佐伯城と栂牟礼城~佐伯惟治・佐伯惟定と佐伯城主の毛利高政


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佐伯城(さいきじょう)は、別名を鶴屋城、鶴ヶ城、鶴谷城とも言う、平山城で比高は135mです。
しかし、佐伯城は関ヶ原のあとになってから築城された近世の城です

戦国時代、佐伯を治める佐伯氏で、大友義鑑に従っていた佐伯惟治(さえき-これはる)は、1527年頃までに栂牟礼城(とがむれじょう)を築く本拠としていました。
栂牟礼城は、佐伯城から西に約2kmの方角にある、標高224mの堅固な山城です。(下記写真)

栂牟礼城

1527年、謀反の疑いを掛けられた佐伯惟治は、大友義鑑が派遣した臼杵長景ら2万の軍勢に攻められますが、天然の要害で落とせませんでした。
そのため、臼杵長景は一計を案じ、佐伯惟治にいちど日向へ退いた後、大友義鑑に申し開きする際に口添えするとして開城を説得します。
そして、佐伯惟治は僅かな手勢と共に日向へ落ちて行ったのですが、その途中、臼杵長景が用意していた土豪・新名氏によって襲撃され、1527年11月25日、尾高智山で佐伯惟治は自害しました。享年33。
子も自刃したため、豊後佐伯氏は別の系統にて佐伯惟常、佐伯惟教、佐伯惟真、佐伯惟定(さえき-これさだ)と続きます。

1578年、耳川の合戦で大友宗麟は島津勢に大敗し、佐伯惟教、佐伯惟真、佐伯鎮忠などが討死。
家督は佐伯惟真の子・佐伯惟定が継ぎました。

その後、主君・大友義統が改易されると、佐伯惟定も所領を失い、栂牟礼城を去り豊臣秀保を頼ります。
豊臣秀保の死後は、藤堂高虎の客将となり500人扶持となっています。

1600年、関ヶ原の戦いの際、佐伯惟定は宇和島城・留守居役を務め、佐伯家の家臣が藤堂勢に従っています。
1614年、大坂冬の陣で、佐伯惟定は10騎と40人を率いて参戦し、藤堂高刑の陣に加わっていました。
翌年の大坂夏の陣では、藤堂高吉と共に左先鋒を務め、戦後に4500石となっています。

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佐伯城

話を戻しますが、佐伯惟定が栂牟礼城を去ったあと、代わりに入封したのは毛利高政となります。
1595年9月に、日隈城主・毛利高政が加増を受ける形になったようで、角牟礼城の改修をしています。

この毛利高政(もうり-たかまさ)は、もともと織田信長に仕え、のち羽柴秀吉(豊臣秀吉)の馬廻衆となった森高次の子・森高政でした。
豊臣秀吉の中国大返しの際に、毛利輝元との停戦の人質として、羽柴家から出されたのが備中高松城に入っていた森重政と森高政の兄弟となります。
こうして人質となった森高政(森勘八郎)でしたが、毛利輝元に気に入られると兄弟の契りを結ぶことになります。
やがて豊臣秀吉の許しが出て、森高政の一族は大江姓の「毛利氏」を称して毛利高政と改姓しました。

ただし、毛利高政の正室は木曾義昌の娘であり、毛利本家と血縁があった訳ではなかったようです。
1587年、九州攻めでは舟奉行を務めた功績で、2万石(6万石とも?)で、毛利高政は日隈城主となりました。(1596年に日隈城を改修したとも)
従五位下民部大輔にも叙任されていますので、豊臣秀吉からの評価も高かったようです。

1590年の小田原攻めでは兵600を率いて参戦し、1597年からの朝鮮攻めでは軍監を勤め武功をたてています。
そして、佐伯惟定が栂牟礼城から退いた後、佐伯の加増を受けたようで、栂牟礼城を改修しています。
しかし、毛利高政は豊臣直轄地の代官だった時期もあり、実質的に九州の各地をいつから自ら知行したのかは、判別が難しいです。

分かっている事は、1596年に日田郡2万石の所領を与えられ、日田郡と玖珠郡にある豊臣家の蔵入地8万石と、佐伯2万石の豊臣直轄地の代官にも任じられたと言う事になります。

毛利高政は石田三成とは不和でしたが、1600年、関ヶ原の戦いの際に、毛利輝元が西軍の総大将になったため、毛利高政は西軍に組したようです。
そして、大坂・淀の橋の警固を担当した他、細川幽斎が籠城した丹後・田辺城(舞鶴城)の攻撃にも参加しています。
しかし、本国では中津城から黒田官兵衛(黒田如水)が、日隈城を包囲しました。
黒田家に同調した熊本城主・加藤清正も、家臣の吉村橘左衛門を日隈城に派遣して、開城を促していました。
黒田官兵衛は、9月24日に重臣・栗山利安を送って、日隈城に籠る毛利隼人佐・森慶則らを説得します。
森慶則は、まだ石田三成に味方すると表明していた佐賀城鍋島直茂の家臣宛に援軍要請もしましたが無視されたため日隈城を開城し、栗山利安が日隈城に入っています。

田辺城を落とした際には、関ヶ原の戦いで勝敗も決し、毛利高政は盟友・藤堂高虎の説得を受けて東軍に投降しました。
その後、藤堂高虎の助命嘆願もあり、毛利高政は改易ところか、減封もされていません。
これは、東軍として苅安賀城を守り、関ヶ原合戦にて福島正則に加わって討死した森勘解由の名跡を、毛利高政が継いだからとされており、以後は毛利伊勢守高政を称しました。

