奥平定能と奥平信昌と亀山城~英雄・鳥居強右衛門と長篠城の戦い


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奥平定能(おくだいら-さだよし)は、奥山城主(作手城主)・奥平定勝(奥平貞勝)の嫡男として、1537年に生まれた。幼名は仙千代。監物丞、通称は美作守。
母は水野忠政の妹。

父・奥平定勝は、もともと松平家に従っていたが、松平清康が横死したあとは、今川義元に転じていた。
1560年5月の桶狭間の戦いの際には、今川勢であった松平元康が陣を構えた大高城に、兵糧輸送も行っている。

1564年2月に、今川氏真から離反して徳川家康に属すると、牛久保領・大沼領・大給領など3500貫文と、遠江3/1の知行を賜り、奥平美作守定能と称した。
以降は、徳川家康に従い、1570年6月28日の姉川の戦いにも参戦している。

1568年12月、甲斐の武田信玄が駿河の今川領へ侵攻を開始した頃から、武田の調略を受けるようになったようで、1571年3月頃には秋山虎繁秋山信友)の調略にて武田家に従属した。
この時、人質として萩城主・奥平勝次(奥平周防守勝次)からは次男の奥平虎之助(13歳)、岡崎の日近城主・奥平貞友からは娘・於フウ(13歳)、亀山城主・奥平貞能からは次男の奥平仙千代(10歳)が甲斐に送られた。
1571年4月の武田信玄による三河侵攻では田嶺菅沼氏・菅沼定忠、長篠菅沼氏・菅沼正貞(山家三方衆)と共に、奥平貞能らが案内役を務めている。

1573年1月、武田信玄による徳川領国への侵攻が開始されると、山家三方衆は武田家臣山県昌景の軍勢に加わった。

このあと、1573年春、野田城を陥落させた武田勢は、突然帰路につく。
やがて、秘匿されていた武田信玄の死を確信すると。1573年7月から徳川家康は長篠城を包囲。
武田勝頼は、長篠城の救援部隊を送ると、その武田勢の中に奥平定能も加わったが、救援を待たずに長篠城主・菅沼正貞は城を放棄して武田勢に合流。
長篠城は徳川勢の支配下となった。
無事に逃れてきた菅沼正貞は、徳川家と通じているのでは疑われ、救援の武田勢に身柄を拘束されている。

この時、奥平定能(奥平貞能)も徳川に内通しているのではと疑われたが、実は内通していたと言うが、武田信豊らには露見せずに済み、無事であった。
しかし、既に人質を出していた3人以外に、追加で人質を出すように要求されるなど、次第に立場を悪くして行く。

このように、徳川家康は奥三河の諸将を調略しており、奥平定能に対しては織田信長から、徳川家康の長女・亀姫を奥平定能の長男・奥平貞昌に与えるべしとの意見を受けて、3つの条件を提示する。

・亀姫と奥平貞昌の婚約
・領地加増
・奥平定能の娘を本多重純に入嫁させる

そして、どうも、武田信玄の死が確実であったこともあり、1573年6月22日に、奥平定能(奥平貞能)は内通の意を、徳川家康に伝えていた。

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こうして、1573年8月21日、賛同した一門衆と家臣を連れて亀山城から退去し、徳川家康を頼った。
この離反の報を受けた武田勝頼は、5日後の8月26日に、妻や次男・奥平昌勝(奥平仙千代)、分家である日近奥平家の娘・おふうなど人質3人を串刺し刑にしたと言う。

奥平貞能の次男・奥平仙千代(仙丸)を、鳳来寺の入口にある金剛堂前で処刑され、下記の通り奥平仙千代の墓がある。

奥平仙千代の墓

このあと(1573年)奥平定能(奥平貞能)は長男・奥平貞昌(奥平信昌)に家督を譲ると39歳で隠居した。
武田勢が吉田城まで迫ったのは1574年頃だとされるが、徳川家康のそばで、奥三河に関する助言をしたと言われる。

1575年5月、長篠の戦いでは、酒井忠次の軍勢に加わり、鳶ヶ巣山砦への奇襲に参加。
窮地に陥っていた長篠城の救援に貢献している。
その後は、子の奥平信昌を引き立たるため、表舞台から退いた。

1590年3月、豊臣秀吉小田原攻めに軍を進めた際、三河の額田郡長沢に逗留すると、豊臣秀吉から呼び出されて、長篠の戦いなどの話をしている。
その褒美として呉服を拝領し、都住まいを奨められた。
上洛すると美作守に叙任され、豊臣秀吉の相伴衆として2000石となっている。
豊臣秀吉薨去の際には、形見分けとして茶器や黄金を拝領したと言う。

