カテゴリー:武田氏
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武田信玄の解説 智力溢れる戦略と人物像・性格・トイレは?
武田信玄 甲斐の虎と呼ばれた、戦国大名・武田信玄。 甲斐源氏の武田信玄(たけだ-しんげん)でしたが、甲斐国を統一した武田家でも、下剋上の世の中では、他の源氏の家系や親戚筋が権力を狙ったりと、闘争は絶えません。… -
戦国随一の名将「武田信玄」が苦杯を舐めた経済的不利とは?
日本戦国期の魅力の1つは、何と言っても日本全国に数多な戦国武将たちが割拠し、互いに政略や外交、そして合戦に鎬を削って、(時代小説やゲームなどの媒体の大きな存在に影響されているのも否めませんが)、我々現代人をも魅了するほど… -
馬場信春の解説 鬼美濃と呼ばれた勇猛果敢な武田家武将
馬場信春(ババノブハル) 1514年(1513年?) ~1575年5月21日 別称:旧姓は教来石、民部景政、氏勝、玄蕃、政光、信勝、民部少輔、民部大輔、馬場信房、美濃守 馬場信春は教来石信保(教来石遠江守信… -
原虎胤~鬼美濃と恐れられた武田家の猛将
原虎胤とは 原虎胤(ハラ-トラタネ) 1497年~1564年3月11日 元々、原虎胤の先祖は下総・千葉氏の名門・原氏である。 桓武平氏・平高望から18代目の原下総介氏胤が下総国千葉郡原郷に住み、原氏を称し… -
長篠の戦い(設楽原の戦い)の解説と考察 戦跡・史跡・場所・写真・地図
長篠城を包囲した武田勝頼に対して、徳川家康・織田信長が38000の援軍を派遣すると、武田勝頼が12000にて決戦を挑んだ長篠の戦い(設楽原の戦い)。 1575年5月、武田勝頼は、上杉景勝の抑えとして海津城の高坂昌信… -
武田信勝 織田信長と武田信玄を祖父に持つ御曹司
甲斐武田家の最後の当主は?と聞かれると誰もが一番初めに武田勝頼を思い浮かべると思います。 しかし、甲斐武田家滅亡直前に勝頼は当主を降りており、息子の武田信勝(たけだのぶかつ)に家督を譲っていました。 今回はあまり… -
武田信廉 武田信玄の影武者 画家としての才能も
武田信廉(たけだ-のぶかど)と言う武田信玄の弟がいますが、戦国時代では名が知れば知るほど暗殺のリスクが高まってしまいます。 戦国武将たちはそのリスクを回避するためにあるものを用意しました。 それは影武者です。戦国… -
武田信玄暗殺未遂事件 義信事件から見る武田義信
甲斐の虎と呼ばれ、徳川家康を恐れさせた武田信玄には家督を継ぐはずだった息子(嫡男)がいました。 名前は武田義信(たけだよしのぶ)ですが、信玄に謀反を疑われたことで廃嫡とされてしまい家督継ぐことはありませんでした。 … -
今福友清 今福浄閑斎とは
今福友清(いまふく-ともきよ)は、戦国時代の武将で、甲斐・武田氏の譜代家臣となります。 別名は、今福長閑斎(今福浄閑斎)とも書きます。 今福友清(いまふく-ともきよ)は、武田一族の譜代家老衆で、狩谷原城主であった… -
武田勝頼~偉大な父と比べられて~ 【戦国人物伝6】
前回の記事で、武田信玄を取り上げましたが今回はその息子・武田勝頼です。 勝頼の代で武田氏は滅びてしまいます。家を滅ぼした者が受ける避難の声は、その当人に非があったと言われます。 果たしてそうなのでしょうか? …