する途上であった。家康の退却を滞りなく終わらせる為に忠勝は羽柴軍の前に姿を見せたのだった。
大軍を前に、忠勝は一切の怯みを見せなかった。それどころか、単騎で前に進み出て龍泉寺川の水で馬の口をすすいだ。
その姿を見た秀吉の配下加藤清正などは、「あの男の首を刎ねてやりましょう」と鼻息荒く言った。
秀吉はゆっくりと首を横に振り、「寡兵で強気に見せているのは、家康を遠くに逃がす為であろう。なんという豪胆か。あのような配下を持つ家康が羨ましい」と言って、忠勝に攻撃を加える事を赦さなかった。
小牧長久手の戦いは終始徳川側が羽柴側を圧倒していたが、最後は秀吉と信雄和睦し、終息した。戦術で徳川が勝ち、戦略で羽柴が勝ったというような結果となった。この後、家康は秀吉の軍門に降る。
天下は豊臣秀吉に傾いてゆくのであった。

<12>

忠勝の第一子となる娘、小松が生まれたのは天正元年(1573年)の事である。産んだのは側室の乙女だった。
ちなみに、正室の於久の方が乙女より後に、忠勝の妻になったのだが、嫡男、忠政を産んだ事から、正室於久、側室乙女という序列になっている。
初めての子で娘という事もあり、男親の忠勝は小松を大いに甘やかした。叱られる事なく、自由奔放に育った小松は女性らしい所作などとは無縁の、槍を愛するじゃじゃ馬娘に育ってしまうのだった。
忠勝の娘だけあって、槍の腕は相当のものであったと言われている。田畑を荒らす暴れ馬を小松が打ち据えたなんて伝承も残っているほどだ。
そんな小松に人生の転機が訪れたのは天正15年(1587年)3月の事だった。
長年、家康と敵対関係にあった真田家は秀吉の命令で徳川家の与力大名となった。
それを契機に徳川家と真田家の間に婚姻関係が設けられる事となった。それで、白羽の矢が立ったのが小松だった。
真田昌幸の嫡男、信之の元に小松を輿入れさせようと家康は画策したのだ。
最初、真田昌幸は徳川家臣の娘という理由でこの話を拒絶した。ならば、と家康は小松を自らの養女とし、再度、真田昌幸に婚姻話を持ち掛けた。家康の娘なら、と昌幸は婚姻話を快諾した。
さて、小松は江戸城にて夫となる真田信之と対面した。
この時、小松15歳。真田信之は家康を前にして平伏の姿勢である。
ここで、小松はとんでもない行動に出る。なんと、信之の髷を掴みあげ、顔をまじまじと観察し始めたのだ。武士の髷を掴みあげるなど失礼千万なる行為だ。
しかし、当の小松に一切の悪意はない。幼少の頃から忠勝が叱ってこなかったので小松は物事の善し悪しがいまいちよくわかっていなかった。
髷を掴まれた真田信之は怒り心頭し、小松の手を振り払い立ち上がるや、この男勝りのじゃじゃ馬娘を張り倒してしまった。
この時、小松の全身を衝撃が駆け抜けた。顔を張られた事はもちろん、ここまで怒りを露にした男の姿を見たのは初めてだった。
それどころか小松は男というのは何があっても怒らないものだと思っていた。それほどに忠勝の甘やかしはひどかったのだ。
また、真田信之の勇気も素晴らしいものである。
下手をすれば、この信之の行為は徳川との同盟話を潰し、今や天下の支配者たる豊臣秀吉への背信にも繋がる。それでも信之は武士としての面体を護ろうとしたのだ。
そんな信之に小松は心を奪われた。どこかで小松は自分の間違った部分を正してくれる男を求めていたのかもしれない。
こうして、本多忠勝の娘、小松は真田家に嫁いでいった。
後日、忠勝は真田昌幸と会談する機会があり、江戸城で小松が張り倒された話を聞いた。
昌幸が「私の倅が忠勝殿の愛娘に手を上げてしまった。ずぬ」と詫びると、忠勝は逆に頭を下げ、「俺がやらなければならなかった事をそなたのご子息がやってくれた。感謝する」と言った。
忠勝は真田昌幸、その息子信之、信繁と心を通わせていく。
忠勝と真田家の間に生じたこの絆が後に徳川家と本多家を対立寸前にまで追いやる事になろうとは、この時、誰も知る由はなかった。