1598年12月11日、伏見城下において病没。62歳。

奥平信昌と鳥居強右衛門

奥平信昌(おくだいら-のぶまさ、奥平貞昌)は、作手の亀山城主・奥平定能の長男として1555年に生まれた。
母は牧野成種の娘。

徳川家の傘下に復帰した1573年に家督を継承し、徳川家康によって大改修された長篠城主を任命された。剣術の達人であると言う逸話がある。
1575年1月に、叔父・奥平貞治や、一門衆の奥平定直らと長篠城に入り、前城主・松平景忠が傘下に加わった。
奥平貞昌(21)を筆頭に籠城の家臣は奥平勝正(40)も、鳥居勝商(36)、松平景忠(35)、生田勝重(26)、山崎信宗(25)、奥平定次(24)、奥平勝吉(22)、奥平貞友(21)、松平伊昌(16)など。
※()内は当時の年齢

この時、徳川家康がまだ若い奥平貞昌に、たった500だけの兵で長篠城を守らせたのは、武田勢をおびき寄せる作戦であったとも考えられる。
もっとも、高天神城の前例があったことから、危険な任務だと承知で奥平貞昌(奥平信昌)も引き受けたと言う事であろう。

1575年5月、武田勝頼が長篠城奪還のため15000を率いて長篠城を包囲。
武田勝頼は周囲に砦や陣地を築いて長篠城を孤立させた。

長篠城は背後を、川の谷なて守られていたが、包囲されてると城兵の脱出は困難な地形だった。

長篠城

奥平貞昌は兵500にて籠城し、200の鉄砲で応戦。
武田勢は5月8日に包囲網を完成させると、土木工事で城の施設の破壊を始め、13日には兵糧庫を焼いた。
長篠城では既に多くの家臣も討死し、本丸にまで追い詰められ、そのうえ兵糧を失っては長期籠城が困難であることから、奥平貞昌は岡崎城の徳川家康に救援を要請することにする。

しかし、武田勢15000の包囲網を突破して、65km先の岡崎城まで赴くのは、まさに命がけであったが、この困難な役目を雑兵・軽輩の類であったとされる鳥居強右衛門(鳥居勝商)が危険を承知で自ら志願したと言う。
鳥居強右衛門は妻子を城に残して5月14日、夜陰に紛れると長篠城の下水口から城を脱出。
得意の泳ぎを活かして、豊川を潜って武田勢の警戒を掻い潜り、長篠城からも見渡せる雁峰山に登ると、抜け出す事に成功したと言う合図の烽火を上げた。
長篠城からは歓声が上がったと言う。
その日のうちに岡崎城に到着して援軍を要請すると、既に徳川家康からの要請を受けた織田信長が30000の軍勢を引き連れてちょうど岡崎城に入っており、5月16日に長篠へ進軍する予定となっていた。
喜んだ鳥居強右衛門は、苦しい籠城を続けている仲間に早く伝えようと、急いで長篠城へ引き返したと言う。
5月16日の早朝、雁峰山にて合図の烽火を掲げたが、さらに詳しく報告する為、長篠城への入城を試みた。

ところが、長篠城の西岸にある有海村にて、武田の兵に捕縛されてしまう。
烽火が上がるたびに、長篠城から歓声が上がる事を不審に思い、武田勢は警戒を強めていたのだ。
取り調べを受けた鳥居強右衛門は、織田信長の大軍がやってくるから武田勢は早く帰れと言ったのだろう。

武田勝頼は長篠城を一刻も早く落とす必要性に迫られ「援軍は来ない。あきらめて早く城を明け渡せ」と、長篠城へ向かって叫べば、鳥居強右衛門の命を助けるばかりでなく、武田家の家臣として厚遇すると協力するよう命令した。
鳥居強右衛門は、長篠城の西岸の見通しの良い場所に立たされるが、最初から死を覚悟していた鳥居強右衛門は、長篠城に向かって「あと2~3日のうちに織田・徳川の援軍が来る。それまでの辛抱である」と大声で叫んだと言う。

援軍が来ることを知った長篠城の城兵らは大いに士気が上がったが、鳥居強右衛門(とりい-すねえもん)はその場(有海原の篠場野)で張り付けにされて、殺害されてしまう。(斬られたともある)享年36。

