獅子ヶ谷城~いがいにも非常に歴史が深い横浜の古城

獅子ヶ谷城

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武蔵・獅子ヶ谷城(ししがやじょう)は、別名を御薗城、獅子ヶ谷殿山とも言い、横浜にある平山城です。
標高は45m、比高は40mとなります。

新編武蔵国風土記稿に記述があり、慶長年間(1596年~1615年)には小田切光猶の居館がありました。
となると、関東の歴史に詳しい方は、お分かりになると存じますが、小田切光猶は徳川家の旗本と言えます。

それより以前にも、獅子ヶ谷城はあったようで、平安時代の武将・師岡重経に行きつきます。

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師岡重経(もろおか-しげつね)は師岡重保(しげやす)とも書きますが、この辺り武蔵・師岡保を知行していました。
父は秩父重隆の嫡男・葛貫能隆(くずぬき-よしたか)ですのど、秩父党の流れでしょう。
河越館が本拠でしたが、兄・河越重頼(かわごえ-しげより)は、当時の武蔵では最大勢力でした。

御薗(みその)と呼ばれる地名にある横溝屋敷の左奥から獅子ヶ谷城に登ってみました。

獅子ヶ谷城

1156年7月、保元の乱の際、兄・河越重頼と、獅子ヶ谷館主・師岡重経は、共に源義朝に従って戦いました。

14歳の源頼朝が伊豆に流罪になると、比企掃部允(ひきかもんのじょう)と、妻・比企尼は武蔵国比企郡に下校し、1180年秋まで約20年間、源頼朝を経済的に支援しました。
この、比企尼が生んだ次女を、兄・河越重頼は妻に迎えたため、比企尼の婿である安達盛長・伊東祐清と共に源頼朝を援助します。

しかし、秩父一族は、武蔵国司・平知盛(平清盛の4男)の配下であったため、1180年に源頼朝が挙兵した際には、当初、平家軍として参じています。
同じ秩父一族の畠山重忠からの要請に応じて、江戸重長ら武蔵の数千騎を率いて、衣笠城の戦いにて三浦義明を討ち取りました。

石橋山の戦いで敗れて、安房に逃れていた源頼朝が、三浦一族と合流すると、房総の千葉常胤・上総広常を傘下に加えて、再度挙兵します。
そして、10月2日に武蔵国へ入ると、10月4日に畠山重忠・河越重頼・江戸重長ら秩父一族は、長井の渡し(場所は不詳だが東京都心か?)にて源頼朝の傘下に加わりました。

この時もしくは直後に、獅子ヶ谷館の師岡重経(師岡重保)も兄に従って、源頼朝に合流を果たしたものと考えられます。

1182年、源頼朝と北条政子との間に嫡男・源頼家が誕生したすると、師岡重経は鳴弦の儀(弓を使用した誕生儀式)で鳴弦役を務めました。
また、兄の妻である比企尼の次女(河越尼)は、産所でる比企能員(比企尼猶子)の屋敷に乳母として召され、最初の乳を含ませる乳付けの儀式を行っています。

獅子ヶ谷城

秩父一族の河越氏も順風満帆に見えましたが、1184年に源義経が、源義仲の追討に京都に向か際に、兄・河越重頼は嫡男・河越重房と共に参陣したのが運命を変えます。

一ノ谷の戦い後に勝利した源義経は、鎌倉幕府の許可を得ずに、朝廷から検非違使を受けた為、源頼朝の怒りを買います。
この時、師岡重経(師岡重保)も朝廷から兵衛尉に任官しており、源頼朝から罵倒されました。
のちの逸話として「勘当を許して本領を返してやろうとしたものを、今となっては本領を返す事は出来ない。」とあるため、恐らくは所領没収になったものと推測されます。

その一方で、9月14日に、源頼朝の命によって、兄・河越重頼の娘・郷御前(さとごぜん)が京に上ると、源義経の正室となりました。
郷御前が嫁いだ5ヶ月後、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで源義経は平氏を滅ぼし京の都に凱旋します。