そして、1601年、毛利高政は、佐伯2万石へと転封となります。
この時、堅固な栂牟礼城は不便だと、新たに佐伯城の築城と、城下町の普請を開始しました。

佐伯城

なお、堅田・床木の2千石を再び弟・森吉安に分知していますが、佐伯藩の軍役分は2万石のままとされています。

また、これがややっこしいのですが、片桐且元により天領となった日田・玖珠2郡の郡代を、しばらく命じられました。

佐伯藩には「佐伯の殿様、浦でもつ」と言う言葉がある通り、漁業などの海産物が主な収入源で、林業も藩財政を支えたと言いますが、平坦な土地が少なかったので、農業は発展しなかったようです。

1606年に佐伯城が完成していますが、外様大名の宿命として江戸城駿府城、名古屋城と連続して、天下普請の参加を命じられており、また遠距離の参勤交代などもあり、佐伯藩の財政は悪化したようです。

1613年には、大久保長安事件に連座して配流となった石川康長の身柄を引き受けています。

1614年、大坂冬の陣では備前島・京橋の警固にあたりました。
翌年、大阪夏の陣にも出陣しましたが、到着したのは大阪城の落城後であったと言います。

そして、1628年11月16日、毛利高政は70歳で死去したました。

ともあれ、佐伯藩では第12代藩主・毛利高謙まで続き、明治を迎えています。

佐伯城

毛利高政が、江戸幕府に新城築城の願いを提出した際の第1候補地は女島山で、、第2候補に八幡山(現在の佐伯城)だったそうです。
要するに、許可が下りたのは、第2候補だったと言う事ですが、これは外様大名の本拠における新城申請には、第2候補にて許可すると言う、幕府の考え方があったようです。
ちなみに、女島山は佐伯市街地の東に位置する中江川の東岸にあります。

下記の櫓門(やぐらもん)は、三の丸御殿の正門として1638年に建てられた現存建物です。
立派な門ですが、近くで見ると結構痛んでおり、歴史を感じさせます。

佐伯城の櫓門

豊後佐伯城(鶴屋城)の虎口は、近世城郭としては小さくて、人が1人、通るのがやっとという感じだそうです。
先に立ち寄った臼杵城の散策が思っていたより時間超過してしまい、佐伯城は麓しか回らなかったので「だそうです」となり、申し訳ありません。

本丸を中心に左右に曲輪を伸ばしているその姿から、鶴屋城(鶴城)とも呼ばれました。

鶴屋城(鶴城)

佐伯城の築城当時は、本丸に3重天守があったと云われていますが、早くに落雷にて焼失したようです。
また、2代藩主・毛利高成のときまでは、山上に住んでいましたが、1637年、3代・毛利高直の時には櫓門を創建し、山麓に三の丸を増築して居所を移しています。
それ以降、佐伯城の本丸や二の丸は荒廃したようです。

総石垣造りですが、山城であり、山頂部の平坦部などは近世城郭としてはかなり狭いそうです。
そのため、大勢の兵力にて籠城するのは困難な様相だと言います。
よって、援軍を得て大軍で守る際には、栂牟礼城も活用する事を視野に入れていたとは思います。
もっとも、2万石ですので、そんな事になることは有りえないだろうと言う想定の元、藩政の象徴として佐伯城が機能すれば充分だったのでしょう。

下記は麓に残る城下町の面影で下記は移築されている薬医門となります。

薬医門(佐伯城)

下記は、佐伯藩・毛利家の菩提寺となる養賢寺です。
現在の修行僧が修行する禅寺と言う事ですので、立入は遠慮させて頂きました。

養賢寺

明治の文豪・国木田独歩の作品にも描かれている「安井の井戸」(あんせいのいど)は、8代藩主・毛利高標に仕えていた藩医・今泉元甫(げんぽ)が、飲料水に困っていた領民の為に私財を投じて掘った井戸の1つです。

安井の井戸

さて、佐伯城への行き方・アクセスですが、三の丸跡にある佐伯文化会館に、大きな無料駐車場があり利用できます。
ここには昭和40年(1965年)頃まで、御殿の一部が残っていたといいます。
下記の地図ポイント地点が、駐車場の入口です。

地図は縮尺を自由に変えて、ご覧願います。

その佐伯文化会館の北側から山上に向かって、独歩碑の道、登城の道、翠明の道、若宮の道と、4つの登山道があります。
そのうち中央の「登城の道」が昔からある正式な登城路で、他のはあとからつけられたようです。
ただし、登りは独歩碑の道(徒歩15分)で行くと石垣などを眺めながら本丸に入れるとの事です。

登り口の駐車場の近くに2015年5月「佐伯市歴史資料館」が開館しています。
この資料館は撮影可能で、佐伯城の模型や栂牟礼城の説明もあります。
また、野外展示物として三府御門(江戸後期)と毛利家御居間(明治期)があります。

JR佐伯駅から歩くと徒歩20分です。
なお、佐伯駅前に観光案内所があり、無料のレンタサイクル(貸自転車)もあります。

佐伯城の観光所要時間は約60分くらいだと思われます。
違っていたらコメントお寄せ願えますと幸いです。

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