<13>

『西には立花宗茂がおり、東には本多忠勝がいる』
豊臣秀吉はよくこう言って、東西の猛将の話を好んで行ったという。
いつの日か、この両将を自分の前に並べてみたい。秀吉のこの夢は天正18年(1590年)5月に叶う。
日の本のほぼすべてをその掌中に収め、秀吉はまさに我が世の春を謳歌していた。
そんなさなか、大坂城に諸大名が集まった折り、本多忠勝、立花宗茂両将が顔を揃えた。
秀吉は二人を両脇に座らせ、大層満悦したのだった。
その夜、旅籠に帰った立花宗茂は苛立ちながら酒を煽っていた。九州武士たる自分が秀吉の自己顕示欲を満たす為の道具として扱われたのだ。
大坂くんだりまで来て、なにをやっているのだ、俺は。あの場で見せ物としての立場を甘んじて受け入れた自分自身にも腹が立っていた。
やけ酒を続ける宗茂に旅籠の女将が来客を告げにきたのは夜も更けてきた頃だった。
「誰だ」と宗茂は寝そべり、酒を呑みながら女将に問う。
「立派な身なりのお武家様ですよ。本多忠勝殿と名乗っておられます」
宗茂は弾かれたように立ち上がり、玄関へ走った。しこたま呑んだ酒の酔いもすっかり醒めていた。
玄関へ行くと、そこに立っていたのは間違いなく本多忠勝、その人だった。


「忠勝殿、一体」困惑したまま宗茂が問うと、「夜分にすまぬ」と、忠勝はまず、夜分の訪問を詫びた後「宗茂殿に礼を言いたくてな」と続けた。
宗茂は首を傾けた。本多忠勝と会うのは今日が初めてである。感謝をされる覚えなど一つもありはしないのだ。
困惑する宗茂をよそに忠勝は続けた。
「昼間の宴、貴公が耐え忍んでくれたおかげで場が立った。九州武士の精神力、しかと見せて頂いた」
この時、本多忠勝43歳、立花宗茂24歳だった。忠勝は20近く年下の宗茂を訪問し、礼を尽くしたのだ。
しかもこの頃、忠勝は大多喜城十万石の城持ち大名に登っていた。そんな地位も名声も兼ね備えた人物が夜中に自分を訪ねて謝辞を述べてくれた。
この事に宗茂は激しく感動し、「ささ、中へどうぞ。この若僧に本多平八郎殿の武勇譚を存分にお聞かせ下され」と言って忠勝を旅籠の部屋に招き入れた。
宗茂のやけ酒は一瞬にして楽しき酒へ変わるのだった。

<13>

慶長3年(1598年)9月18日、京都伏見城にて豊臣秀吉が病死した。
息子、秀頼に秀吉は五大老(前田利家、徳川家康、毛利輝元上杉景勝宇喜多秀家)を後見人としてつけ、息を引き取った。
この五大老筆頭である前田利家が慶長4年(1599年)3月に病死した事により、家康に好機が訪れる。家康は自分に反目する勢力を着々と駆逐していき、天下奪りの準備を進めていった。
この家康の行動に待ったをかけた人物が居た。豊臣恩顧の臣、石田三成である。
三成は豊臣家に心を寄せるものたちの中心となり、家康に対抗した。
家康につくもの、三成につくもの。天下は二つに分かれた。
いつしか、家康率いる軍が東軍、三成率いる軍が西軍と呼ばれるようになった。
忠勝の娘、小松の嫁ぎ先である真田家は歪な形になっていた。
真田昌幸とその次男信繁は西軍につき、小松の夫である信之は東軍についた。
真田は家中で真っ二つに割れてしまったのだ。
敵味方に分かれれば、気軽に顔を合わせる事はできなくなる。
最後に孫の顔を見たいと思った昌幸は信之の居城である沼田城を訪問した。沼田城の大手門は固く閉ざされていた。
昌幸が訪問の理由を告げ、開門を願うと、応対に姿を現したのは小松だった。この時、信之は留守にしていたのだ。
城楼に立った小松は具足姿で槍を持ち、大手門を閉ざしたまま言い放つ。
「ここは東軍の城。西軍の者は一切通せぬ」
孫の顔が見たい、と昌幸が懇願するも、小松は同じ言上を繰り返した。
そして、こうつけ加える。
「どうしても入城するならば、本多忠勝が一子、この小松がお相手する」、と。
昌幸は肩を落として、城を後にした。昌幸は嫁に来た小松を大層に可愛がり、この親子は元々仲が良かった。
去り行く昌幸の背中に小松は、「すまぬ、義父上」と呟いた。後日、小松は子供たちを連れて昌幸が宿泊している寺を訪問している。