鳥居強右衛門

それから2日後の5月18日に、徳川家康と織田信長の38000は、設楽原に布陣。

酒井忠次と金森長近が率いる長篠城救援隊(松平康忠、松平伊忠、松平家忠、松平清宗、本多広孝、奥平貞能、菅沼定盈、西郷家員、近藤秀用、設楽貞通)は、5月21日早朝に、長篠城を包囲している武田勢の鳶ヶ巣山砦を後方より強襲。
武田勢の河窪信実、三枝守友、五味貞成、和田業繁、名和宗安、飯尾助友、高坂昌澄らを討ち取り、長篠城を救援することに成功した。
この奇襲部隊には奥平定能も参加している。 

同じころ設楽原では、武田勢が織田・徳川勢に攻撃を開始し、設楽原の戦いとなった。
戦いは約8時間、昼過ぎまで続き、山県昌景、馬場信春内藤昌豊、原昌胤、原盛胤、真田信綱真田昌輝土屋昌続、土屋直規、安中景繁、望月信永、米倉重継などが討死し武田勢は壊滅状態となる。 

長篠城では、鳥居強右衛門の死を無駄にしてはならないと、降伏せずに援軍が到着するまで見事に城を守り通した。

武田勝頼は、わずか数百人の旗本に守られて信濃の高遠城まで退却した。

これを受けて、徳川家康は三河を完全に掌握し、遠江の重要拠点である諏訪原城二俣城を攻略する。

長篠の戦いでは、小勢ながらも武田勢に屈しなかった奥平信昌(21歳)の武名は上がり、直臣ではないにも関わらず、有海のコロミチ坂(コロミツ坂)において賞賛され、織田信長から「信」の字を与えられて、奥平信昌と改名している。
徳川家康も、名刀・大般若長光を授けた他、籠城を支えた奥平家の重臣・山崎勝之、夏目勝治、夏目治定、兵藤勝末など12名に対し、1人1人に労いの言葉をかけ、彼らの知行地に関する約束事などを、子々孫々に至るまで優遇する事を保障するという御墨付きを授けている。
そして、父・奥平貞能は正式に家督を奥平信昌に譲った。

長篠城は、大きく破損したこともあり、奥平信昌は1576年に新城城(しんしろじょう)を築城し、長篠城は廃城となる。
この時、長篠城の櫓などは新城城に移築されたと言う。

そして、徳川家康の長女・亀姫(築山殿・瀬名姫の娘)が新城城へ輿入れした。
以後、徳川家康の縁者となった奥平信昌は、岡崎譜代の家臣に引けをとらぬ待遇を受ける事となる。

1579年、奥平信昌は酒井忠次に随行する形で、徳川家康の使者として安土城へ赴いている。
しかし、その後、亀姫の兄・徳川信康が、命により身柄を拘束されて切腹となった。
その後、徳川信康付きの重臣であった鳥居重正が、奥平家で身柄預かり処分となっているが、この背景にある真実は良くわかっていない。

なお、1582年に武田滅亡となった際に、ずっと武田家臣であった叔父の奥平常勝らは、徳川家康に許されず殺害されている。
天正壬午の乱では、奥平信昌は酒井忠次と共に武田遺領へ侵攻。
伊那郡で徳川家に協力した條頼安を支援し、酒井忠次らと高島城を攻撃した。

1585年に石川数正が豊臣秀吉へ出奔した際、徳川家康が軍制を武田流に改めた際には、かつて武田家にいた奥平信昌が軍制改革に貢献している。

1590年7月、徳川家康が関東へ国替えとなると、8月23日、上野甘楽郡の宮崎城主となり30000石となった。
この時点で3万石以上になった徳川家臣はまだ少ない。

1600年、関ヶ原の戦いでは本戦に参加し、戦後には京都所司代となり、京都の治安維持を担当。
この時、京都に潜伏していた安国寺恵瓊を捕縛している。
その後、上野小幡3万石から美濃加納10万石へ加増転封され、加納城主となった。

1602年、隠居すると、3男・奥平忠政に家督を譲っている。
1615年3月死去。

鳥居強右衛門の子孫など

一躍高名となった鳥居強右衛門であったが、武田家臣の落合左平次道久は、忠義心に感動し、磔にされている鳥居強右衛門の姿を旗指物として使ったと言う。

なお、嫡子・鳥居庄右衛門信商は、父の功により100石を与えられ、奥平貞昌の子・松平家治に仕えた。
松平家治が早世すると、亀姫の望みにより奥平忠明に付けられ、関ヶ原の戦いにも従軍。
京都では、安国寺恵瓊を捕縛する大功により200石に加増されている。
その後、忍藩の奥平松平家の家臣となり、13代目の鳥居強右衛門商次が家老になるなど厚遇された。
鳥居強右衛門の家系は現在も存続していると言う。

