虎哉宗乙とは~伊達政宗を教え導いた臨済宗の僧~

虎哉宗乙

虎哉宗乙(こさい-そういつ)は、享禄3年(1530年)に美濃国(岐阜県)で誕生しました。
虎哉(以下より虎哉と記述する)は姓を福地氏、幼名を虎千代と言い、後に博覧強記の名僧となる片鱗を伺わせるエピソードがあります。
それは虎千代と名乗っていた頃の虎哉が少年時代の話で、近隣の寺から聞こえる読経を聞いていた虎千代少年は、それらを全て暗唱してしまったとする伝承です。

このように仏教に縁の深い逸話がある虎哉はいずれも甲斐(山梨県)の高僧である岐秀元伯、快川紹喜に師事して修業を重ねました。
名高き学僧として仏道修行に邁進する彼に転機が訪れたのは元亀3年(1572年)、陸奥国の大名である伊達輝宗の招聘を受けた時です。
虎哉は輝宗の叔父で東昌寺の住職でもある大有康甫と親しい間柄であり、一度は辞退するも輝宗から再び請われ、奥州へと赴きます。


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虎哉が住持として招聘された先は米沢(山形県)の資福寺で、彼は輝宗の嫡男である梵天丸(のちの伊達政宗)の教育を任せられました。
学僧、とりわけ臨済宗の僧が武将の教育や顧問になるのは珍しくありませんでしたが、虎哉が梵天丸に施した教育と言うのが変わっており、現代でも『へそ曲がり』『強情』と評されている言動の数々です。

著名なものでは『苦しい時に笑う』『熱い時に寒いと言う』ことを勧めたり、『他人の前では横になって寝ない』と戒めたなど様々な逸話がありますが、そうした強情さを吹聴するような教育をした理由としては、大将である人物が弱さをさらけ出さないようにする意図があったと言われています。

その実、天然痘で片目を失明した(一説にはそれが原因で母・義姫に愛されなくなったとも)上に父譲りの柔弱さを合わせ持っていた政宗は虎哉の巧みな教育で導かれ、乱世の奥州を統べる覇者への道を歩み始めました。
この教育は政宗が6歳から10歳で元服するまでの4年間続きましたが、その後においても政宗の相談役として虎哉は活躍します。

天正13年(1585年)に父輝宗を殺されて怒りに燃えた政宗が敵将・二本松義継の遺体を無惨な姿でさらす報復をしたために敵側の反抗を招いた時には諌めたとも言われており、
翌年には輝宗の菩提を弔うための覚範寺の開山となっています。

天正18年(1590年)に豊臣秀吉と政宗が面会した時にも白装束姿で覚悟を示した謝罪を進言し、翌年に一揆扇動の容疑で上洛を命じられた時にも悩み苦しむ政宗を気遣い、
「心を空にしてお行きになることです。敵意がないことをお示しなさいませ」
とアドバイスし、政宗は自分用の白装束ばかりか随員にも白装束、黄金の十字架を押し立てて行くことで感心した秀吉に快く許され、外交を大成功に終わらせます。
その後も虎哉は政宗の移封にも随行し、岩出山や仙台に移って伊達家に仕え続け、彼の影響を受けた政宗は瑞巌円福善寺を再興し、瑞巌寺として盛り立てました。

まさしく三面六臂の働きを見せた虎哉宗乙でしたが、慶長16年(1611年)に81年にも及ぶ人生の幕を下ろしました。
彼の功績は、本職である宗教家や名を高めた一因となった教育者に留まらず、先述した政治外交ないしは戦略の顧問、時には文学者としても発揮され、その薫陶で政宗が残した和歌・漢詩は傑出しており、後世においても絶賛の対象となっています。

逆境に耐えて名門伊達氏を奥州随一の武門に押し上げた伊達政宗の恩師と言うこともあって、虎哉は多くの歴史小説やそれを基にした作品に登場します。
中でも有名なのは山岡荘八さんの小説『伊達政宗』と、それを下敷きにした大河ドラマ『独眼竜政宗』で大滝秀治さんが演じた虎哉の活躍は御存じの方も多いことと思います。


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なお、虎哉は遺言で自らの遺体を荼毘に付した後、墓に入れたり木像を作る事を禁止したと言われており、彼の墓は残されていません(※1)。
政宗に説いたように自らも『空』と化してこの世を去った『へそ曲がり』を体現したと思えるのは、筆者だけでしょうか。

(参考先)

(寄稿)太田

平宗盛とは~暗愚の汚名を着た平家最後の当主~
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伊達政宗【詳細年表】~独眼竜・伊達政宗
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