<14>

各地で東軍、西軍の小競り合いが繰り返されていた。
そして、慶長5年(1600年)9月15日、美濃国不破郡関ヶ原にて、両軍は戦端は開かれた。
天下分け目のこの戦。忠勝は軍監として参加した。齢53歳になり、蜻蛉切も1メートル近く切って短くしていたが、本多忠勝はやはり、本多忠勝だった。
薩摩から西軍の一手として合戦に参加していた島津勢の銃撃により愛馬三国黒を失い落馬するも、忠勝は徒立ちになり、敵の首級を90も挙げたのだ。
戦後、東軍で参加していた福島正則がこの奮戦ぶりを誉めると忠勝は、「なんの事はない。相手が弱すぎたのだ」と、笑って応えた。
関ヶ原の合戦は徳川家康の東軍方圧勝で幕を閉じた。


さて、忠勝にとって本当に厄介な戦はこの後に待っていた。
娘婿の真田信之から、「父と弟の命を救って下され」と懇願されたのだ。
前述した通り、真田昌幸、信繁親子は西軍方につき、合戦に参加していた。
事実、真田昌幸は徳川秀忠関ヶ原遅参の原因となる妨害も行っている。彼の親子に対する家康の憎しみは相当に深く、処刑は必至だった。
忠勝にとって真田一族は他人ではない。娘、小松は嫁ぎ先で昌幸から大層可愛がられていると聞く。
忠勝は家康の元へ赴き、真田昌幸、信繁親子の助命嘆願を行った。
しかし、何度も真田昌幸に煮え湯を呑まされ続けてきた家康は、「ならぬ。真田親子は斬首とする」と、首を縦に振らない。
「ならば」と忠勝は意を決して言う。
「お館様と一戦交えるしかありません」
忠勝のこの言葉に場にいた家臣一同がざわめいた。
本多正純が忠勝を窘めたという。
どこまで忠勝が本気だったかはわからないが、この時の気迫は相当のものだったようで、家康を大いにたじろがせた。
結局、真田親子の斬首は取り止めとなり、昌幸と信繁は領地召し上げの上、九度山に蟄居となった。
慶長8年(1603年)家康は江戸に幕府を開いた。世が徳川の色に染まってゆく。戦乱の時代は終わりに近づき始めていた。

<15>

関ヶ原の合戦後、忠勝はそれまで居城としていた上総国大多喜城を次男の忠朝に譲り、伊勢国桑名城城主となった。
この時、側室の乙女も共に桑名城に入っている。
東海道の整備や町割りに尽力した忠勝は桑名藩初代藩主として、領民たちに慕われた。
戦のない平穏な時代は次第に忠勝を時代の表舞台から消していく。
江戸幕府は本多正純ら文治派がその中枢を担い始めていた。
慶長7年(1602年)2月11日には井伊直政が慶長11年(1607年)5月14日には榊原康政がそれぞれ病死した。
かつて徳川三傑、徳川四天王と称され、共に戦場を駆け巡ってきた同僚の死の報告を忠勝は寂漠の想いで聞いていた。
そして、忠勝自身も慶長12年(1608年)から眼病を煩い、慶長14年(1609年)6月には隠居し、家督を嫡男、忠政に譲った。
隠居後、忠勝は桑名城で静穏な日々を送っていた。
ある日、忠勝は自分の持ち物に名前を彫ろうと小刀を扱っていた。
その時、誤って、自分の指を切ってしまった。
戦場に赴くこと生涯57回。一度も傷を負わなかった男の、初めての負傷だった。
指から滴る血を眺めながら忠勝は「こんな傷を負うようでは、本多忠勝もおしまいだな」と、呟いた。
その数日後、忠勝は床から起き上がる事ができなくなった。
忠勝はこの時、自らの死期を悟った。
忠勝は乙女に頼み、娘の小松、嫡男忠政、次男忠朝を桑名城に集めてもらった。
枕元に集まった小松たちをゆっくりと見回してから忠勝はこう言った。
「侍は首取らずとも不手柄なりとも、事の難には臨みて進み出て、主君と枕を並べて討ち死にを遂げるのを侍という」
徳川家への忠節を忘れるな。忠勝が娘息子に伝えたかった事はそれである。
慶長15年(1610年)10月18日、桑名城の一室にて家族に見守られながら忠勝は息を引き取った。享年63歳。


戦の中で激しく生きてきた男は静かに旅立っていった。
さて、長々と綴らせて頂いたこの記事もここで終了とさせて頂きたい。
最後まで読んで下さったすべての皆様に感謝。本当にありがとうございました。
では、最後に本多忠勝時世の句をご紹介させて頂く。

『死にともな。ああ死にともな死にともな。深きご恩の君を思えば』

(寄稿)達也

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