鳥居強右衛門は豊川市市田町出身であるが、妻の故郷である作手村(新城市作手)の甘泉寺には、織田信長が建立させたと伝わる鳥居強右衛門の墓が今でも残っている。

なお、実は、鳥居強右衛門と共に岡崎城へ援軍を求める為、一緒に長篠城を出た人物として鈴木重政(鈴木金七郎重政)と言う足軽がいる。(第2の使者ともされる。)
西岸の寒狭川へ入って、下流を抜けようとした時、武田勢の網に引っ掛かり警鐘を鳴らしてしまった。
しかし、武田勢は「梅雨時の魚だろう」と見過ごし、2人は岡崎城まで辿り着く事ができたと言う。
鈴木金七郎重政も長篠城へ戻ろうとしたが、織田信長が起源だからと留めたとされ、命を落とした鳥居強右衛門の評判が高まると、自身の行動に恥じ入ったのか、帰農したと言う。
その後、奥平忠明が作手を領した時に200石で登用されたとも、水戸家の家臣になったとも伝わる。

鳥居強右衛門の墓

上記は、長篠城の対岸にある新昌寺の鳥居強右衛門の墓。
「わが君の命に替る玉の緒をなどいといけん武士の道」という辞世の句が記されている。
写真後方には新東名が通過するため、30mほどのこの地に移設されたようだ。

横田康景らの墓

すぐ脇には、同じく移転された武田勢の和気善兵衛宗勝(和気宗勝)、高坂八郎助宣(高坂助宣)、小山田五郎兵衛昌晟(小山田昌晟)、横田十郎兵衛康景(横田康景)の墓も並んで安置されている。

和気善兵衛宗勝(和気宗勝)らの墓

鳥居強右衛門の墓の場所は下記の地図ポイント地点。
寺の駐車場は関係者以外立入禁止とあったので、駐車禁止ではない脇の広い道路に短時間だけ停車させて頂いた。

最後に三河・亀山城をご紹介したい。

三河・亀山城

作手にある三河の亀山城(かめやまじょう)は、別名を作手城とも言う平山城となる。

南朝に味方していた上野国甘楽郡岩井奥平郷の奥平貞俊(1348年-1433年)が、天授年間(1375年~1380年)に外戚である作手領主・山崎高元(山崎左衞門高元)頼って、三河にやって来たようで、鴨谷村甘楽寺に居住する。
家臣としては桜井刑部太夫が移住に従っている。
そして、はじめは下記の川尻城を築いたようだ。

川尻城

その後、700貫文となった奥平貞俊は、応永31年(1424年)3月に亀山城を築城したとある。

三河の亀山城

また、異母弟・奥平貞直も兄を頼って作手に移住し、金村に住んだ模様だ。
なお、作手領主の山崎高元は、奥平貞俊に臣従しており、のち山崎家は代々、奥平家の重臣となり、奥平五家老の一家となった。
下記は奥山城への登城口。

三河の亀山城

奥平貞俊の長男が奥平貞久で、松平親長に属したあと今川家に従っている。
その子・奥平貞昌は、今川氏親の遠州・曳馬城攻めに参加した他、井伊谷の三岳山城を攻めでも戦功を挙げ三岳山城の城番を務めた。
その後、松平清康(徳川家康の父)に従うと三州・宇利城攻めにも加わったが、その子が奥平貞勝で、田峯城主・菅沼定継の妹が後妻となっている。

三河の亀山城

この奥平定勝(奥平貞勝)が、冒頭でご紹介した奥平定能の父と言う事になる。

三河の亀山城

関ヶ原の戦いの後、慶長7年(1602年)に、奥平信昌の4男・松平忠明が17000石にて奥山城主となったが、慶長15年(1610年)に伊勢・亀山城へ移封となり、奥山城は廃城となった。

三河の亀山城

奥山城への行き方・アクセスになるが、国道301号線沿いの道の駅「つくで手作り村」の脇から道を入って、奥の方の大きな駐車場まで進むと登城に便利となる。

三河の亀山城

その駐車場から本丸までは約5分で、公園として遺構もきちんと整備されており、子供連れでも登ることができる。

三河の亀山城

駐車場の場所は、当方のオリジナルGoogleマップをご参照願いたい。

奥平仙千代の墓がある場所も上記リンク先の地図にて示している。

長篠城の訪問記・写真
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  1. 2015年 5月 12日

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