やがて、源頼朝と源義経の対立は決定的となり、1185年、源義経は後白河法皇から、兄・源頼朝追討の院宣を受けます。
そのため、師岡重経(師岡重保)の兄・河越重頼は、縁戚である事を理由に、11月12日に、所領である伊勢の香取5郷を没収され、他の領地は河越重頼の老母預かりとなりました。
そのあと、河越重頼と嫡男・河越重房と共に誅殺され、武蔵の実権は畠山重忠に移りました。

なお、元・獅子ヶ谷館の師岡重経(師岡重保)は既に所領没収になっていたからか?、殺害は免れており、源義経が自刃したあとの文治5年(1189年)7月19日、奥州合戦にも従っているのが見受けられます。

さて、没収されていた獅子ヶ谷館の武藏久良岐郡師岡郷は、鎌倉御家人の武藤頼平(むとう-よりひら)の墓が、師岡郷にあることから新たな領主となっていたようです。

獅子ヶ谷城

武藤頼平の子孫・武藤資頼は、武士でありながら公家の官職・大宰少弐を任じられ、大宰府の責任者となります。
その子孫は、少弐氏(しょうにし)を称して、戦国大名の少弐冬尚まで続くことになります。
毛利元就や島津家など、神奈川県から戦国大名となっていった武家はいくつもあります。

下記の獅子ヶ谷城の通路は、かつては堀切があったのかも知れません。

獅子ヶ谷城

獅子ヶ谷城の散策路は整備されていますので、歩きにくいこともなく、トレッキングポールも不要です。

獅子ヶ谷城

獅子ヶ谷城の本丸は、城の規模にしては、広さがあります。

獅子ヶ谷城の本丸

公園としての標識はありますが、かつて城であったと示すものはありませんでした。

獅子ヶ谷城

下記は獅子ヶ谷城・本丸からの展望です。

獅子ヶ谷城からの展望

戦国時代になって、師岡郷を与えられている小田切光猶は、もともと清和源氏の庶流で信濃国佐久郡小田切村の土豪となり、武田信玄の家臣だったようです。
小田切光信(小田切善兵街光信)が1542年の大門峠の戦いにて討死したとある他、寬政重修諸家譜によると長篠の戦いにて、小田切光季が討死しました。
武田勝頼が自刃して武田家が滅ぶと、小田切光季の子・小田切光猶が1586年に徳川家康に仕えます。
そして、慶長二年(1597年)に、相模国橘樹郡にて所領150石となりました。
この時、獅子ヶ谷城の麓に、居館を設けたと考えられます。

横溝屋敷

1607年に、小田切美作守が江戸城下に移る際、屋敷地の一部が地元の名主・横溝五郎兵衛に譲られたとされ、横溝家は17代を数えて今に至っています。
その横溝屋敷が「みその公園」として整備され無料公開されています。

横溝屋敷

保存されている横溝屋敷は2階建てになっています。
江戸時代の名主でも、2階建ては建築許可がでませんので、ひとめ見て、明治になってからの建物だとわかり、内部までは見学しませんでした。
あとで調べてみますと、明治29年(1896)頃の建築物だそうです。
ともあれ、主屋と蚕小屋があるのは貴重だと存じますので、火災などにあわず、引き続き残ることを願うばかりです。

横溝屋敷

なお、横溝家には獅子ヶ谷城を御薗城と呼び、かつて御薗氏の居城だったという伝承があるようですが、この御薗家(みその)に関しては、調べてみても、何もわかりませんでした。
平安時代より前と言う古い時代の人物なのかも知れません。

獅子ヶ谷城

獅子ヶ谷城の見学所要時間は約20分でした。
本丸の平坦部からは、いくつか降り口がありますので、帰り道は違うルートにすると良いでしょう。
夏は虫除けなど必須です。

獅子ヶ谷城

さて、みその公園にはちょっと前まで駐車場がありましたが、現在は住宅が建っており、横溝屋敷の駐車場はありません。
最寄りとしては、トレッサ横浜が駐車場3000台無料ですので、食事がてら利用させて頂きました。
下記地図のポイント地点は、トレッサ横浜の駐車場入口を印させて頂いております。

横溝屋敷奥の登城口は、下記のオリジナルGoogleマップにて明記してみました。
獅子ヶ谷城の部分をご覧願います。

神奈川県の城跡マップ(オリジナルGogoleマップ)
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